Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

「愛の宣誓」の口籠り

2024-05-18 | 
久しぶりにギドン・クレメルの演奏を聴いた。四半世紀以上ぶりだ。30年前にフライブルクで聴いて以来かもしれない。ピアニストとのアファナシスとの共演で、音を出さない所の音を聴かせるシューベルトで、こういう演奏があるのかと思った。それ以来アンサムブルを形成してとかで殆どソリストとそては引退同然だったと思う。

若い時のシニトケのショスタコーヴィッチが亡くなって暫くしてのその演奏が今でも記憶に残っている。そして今回もアカデミーのアンサムブルをどのように率いるかがとても楽しみだった。結果的には完全にアンサムブルに乗っかって遊ぶような演奏だった。

一曲目のブルックナーの五重奏もよりそのアンサムブルとの乖離は激しかったのだが、マーラーのアダージョはその音楽の対位法的な特性からより興味深い演奏となっていた。その弦楽は全く若い時から変わりなかったことを改めて確認した。よりそれが力が抜けた形での演奏で、このアダージョでの音の抜け方に最適で、こういう弦楽合奏が大交響楽団で出来たら理想的な演奏だと思った。

当晩のプログラムには、この音楽会のタイトルであった「愛の宣誓」の意味が妻のアルマが既に建築家のグロピウスのところに走っていたことを説明していた。するとこうした音楽の構成もよく分かる演奏で、なにも全ての音を同じようにはっきり発音すべきではないという楽曲とその演奏の典型で、ソヴィエトでオイストラフの弟子として紹介されていたがそもそものリガの家庭環境があまりに違い過ぎて、母方の祖父はスェーデンの弦楽の教祖みたいな人らしい。兎に角、音楽の語り口があまりにも堂に入り過ぎていてあのような演奏に合わせられる人はそこいらの素人ではいまい。

休憩後は下りたので私の前の席に座ったのだが、私を見て目を丸くしていた。演奏中から気が付いていたとは思うのだが、山本耀司を着るという彼のよれよれの衣装よりも私の衣装が派手ということだろう。聴衆の一人が「どこで買ったんか」と尋ねた。また入り口で休憩後に入る時に時々検査していたお姉さんに見せると、アイリメンバーと言われ、なにを覚えているんだよと返したくなる。

ここ暫くで、靴も適当なものを新調したので、選挙候補者ではないが演奏家の衣装よりも目立つで突しようかと思っている。例えばクレメルの横に座っていたおばさんはアカデミーの講師でもあるアンティア・ヴァイトハース女史だったようでブロンド乍立ち振る舞いやクレメルとの話しかたもとても地味な人だ。調べると私の友人の仲間だったようで共通の知り合いがいたのだった。

そして後半のブラームスの演奏を聴いていて、最後のチャルダッシュのようなところで真後ろからこうした世界の頂点の人の拍子取りを見ていてとても興味深かった。女史の方もやはり分かったがやはり拍子感がちとまた違う。良く目の前に座ったりする作曲家はこちらが認識するほどには身体を動かすようなことはないのだが、やはり演奏家違うのだ。

アカデミーの生徒たちはこうした大名人に目を振れない様にアンサムブルを作っていた。例え一緒に演奏してもそういうこともあり得るのかと思った。それでいうとやはりプロのアンサムブルの演奏者は自らが細かくリズムを取って合わせている。こうしたアカデミーはソリスト志向が多いからであろうが、こうした機会があってもその程度しか活かせないのかと意外であった。



参照:
プファルツの森から挨拶 2024-05-17 | 女
重要なその視座と視点 2024-05-12 | 文化一般
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