日々・from an architect

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村野藤吾、菊竹清訓と早稲田(Ⅱ)三つのエピソードのⅠ

2012-01-22 21:18:47 | 建築・風景

年末から新春にかけて、建築家にとって興味深い二つの番組が放映された。
一つは1月2日の「20世紀の革命児―ル・コルビュジエのメッセージ」(BS・TBS)で、もう一つが東大を卒業した後菊竹清訓の元で建築を学んだ伊藤豊雄を追った「希望のまちデザイン 建築家伊藤豊雄 釜石に臨む」(2011年12月31日、NHK総合1)である。

「コルビュジエのメッセージ」は冒頭に、ル・コルビュジエの設計を、弟子の前川國男、坂倉準三、吉阪隆正の三人がサポートして建てられた国立西洋美術館が映し出されて「この建築は戦後の復興期に建てられた美の殿堂、時代の最先端を行く建築だった」というナレーションの後に、日本を訪れたル・コルビュジエを囲んだ前川國男と坂倉準三のいる写真が現れる。
それだけで僕たち建築家の胸が騒ぎ出すのだが、この番組の中でも伊藤豊雄が登場してコルビュジエへのオマージュを語っている。(この番組は2009年に作成された)

気になるのは伊藤の釜石復興計画のほうだ。
被災を受けた岩手県釜石市の住民に請われた復興計画の策定・提案は、共同住宅でも良いという住民の意向を受けて、1階をピロティにして津波対策をし、住戸を上階に行くほど後退させた三角形で構成し、中央を住民の交流の場とする共同住宅である。
視点を変えてみると、60年代から70年代にかけて建築界から発表・提案された人工地盤構築ともいえ、「メタボリズムの未来都市展」(2011・9.17~2012・1.25森美術館)で紹介された菊竹清訓の「層構造モジュール」を思い出した。その数棟を例えば白川郷の民家群のように点在させる。

住民が納得して復興の可能性に期待する様子を見ると何もいえなくなるが、気になるのは層構造モジュールとの類似ではなくて、隣町と同じような「まち」になって良いのかと住民を誘導する伊藤の発言と(何故隣町と同じ景観ではいけないのか?理解ができない。)路地のない町並み提案だ。
とは言え考えることもある。
街(村落)には、生まれ出(いずる)ものとつくるものがある。僕のどこかに生まれ出ものを大切にしたいという想いがあるのだが、被災する前の釜石のまちはどうだったのだろうか!

僕はほぼ40年前菊竹さんの夢見た未来を想う。僕の親しい横浜の建築家は、伊藤さんの提案は丹下に並ぶといわれた菊竹さんへのオマージュなのだろうというのだが・・・メタボリ展の菊竹と菊竹事務所に在籍をしたことがあり、弟子ともいえる伊藤豊雄という今の時代を担う建築家の思索を導き出してくれたエピソード、これが1である。(この稿続く)


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