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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』I 序論(五)「精神現象学の目的」(その3-3):「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(A)直接知の立場と(B)絶対知の立場!

2024-03-30 14:11:19 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
I 序論(五)「精神現象学の目的」(その3-3)
(10)「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(A)「直接知」の立場!
★ヘーゲルは現代を「実体性恢復の時代」だとする。すなわち(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」だ。これには2通りあるとヘーゲルは言う。すなわち(A)「直接知」の立場と(B)「絶対知」の立場だ。(65頁)

★《精神》における(ハ)「実体性恢復の段階」(A)「直接知」の立場は、(ロ)「反省・媒介の段階」すなわち「ルネッサンス」・「啓蒙」の時代の「有限性」の立場を嫌悪するのあまり、「悟性」を抹殺して直接に「絶対性」の立場へ逆転しようとする立場だ。(65頁)
☆つまり人間が「永遠なもの・絶対的なもの・無限なもの」を「悟性」を媒介することなく、直接的に「感情・情緒」といったもので捉えることができると考える。かくて「悟性」とか「反省」を全く軽蔑する立場だ。
☆それは「ロマンティスィズム」の立場だ。ノヴァーリス(1772-1801)、シュレーゲル(1772-1829)、シュライエルマッヘル(1768-1834)などだ。

Cf.  ノヴァーリス『青い花』岩波文庫(18-19頁)「このとき青年がいやおうなしに惹きつけられたのは、泉のほとりに生えた一本の丈の高い、淡い青色の花だったが、そのすらりと伸びかがやく葉が青年の体にふれた。この花のまわりに、ありとあらゆる色彩の花々がいっぱいに咲きみだれ、芳香があたりに満ちていた。青年は青い花に目を奪われ、しばらくいとおしげにじっと立っていたが、ついに花に顔を近づけようとした。すると花ははつと動いたかとみると、姿を変えはじめた。葉が輝きをまして、ぐんぐんと伸びる茎にぴたりとまつわりつくと、花は青年に向かって首をかしげた。その花弁が青いゆったりとしたえりを広げると、なかにほっそりとした顔がほのかにゆらいで見えた。この奇異な変身のさまにつれて、青年はここちよい驚きはいやが上にも高まっていった。と、突然、母の声がして目を覚ますと、すでに朝日で金色にそまったわが家にいる自分に気がついた。」

☆ヘーゲル((1770-1831))自身もフランクフルト時代(1796-1800年、26-30歳)には「ロマンティスィズム」の傾向を示していた。
☆「ロマンティスィズム」は、『精神現象学』(C)「理性」(BB)「精神」Ⅵ「精神」の終わりにある「良心」あるいは「美魂」の立場に反映している。

《参考》『精神現象学』の目次:(C)「理性」(BB)「精神」Ⅵ「精神」は、「A 真実なる精神」・「B自己疎外的精神、教養」・「C 自己確信的精神、道徳性」(「a 道徳的世界観」・「b ずらかし」・「c 良心、美魂、悪とその赦し」)からなる。

(10)-2「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場!「悟性の反省」の媒介の意義を十分に認めたうえで「実体性」=「直観され表象された全体」を恢復する!
★《精神》における(ハ)「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場は、「実体性」を恢復しようとするが、しかし「直接知」のように「反省」の媒介を抹殺するのでなく、「反省」の意義を十分に認めたうえで「実体性」を恢復する。(65頁)

《参考1》カントの第一批判『純粋理性批判』における認識能力の発展段階は、最初に①「直観」あるいは「感性」がある。それから②「悟性」の能力がある。「悟性」は「直観」によって与えられたものを、総合的に統一づける。だがそれはまだ部分的認識であり、全体的認識でない。そこで③「理性」が全体をとらえようとする。(35頁)
《参考1-2》カントの第一批判『純粋理性批判』の「直観」-「悟性」-「理性」という段階は、ヘーゲルに、その意味を変えてではあるが大きな影響を与えている。(38頁)
《参考2》ヘーゲル『精神現象学』の目次は次のようになっている。(36-38頁)(53-54頁)(333-336頁)
(A)意識:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)自己意識:Ⅳ自己確信の真理性
(C)(AA)理性:Ⅴ理性の確信と真理、
(BB)精神:Ⅵ精神(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」、C「自己確信的精神、道徳性」)、(CC)宗教:Ⅶ宗教、
(DD)絶対知:Ⅷ絶対知
《参考2-2》これを分析すると2つの分け方が組み合わせてされている。(53-54頁)
・一方の分け方では、(A)意識、(B)自己意識、(C)(AA)理性
・他方の分け方では、Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性、Ⅳ自己確信の真理性、Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知

★「反省」の意義はどこにあるのか?(ここで「直観」と「悟性」と「理性」の関係について見ておく必要がある。)(65-66頁)
☆「実体」とは「直観せられ、表象せられ、情感せられる」ものだ。すなわち「生きた全体」(※「実体性」)は「直観せられ表象される」べきものだ。(66頁)

★だが「直観や表象」はまだ「感性」的なもので、個別性・主観性をまぬがれることができない。それゆえそこに②「悟性」の分析が必要となる。(66頁)
☆「悟性」はいわゆる「意識一般」を意味するから、「意識一般」の立場から(※「実体」・「生きた全体」に)思惟規定を与えること、また一々の思惟規定を与えるという意味における「分析」が必要となる。
☆「直観され表象された全体」は、その部分が渾然融合した全体だ。その「全体」を成り立たせる「要素」にまで「分析」するのが「悟性」であり、あるいは「悟性の反省」だ。

《参考》「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」
・(イ)《精神》における「実体性の段階」、すなわち「中世キリスト教」の信仰の時代!
・(ロ)《精神》における「反省の段階」あるいは「媒介の段階」、すなわち「ルネッサンス」から「啓蒙」の時代!
・(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(A)「直接知」の立場!
・(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場:「悟性の反省」の媒介の意義を十分に認めたうえで「実体性」=「直観され表象された全体」を恢復する。

★「悟性」は「一つのまとまったもの」(「全体」)を「分析」し、その側面を区別し、一般的な思惟規定を与える。かくて「直観とか表象とか感情とか」を高く評価する人は「悟性」を嫌う。「悟性」は「全体」のまどやかな統一を殺してしまうので敬遠される。(Cf. (ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(A)「直接知」の立場!)(66頁)

(10)-2-2 「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場(続):「悟性」は常に「独断論」の立場だ!
★「直観や表象」は「感性」的たるをまぬがれないから、「悟性の反省」が必要だ。しかし「悟性」の欠点は固定させるところにある。(66-67頁)
☆「直観」的に与えられたものについて、そのいろいろな側面を区別し、思惟規定を与えるのが「悟性」(Verstand)の長所だ。
☆しかしその一つ一つの規定に固執し停滞してそこから動かないのが「悟性」の短所だ。つまり「悟性」は「有限」的だ。その意味でヘーゲルに言わせると「悟性」は常に「独断論」の立場だ。「独断論」は、ある一つの問題について、一つの簡単な「命題」を立て、あるいは一つの「判断」をくだすことによって、その「真理」をとらえうると考える。

(10)-2-3 「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場(続々):「懐疑主義」によって「悟性」の「独断論」は破砕される!
★だが「悟性の立てる思惟規定」は決して完全なものでありえない。なぜなら「悟性の立てる思惟規定」は「分析」の産物であり、したがって決して「具体的全体」をつくしたものでなく、その一面にすぎないからだ。(67頁)
☆かくて「悟性の立てる規定」は「それとは反対の規定」を呼び起こし、「定立」(テーシス)が「反定立」(アンチテーシス)に転じないわけにいかない。かくて「悟性」の「独断論」は破砕される。ここに「独断論」に対する「懐疑主義」Skeptizismus の意義があるとヘーゲルは考える。
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