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「女のおまえ(安藤優子)が偉そうに…」!「個の尊重」は「ワガママ」ではない!「夫婦別姓」!「自民党のイエ中心主義」!議員の「クオータ制」(男女人数割当制)!「新しいマッチョ力、包容力」が必要!

2023-10-30 12:16:54 | 日記
※《参照》「安藤優子さんの『生きづらさ』の正体は…男性社会のテレビ界での経験から」(インタビュー)2023/2/15
※安藤優子(1958生)はニュースキャスターとして報道現場で活躍。現役の40代後半、上智大大学院に入学し博士論文を執筆。2019年(61歳)、グローバル社会学博士号取得。『自民党の女性認識「イエ中心主義の政治指向」』2022年刊行。

(1)「添え物」扱いへの違和感:40数年前、1970-80年代!
ずっと仕事をして感じてきた、目に見えない、ある意味「生きづらさ」みたいなものの正体を探りたかった。40数年前の報道の世界は驚くべき、完璧なまでの「男性社会」。たった1人、おじさんの海に投げ込まれた感じ。しかも、私に与えられたのは男性のメインの司会者の横にいるアシスタントという「添え物」。いろいろなことを言われる。「かわいらしくふるまえ」「かわいくない」とか。「笑わないようにしていた」時代もあったので、若い女子に与えられる役割は決められていて、そこからちょっとはみだそうとすると、ものすごいハレーションが起きる。
(1)-2 「女のおまえが偉そうに…」:1986年(28歳)!
1986年にフィリピン政変でマルコス大統領が亡命した。その時、私(安藤優子)が現地に行っていた。(Cf. この報道でギャラクシー賞を受賞。)その時、「83年、亡命先の米国から帰国したベニグノ・アキノ元上院議員がフィリピンの空港で銃撃・暗殺される事件のVTR」を実況風にリポートしたとき、少しだけ自分の主観を入れた。すると、すごく怒られた。「こう思う」などとはっきり言ったのではなく、形容詞を入れた程度だったが。テレビ局の「偉い人」が怒り、視聴者も「生意気だ」のオンパレード。「なぜ女のおまえがそんなに偉そうなことを言っているんだ」という抵抗感、違和感が当時の視聴者にあった。「メインキャスターの男性」と同じような立場で少しでもものを言ったり、やったりすることへの反発、抵抗。一緒に働いている人たちよりも、見ている方に抵抗があったと感じた。
(1)-3 居場所を作るため「ペット化」:上智大3年のとき(1979頃)に旅のリポート役としてテレビ業界へ!
何をやってもダメ出し。何をやっても気にくわない。「自分たちが一生懸命築いてきた報道という牙城に女子大生がひらひらした服で入ってきて、なんだこいつ?」という思いがあったのだと思う。その割にはすごく優しく、たくさん教えていただき、徐々に取材の機会も与えてくれたことに恩も感じている。しかし「来たな、宇宙人」みたいに思われていた。確かに何も出来ない「ど素人」なので、言われて当たりまえ。でも一緒にやっていかなければならないので、最初は「かわいがってもらう作戦」、「ペット化」する作戦。それも、後から考えて「そうだったんだな、私」と思うわけで、その当時は知恵もないので作戦などというよりは「本能的に」そうしたのだと思う。いつもにこにこして、言われたことは「はい、はい」って言った。
(1)-4 次の作戦は「おじさん化」!
「ペット化」して、なんとなく居場所がみえてくると、次にくるのは自分も「おじさん」みたいにふるまう「同化作戦」。必要以上に「女性」性を捨てる。私(安藤優子)の場合は早くから政治取材をさせてもらったが、当時はとにかく女の記者はいない。しかも、私はアルバイト、フリーで、社員でもない。その私が政治家のところにインタビューに行くと彼らは「ん?なんで女のおまえにこんなに偉そうなこと聞かれないといけないの」となる。そこで「若い女子」と思われないように「女性」性を封印する。例えば何も飾りのないネービーのテーラードのスーツを着たり、1年くらいスカートをはかずにパンツスーツで通す。それまで女性のキャスターやリポーターは原色のスーツが定番。それなのに黒や濃紺のスーツ、スーツの下は白いTシャツを毎日着ていた。一切の飾りをやめ、ある意味「おじさん化」してみせた。衣装を楽しみにしている視聴者もいたので、物足りなかったと思われる時期もあった。ともかく「ペット化」したり「同化」(「おじさん化」)したりして、居場所をこじ開けた。
(1)-5 自分の自然なありようを否定していた!
でも①「女性性を封印すること」や「男性に同化する」ことは、自分の自然なありようを否定すること。また②「女性性を売りにする」ことは、女性をおとしめること。それら①②のどれもが、私自身を含む女性たちに対するリスペクトを欠いている。当時(20歳代)は自分の働き方を客観的に見る余裕すらなく、博士論文に取りかかった(50歳代)ときにそのことに気づいた。

(2)まるでジョーク:女性国会議員の少なさ!
「国会議員になぜ女性が少ないのか」という疑問は常々持っていた。キャスターとして働いていた時もそう感じた。これだけ「男女平等」や「ジェンダー」とか言っている割に、そのエンジンになって牽引していかなければいけない唯一の立法機関である国会、私たちは代議員制をとっているのに、そこに「こんなに女性が少ない」という矛盾。もう冗談、ジョークの世界!その根本に何があるのかを考えたときに「社会学のアプローチ」をとってみたいと思った。「政治や政党のここが悪い」というのが出発点でなく、「果たして私たちに注がれている視線はどうやってこの社会に根付いてきて、どうやってここまで肥大化して拡散してきたんだろうか」という疑問があったので。社会学のアプローチでは「認識」という言葉を使っているが、簡単に言えば女性に注がれている「目線あるいは視線」、「女は三歩下がって」「女は黙ってにっこり笑ってやることをやっていればいい」という「認識」は果たしてどこからきたのかを問いたい。
(2)-2 研究で行き着いた「自民党の女性認識」:「無償の過剰労働」がなぜ女性の美徳?『自民党の女性認識「イエ中心主義の政治指向」』(2022年、65歳)!
研究し始めたら、「自民党の女性認識」に行き当たった。戦後の政権政党としてこれだけ長期にわたって日本の政治を牽引してくれば、自民党が持っている「政治指向とか価値観」がそのまま社会に反映されていくのは事の道理だ。強調したかったのは、女性への「認識」は、ほんわりといつのまにか自然発生的に日本社会に植え付けられたものではなくて、よくよく研究してみると、「自民党の政党戦略として、戦後一度も見直されることなく、常に、戦略的に、再生産されてきた」。このことを私たちは知るべきだ。これがこの本、『自民党の女性認識「イエ中心主義の政治指向」』(2022年、65歳)に託した大きな願いだ。「自民党批判」ではなくて、なぜ私たちはこのような「価値観とか視線」に常にさらされ、戦いながら、仕事をしたり、家庭での立ち位置を決められたり、育児介護を一手に引き受けてきたのか。「無償の過剰労働」を当たり前として強いられてきたことをなぜ「美徳」としてきたのか、そこへの回答を一つ、示したかった。
(2)-3 政治学のアプローチでなく、社会学のアプローチをとる!
修士課程では政治学だったが、「政治学のアプローチ」は政党のシステムとか選挙制度など、制度論に行きがちだ。でも、制度がたとえ男女平等に配慮したものだったとしても、それを運用・活用する側の「意識」が変わらない限りは絵にかいた餅だということを強く感じていたので、博士論文を書く段階で「社会学のアプローチ」に変えた。

(3)差別発言で露呈した人権意識の低さ!
岸田総理大臣が同性婚によって「社会が変わってしまう」と発言したり、荒井勝喜秘書官が差別発言したりしたことの一番の問題点は「個人の尊重」がないこと。安倍政権を筆頭に自民党が掲げてきた「女性が輝く社会」というスローガンの下にずっと実施されてきたのは、主に経済政策つまり「女性を労働力として市場に戻すための政策」だった。「人権意識」とは何かというと、男性でも女性でも性的少数者でもどんな生き方をしていても、「その人が個人として認められる権利」が「人権」だが、その「人権意識」が欠落しているからああいう発言になったのではないか。
(3)-2 「個の尊重」はワガママではない!
☆「選択的夫婦別姓」の問題も、国連では「人権」問題なのに、日本にその意識が希薄だ。「イエが壊れる」とか「社会が壊れる」とかという問題ではないのに、根本的な誤解をしている。「そこをごちゃごちゃにしている」ということが今回露見した。
☆政策で「多様性を重んじよう」とか、「誰もが生きやすい社会」とか言っているにもかかわらず、「生きやすい社会=誰もが働ける社会」となっている。そうではなくて、「誰もが自分らしくいることを認めてもらえる」のが「人権」だから、そこを間違ってほしくない。
☆「個人の人権、生き方」を尊重してほしい。「母親になって、妻になって初めて一人前の女だ」というのはおかしい。そうならないと「社会保障」につながれないなんておかしい。
☆1人の人間が「個」として尊重されれば「家庭」だってもちろんうまくいくはずだし、「個」が尊重されない「家庭」は呪縛以外の何物でもない。
(3)-3 「晩婚化が少子高齢化を押し上げている」?「責任転嫁」や「問題のすり替え」を許してはならない!
「家族の形」や「社会の慣習」は変わるものだ。保守派が描く「イエ」のモデルは、実態として日本社会の多数派なのか。税金を試算するときにパパとママと子ども2人が「標準家庭」だが、そういう家庭は何割いるのか。社会の変化を無視して、保守派のように常に自分たちが理想とする「イエ」の形を引きずるのが、果たしてフェアなのかどうか。そういう風に生きられない人もいるし、生きたくない人もいる。「晩婚化が少子高齢化を押し上げている」と発言した閣僚がいたが、「晩婚にならざるを得ない理由」、「子を持ちたくても持てない理由」に考えが及ばないで、「晩婚になってしまった人を責める」。それは「責任転嫁」や「問題のすり替え」で、看過できないし、するべきでない。
(3)-4 「夫婦別姓」:何十年検討すれば気が済むのか?
「夫婦別姓」も「選択制」であり、みんなにそうしてくれと言っていない。法案が出されたのが30年前なのに、先日の岸田総理の答弁は「自民党内の意見も踏まえ、しっかりと丁寧に検討していく」だ。何十年検討すれば気が済むのか?「私たち死んじゃう」という感じだ。「防衛費の増加」はあんなに簡単に決めるのに、なぜ「夫婦別姓」は決まらないのか?
(3)-5 「個の尊重」でみんな「ワガママ」になる?
「いき過ぎた個人主義」という言葉があるように、「自民」のみならず社会全体の意識として、「個の尊重」と「個人主義」(ワガママ)を混同している。「個を尊重すること」は、「個人主義=ワガママ」ではない。そうではなくて、「個の尊重」とは「個人の自由を尊重する」ことである。「わがまま」・「やりたい放題」と「自由」は異なる。
「個の尊重」ができないから、同性婚を求める人たちが「あなたたち、なんでそんなワガママ言うんだ」っていわれる。でも、彼らは誰のことも脅かさない。「個の自由を尊重すること」は「ワガママ」とは全く別だ。

(4)「自助」の肥大化が、女性を「家庭長」に押し込める!
とりわけ問題は「家庭の中ですべてを解決しろ」という「自助」の肥大化、「自己責任」の肥大化だ。端的に表れているのが「ヤングケアラー」の問題だ。女性を「家庭長」(※)と位置づけた自民党の「日本型社会福祉」論は、自助・共助・公助を基本にうたい、「自助がきちんとできていれば共助も少なく公助に至ってはさらに少なくていい」と主張する。
 ※「家庭長」:「主婦」に代えた呼称で、家事・育児・介護など家庭を切り盛りする役割。自民党の政策基盤となった1979年の「研究叢書」にまとめられた「日本型福祉社会」は、「女性」は家庭を守る「家庭長」であるべきだとした。
(4)-2 「女性」は無料で家事育児、さらにパートに行け!
「国の福祉予算が減免できる」というのが、自民党の「日本型福祉社会」論の目玉だ。その減免される部分を「家庭長」である女性が「家庭内安全保障」の担い手として、「無料で」子どもを育て、ご飯を作り、介護し、お父さんを送り出し、その他もろもろやって「空いた時間に」パートに行けと言う。社会の基本は「家庭」だから、何でも「家庭」に任せ、何でも「家庭」の中で解決しろ、と言う。これはあまりに個々の「家庭」に寄りかかり過ぎだ。
(4)-2-2 「自助」が楽に成立するための「公助」をしてほしい!
むしろ「自助」を成立させるための「公助」であってほしい。「自助」が楽に成立するための「公助」をしてほしいと言いたい。しかも「共助」だって地域頼みだ。(介護も含めて。)
(4)-2-3 「家庭を持たない人間」はいないも同然!
一方で、「家庭を持たない人間」はいないも同然のような扱いを受けてしまう。おかしい。 
(4)-3 「個人」より「イエ」中心:「自民党のイエ中心主義」!香山健一『英国病の教訓』(1978)!
「自民党のイエ中心主義」が生まれた背景に、『英国病の教訓』(1978)の著者・香山健一さんらブレーンの存在があった。すなわち「ゆりかごから墓場まで」と言われた英国の福祉政策は大失敗で「すべての人々に等しく福祉(パン)を与えると働かなくなり、自らの権利ばかり訴えて国家に依存するようになる、日本は二の舞になってはならない」と。家庭、ムラ、地域社会など、小集団、中集団、大集団の「集団主義」を大切にして、お互い助け合いながら生きていく、「家父長制の再評価」によって新しい価値観をつくろうとしたという流れがあった。「イエ」の構成員か「会社」の構成員か「地域」の構成員か、それとも「国」の構成員か。「市民」じゃなく、「国民」。そこには「個人」というのは入っていない。「個の尊重が邪魔」というよりも、「個の尊重」という認識をすること自体を避けてきたと言える。
(4)-4  マイナンバーにひも付ければ「夫婦別姓」にしても何も困らない!
「個の尊重」を否定・無視するのに自民党は、マイナンバーカードを奨励する。マイナンバーにひも付ければ「夫婦別姓」にしても何も困らないはずだ。そこに矛盾を感じる。「総背番号制」にしたいのは「合理的に物事を運びたい」、「税金を取りっぱぐれたくない」などの理由にすぎない。

(5)議員の「クオータ制」(男女人数割当制):「均等は無理」と知らんぷりする政党…「候補者の均等」の義務化を!
議員の「クオータ制」(男女人数割当制)について、少なくとも「候補者の均等」を義務化するべきだと「本」(『自民党の女性認識「イエ中心主義の政治指向」』)に書いた。「議席数」を男女均等に割り当てろではなく、「候補者の数を男女均等」にしましょうと書いた。理念法(「政治分野における男女共同参画の推進に関する法律」)が成立したのに「均等は無理」と知らんぷりしている政党が存在しているので、一度「時限立法」で義務化して、あとは有権者に委ねることを一度やる価値はある。やってみれば、スタートラインに立つことの大切さを男女ともに分かってくると思うし、有権者も政党も何か「経験知」を得ると思う。義務化を恒常的に「法制化」するか否かはその後に議論を始めればいい。「女性議員が増えないとどんなデメリットがあるのか?」との反論は常にある。だが「まだやったことないし、やってみないから分からない、だから一回やってみませんか」と言いたい。 
(5)-2 政治家が「均等は無理」と言う理由は「現職の壁」!
議員の「クオータ制」(人数割当制)について、こないだも自民党の某大物政治家に言ったら、軽く「無理だな」と言われた。「政党としてこれくらいの人数の女性『候補』を連れてくる」という数値目標を出す。それくらいならできるかもしれない。だが「現職の壁」が高いから。席に座っている現職に「次の選挙は出ないで」とは言えないというのがその理由だ。そして現職が退くときは常に、身内や、自分に忠義を尽くしてくれた県議に譲るとか決まっていて、新規参入を許す幅がない。それなら「法制化」でこじ開けるしかない。そうでもしなければ現状のままだ。
(5)-3 自民党にも分かっている人は大勢いる。ただ…!
今の民主主義は、長きにわたり男性たちだけがつくってきた。そんな中で、平等な権利を体得するために女性たちのいろんな戦いや活動があり、歴史があった。最良とはいわないけれど、少しでもベターな民主主義を自分たちのものにしようとしてきた歴史が、フェミニズムの歴史だったりする。何度も何度もしつこいぐらい言い続けないといけない。自民党にも分かっている人は大勢いる。ただいざとなると、(ア)現職に「次はない」と言えるか。(イ)新人の女性候補を連れてきて本当に勝てるのか。(ウ)政治家は勝たなければただの人だし、議席を減らしたら政権党から転落するかもしれない、そういう危機と隣り合わせだから、政党にとってのリスクが高すぎる。これら(ア)(イ)(ウ)は次にクリアしなきゃいけない研究のテーマだと思う。「なぜ女性候補を増やすと良いのか」、「増やすことへの実質的なメリット」を可視化してみたい。

(6)安藤優子キャスターが大学院に飛び込んだ理由!
取材をして、いろんな歴史の転換点の目撃者になったりするけれど、そしてテレビを見ている皆さんに実況中継としてお伝えすることができても、なかなかそれを俯瞰(ふかん)で見て、今起きていることと過去にその国で起きたことを線で結ぶことがなかなかできない。ずっとそれが「知識不足だ」という強迫観念みたいなのがあった。ニュースをやりながら「もう一度学んでみたい」という思いは常にあって、マックスになっているときに修士課程に飛び込んだ。「もうこりゃだめだ、行こう!」と。亀の歩みだった。博士号をいただいて、それから本にするためにまたちょっと時間がかかった。「修士3年、博士5年、博士論文執筆に4年で、12年。」自分でもどうやったか覚えていないくらい大変だった。

(7)「分かってよ」じゃなくて「サポートしてよ」!
2023年1月に英国大使館であった、「ジェンダーに配慮した議会改革」を推進するエディンバラ大のサラ・チャイルズ教授のレクチャーに参加した。彼女は会場にいる男性たちをぱっとみて「We need your support」と言った。良い言葉だ。「ここに来ているあなたたちは来ただけでもすごい、あと一歩進みましょう」と。私にはズシンときて「あ、そういう言い方をすべきなんだな」と思った。「分かってよ」じゃなくて「サポートしてよ」と。「一緒にやっていく」というスタンスがもしかしたら私たちもちょっと欠けていたのかもしれない。
(7)-2 敵対の構図は古い!
サラ教授は「敵対の構図は古い」という言い方をしていた。フェミニズムがやり玉にあげられてきたバックラッシュの時代も含め、四半世紀以上、敵対の構図が支配してきた。しかし「どうやったらお互い気持ちよく共存できるか」という時代に入ってきている。それは「責任をシェアする」ということだ。
(7)-3 女性の問題を解決していく運動とか活動は、男性にも協力してその責任をシェアしてもらう! 
例えば性暴力の問題がそうだ。加害者がいるから被害者がいるわけで、「被害者が加害者から襲われないように身を守るように一方的に責任を負う」のはおかしな話で、本末転倒だ。本来は「加害意識を猛省して解決に向かっていく」という加害者の問題であり、責任だ。なんでレイプされた女性や子どもたちがひどい差別を受けたりしなきゃいけないのか。責任の所在のアンバランス、アンフェアさというのは、本当におかしい。女性の問題を解決していく運動とか活動というのは、「男性」にも「協力してその責任をシェアしてもらう」必要がある。
(7)-4 「女性」の問題だから「女性」が解決?
あるときジェンダー平等関係の取材が海外であって、私(安藤優子)の男性の上司は「女性だけの取材団を作ろう」と、女性のカメラマン、音声、ディレクター、キャスター。「あるある!」でありがちな話。女性軍団を作ることで「どれくらい自分が女性問題に理解があるか」を男性の上司は示したつもりだし、「実際に女性がこのくらい活躍していること」を彼は示したかったのだ。でもそれは見方を変えると「これは男の問題じゃないからね」という姿勢だ。今までの社会は、一事が万事そうだった。これは「女性」たちの問題だから「女性」たちで解決しろよ、みたいな。それではやっぱりダメじゃないか。もう「女性と男性が一緒に解決する時代」に入っているし、解決への責任をシェアしないといけない。
(7)-5 「女性」は、もう十分頑張っている!「優しい男子力」というか、「新しいマッチョ力、包容力」が必要!
これまでにも増して女性がいろんなことに対して声を上げるようになった。そこで「正しい男子力」が必要だと思う。「優しい男子力」というか、「新しいマッチョ力、包容力」というか。新しい地平を見たい、と思ったときに、何が一番必要かというと「男性も女性も共に協力すること」。そういう押し上げがなく、「女性だけが頑張っている」というイメージだと絶対的に世の中は大きく転換していかない。女性は頑張っている。もう十分頑張っている。これ以上、女性に頑張れとは言いたくないし、言う必要もないと思う。男性たちに「あなたたちのサポートなしには絶対に動いていかない。今こそ協力してくれないと、あなたたちだって居場所がなくなるし。居心地悪いよ」と言いたい。そこをぜひとも、声を大にして言いたい。理解していただきたいなと思う。
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