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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』I 序論(五)「精神現象学の目的」(その3-4):「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)絶対知の立場:思弁的理性の立場!

2024-03-31 20:02:55 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
I 序論(五)「精神現象学の目的」(その3-4)
(10)-2-4 「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場(続3):「思弁的理性の立場」からの(悟性的な)「定立」と「反定立」の「統一」!
★「悟性の立てる規定」は「それとは反対の規定」を呼び起こし、「定立」(テーシス)が「反定立」(アンチテーシス)に転じないわけにいかない。こうして一つの思惟規定に対し、反対の思惟規定が立てられ、これら二つの思惟規定が「互いに他に転換する」ことによって「統一づけ」られる。(67頁)

★この「統一づけ」は2つあるとヘーゲルは考える。一つは(悟性的な)「定立」と「反定立」とを区別した上で「統一づける」という「思弁的理性の立場」だ。(67頁)
☆もう一つは「定立」と「反定立」の区別を全然なくして「統一づける」という「神秘主義の立場」だ。だがこれは、「直接知」の立場にほかならない。これは最初の(イ)「実体性の立場」に簡単に帰ってしまうものだ。(67頁)
☆これではいけないのであって(悟性的な)「定立」と「反定立」とを統合しはするけれども、どこまでも悟性的な区別を認めた上での統一であることが必要だ。真の理性は悟性的理性だ。これが「思弁的理性の立場」からの(悟性的な)「定立」と「反定立」の「統一」だ。(67頁)

★このようにして、最初に「直観され表象される具体的な《全体》」(「統一」)がありこれが「悟性」によって「分割」され(「定立」と「反定立」)、その「分割」を通じて「統一」が再び恢復され、その「恢復された統一」において初めて「真の真理」が実現される。(67頁)

★このことをヘーゲルは次のように述べる。(68頁)
「《生き生きとした実体》は真(マコト)は『《主体》であるところの有(※存在)』であって、換言すれば『《自分自身を定立するという運動》、または《自分自身の他者となること(※悟性的諸規定)と自分自身とを媒介し調停する働き》であるかぎりにおいてのみ、真に現実的であるところの有(※存在)』である。
・かかる実体は《主体》であるから、①全く純然たる否定の働きであり、だからこそ単純なるものを分割して二重にする働き(※悟性的諸規定の付与)ではあるけれども、それでいて②《相互に交渉なきこの差異項とその対立》(※悟性的諸規定)とを再び否定しもする。
・《真理》とはかかる《再興される同一》または《他在(※悟性的諸規定)のうちから自分自身への『還帰』(反省)》にほかならないのであって、《根源的なる統一》または《無媒介の統一》そのものではない。
・《真理》とは《おのれ自身となる過程》であり、《終わりを目的として予め定立して初めとなし、そうしてただ実現と終わりとによってのみ現実的であるところの円周》である。」

★「根源的統一」というものは「真理」でなく、「一度分割されることを通じて再興された統一」が初めて「真理」である。こういう「弁証法」Dialectic が無限に繰り返されてゆくところに、「《真理》が《主体》である」というゆえんがあり、また「絶対知」が成立をみるというわけだ。(68頁)

★「悟性の反省」(※悟性的諸規定を与えること)は、たしかに「人間」を「普遍的・全体的・絶対的なもの」から「個別的・部分的・相対的なもの」に導き、したがって実生活においても個人の悦楽や幸福を求めさせることになる。(Cf. 《世間知》《専門知識》を得て実利を得ること?)(68頁)
☆「悟性の反省」は「ただ漠然と直観せられ表象せられ情感せられている《全体》」を、「明確なる《思惟規定》」、しかも「自我一般のもつところの《思惟規定》」にまで分割し分析し、最初の「直観や表象」のまぬがれえなかった「個人性や主観性」を洗い落とすところに積極的意義をもつ。(68-69頁)

☆ただ「悟性」の欠点は、個々の「思惟規定」に執着して動きのとれないところにあるが、しかし固執も極限まで行けばかえって「反対の規定」を喚起するから、それはおのずと「理性」となって最初の「全体性」が恢復せられ(「規定」の「統一」がなされ)、しかも「悟性」の与えるものは「自我一般」の「思惟規定」であるから、その「統一」はもはや「実体」ではなくして「主体」である。(69頁)

《参考》「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(62-66頁)
★(イ)《精神》における「実体性の段階」、すなわち「中世キリスト教」の信仰の時代!
★(ロ)《精神》における「反省の段階」あるいは「媒介の段階」、すなわち「ルネッサンス」から「啓蒙」の時代!
★ヘーゲルは現代を、(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」と考える。これには2通りあるとヘーゲルは言う。すなわち(A)「直接知」の立場と(B)「絶対知」の立場だ。(65頁)
☆(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(A)「直接知」の立場:(ロ)「反省・媒介の段階」すなわち「ルネッサンス」・「啓蒙」の時代の「有限性」の立場を嫌悪するのあまり、「悟性」を抹殺して直接に「絶対性」の立場へ逆転しようとする立場!「永遠なもの・絶対的なもの・無限なもの」を「悟性」を媒介することなく、直接的に「感情・情緒」といったもので捉えることができると考える。かくて「悟性」とか「反省」を全く軽蔑する!「ロマンティスィズム」の立場!
☆(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場:「悟性の反省」の媒介の意義を十分に認めたうえで「実体性」=「直観され表象された全体」を恢復する!「定立」と「反定立」とを区別した上で「統一づける」という「思弁的理性の立場」!

《参考(続)》ヘーゲルにおいて「精神」の立場・「理念」の立場は、物事を「全体」的に見てゆこうとする立場だ。「真理は全体である」。(35頁)
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