日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

三つの隈研吾 Ⅲ 歴史探訪館と広重美術館 

2006-05-28 10:59:31 | 建築・風景

三つの美術館はいずれも2000年に竣工した。
設計を始める、つまり構想、イメージを膨らませ始めたのは石の美術館が1996年、といっても石のルーバーを発見するまでにかなりの時間が掛かっているという。次が広重美術館で1998年、歴史探訪館は翌年で設計に要した時間はいずれも6ヶ月とのことだ。

よく知られ建築界に刺激を与えたのは村野藤吾賞を受賞した「馬頭町広重美術館」だろう。
作品集GA ARCHITECT19では1994年以降の自作を「弱い建築」というキイワードで述べているが、2001年に東大を会場として行われた建築学会大会で、この美術館の映像を映しながら隈さんが述べたのは格子の発見だった。

僕の記憶では二重の格子の重なりを映像で映し出しながら京都の町屋に触れ、日本文化を捉えた!と言ったと受け留めた。実はそのときの僕はその論旨に違和感を覚えた。というのは日本人の誰しも持っている潜在意識を顕在化させて発見したと言っていいのかと感じたのだ。同時に京都の連子格子を二重の重なりで言い表してよいのかとも思った。しかしその後の隈さんの作品を見ていくにつけ、これが隈さんの美意識で、映し出された映像自体が作品だったのだと気がつく。写真や映像では建築を捉えられないと石の美術館で述べているが、まさにそういうことなのかもしれない。

訪れてみて感じたことがある。
作品集では設計者の思惑によって伝えたいことだけを切り取る。或いは撮る写真家の想いと設計者のコラボレーション、つまりお互いが刺激を受け合った表現もあるかもしれない。それを受け留める僕たちは、想像力を働かせてイメージを構築する。しかし現実は人里はなれた山里にあると思った建築が開けた街中の一角にあって、街のたたずまいと一緒にしか見ることができなかったりする。だからと言ってその建築が面白くないということではないのだが、広重美術館がそうだった。

歴史探訪館は、御殿山に向かう樹林の濃い歴史探訪散策道に寄り添うように建っている。まず眼に入るのは白漆喰で新しく作った蔵だ。その手前の石の門を通って階段を上ると透明の強化ガラスで仕切られた塀が自然の中にあって館銘が書いてある。その先にこれも真新しい長屋門があり、そこをくぐると正面には何もない。山林を切り開いて眼下に街が望める仕掛けになっている。それには意表を突かれるし同時に仕掛けを作りたいという思いに納得もする。
本館の前室・風除け室には、地元の鳥山和紙が使われ床は白河石、全面に使われたガラスによる外壁は、見事に周辺を写し取って自然と同化していると言って良いかもしれない。でも皮肉っぽくいうと、眼で見るより写真でのほうが設計者の思惑が鮮やかに浮かび上がるのだ。

この建築に対して何故こんないい方をするかというと、まったく論理的ではないが、やりたいことは瞬時に解り、そしてそれは正解だと思うのだが建築として醸成されていないと感じてしまう。しっくりこないのだ。練る時間がなかったのだろうか。建築を創るには溜めておく時間が必要なのだとおもう。
モダニズムは具象を廃し建築を抽象化した。蔵や長屋門は具象だ。中央部のガラスの透明な壁面は外部のランドスケープを写し込んで自然と一体化したが、その抽象性と具象との取り合いが気になる。言葉や理論は大切だがそれがまだちらつくのはどうなのだろう。言いたくはないのだが時間が与えられないのは辛い。さて広重美術館のほうはどうなのだろう。

芦野から20分ほど車に乗ると馬頭につく。大きな駐車場が車で埋まっていて整理員が誘導している。アプローチにも大勢の人がいて賑やかだ。ミュージアムショップにも人が群がっているし、繋がっているレストランも一杯だ。なんだか道の駅のようだ。
地域文化活動の活性化を目標として開館したとリーフレットにも記載してある。この様子を見ると人々に受け入れられ、まさに街づくりに大きな役割を果たしているといえるだろう。
この美術館はこの近くの氏家地域の肥料商、青木藤作が大正から昭和にかけて収集したコレクションの寄贈を町が受けて作られたが、広重の肉筆画が数多く含まれているので「広重」美術館と名づけられた。広重がこの地とまったく縁がないのも一興。

防腐剤と防火剤の技術が木材を充分に耐えさせることを受けて隈さんは大胆に使いこなした。何処か危ういところがまた面白い。弱いというのも悪くない。とは言え本当にこのグレーになった古色的な外部格子と格子で作られた屋根はしぶとく長持ちするのだろうか。

浮世絵に眼のない娘は、食い入るように企画展サントリー美術館収蔵展に見入っている。僕は建築を観にきたが、浮世絵を見たい娘が同行してくれた。娘の好きな春信もある。質の高い展示だが僕の隣のおばちゃんは、暗くて見にくいとぶつぶつ言っている。浮世絵や版画は光に弱くて照度を下げざるを得ないのだが、道の駅に来るように見に来る人がいるのも面白い現象だ。浮世絵は日本人の心に深く刻み込まれている。リピーターも多いのではないだろうか。

人のいなかった芦野の歴史探訪館が少し気になってきた。
僕は建築を見るために訪れたが、展示を観るにつけ歴史の資料館のあり方は難しいと感じる。どこでも過去の遺産展示なってしまい、今・現代との接点が無くなってしまう。
ふと昨年の夏(もう秋になっていたか)訪ねた大阪天神橋六丁目にある「大阪市立住まいのミュージアム」の8階展示室「モダン大阪・パノラマ遊覧」の常設展示を思い出した。

<歴史の移り変わりを見たい>
面白いのは北船場の模型展示だ。
江戸の名残を残す町屋による街並みが「軒切り」という都市計画手法によって建屋を一間切り取って(強制的な壁面後退によって道路を拡げる。凄いことをやったものだ)道を広げた街区と、まだ施行さていない道の真ん中には火の見櫓がある。そうかとかと思うと、商家の店先の畳の部屋に椅子が置かれてオフィスになりかかっているし、街の一角に「生駒ビル」が建っている。
近代化の始まり、この地域に近代建築が建てられ始めた昭和7年(1932年)、その時代を切り取ったのだ。この年とこの場所を選んだ館長をはじめとする担当者は凄い。

でも!僕は親しくなったS副館長に、更に現在、つまり2000年の模型展示をみたいと述べた。そして年毎に更新していくのだ。そうすることによって昭和7年からの70年の軌跡と、僕たちは何をしてきたか、これからどうすればいいのかを考察できるはずだ。そういうことを言われたのは初めてだと、驚いたようだが頷いてもくれたのだ。
その「生駒ビル」がまだ在るという。観たい!
好奇心に駆られて33度c、熱帯の街を荷物を背負ってよろよろと歩き回った。コンクリートの街並みの中に一握りの町屋がひっそりと建っている。そして一休み、怪しげな彫刻の張り付いた「生駒ビル」一階イタリアンレストランで、可愛い娘のお勧めパスタとコーヒーを楽しんだ。

芦野の歴史は興味深い。過去の遺物展示だけでなく、現在に繋がる歴史探訪館にはならないものだろうか。建築を創るということはそういうことではないだろうか。

このあたりは蕎麦の郷。どの店も満席で困った。美味いのを喰いたいので大変だ。天気のいい春の連休、考えることも多かったが楽しい建築巡りだった。時間ができたので神様に出会う益子へ向った。


三つの隈研吾 Ⅱ 石の美術館

2006-05-22 12:47:06 | 建築・風景

那須町芦野はのんびりしたとてもいい集落だ。言い方を変えると何もない街。連休の朝9時半、人がいない。カーナビが古いからか「石の美術館」が出てこない。町並みを眺めながらゆっくり車を走らせていたら愛妻が「過ぎちゃったんじゃあないの」という。あれ!っと思ってUターンする。車もいないから平気なのだ。

昭和29年(1954年)芦野町、那須村、伊王野村が合併して現在の那須町が生まれたが、江戸時代には奥州道中の宿場町、また旗本芦野氏の城下町として発展してきた由緒ある場所なのだ。
石の美術館はその本陣跡に建っている。歩いても3,4分の御殿山に向かう芦野城三の丸の跡地に「那須歴史探訪館」が石の美術館と同じ年2000年に建てられた。いずれも設計は隈研吾、しかしこの二つの建築の印象はずいぶんと違う。

隈さんはGA ARCHITECT19で「弱い建築」というキイワードで二つの建築、いや広重美術館も加えると三つの建築を述べているが、どうもそれは隈流の、悪口っぽく言えば理論先行意思表明のような気がする。
そうでなくてもこの石の美術館はとても魅力的で、僕は弱い建築という観点からは考えたくない。しかし日本における「石」についての論評はなかなか難しくて、例えば岡田新一の最高裁判所の花崗岩張りの外壁は、張りぼてで石の重量感や存在感を損なうと批判されたりした。そこで隈さんは「石は強すぎる」強いものは弱くできないかと考える、と敢えて書くのだ。

弱い理論を実践するために「ある日、石でルーバーを作ることを思いついた」。
そこまで弱いことにこだわった言い方をしなくてもいいような気もするが、この石のやり方がイタリアの国際石材建築大賞(こういう賞があるのか)を得たそうで、彼のにんまりする顔がちらつき、思わず僕もにんまりする。連れションみたいに・・・
一方歴史探訪館のほうは、残念ながらその理論がこなれていない。やりたいことは痛いくらいわかるのだが。

何故、探しながら走っていて見過ごしてしまったのか、それは色かもしれない。この美術館は石で造られているが、この地場で取れるグレーの芦野石は正しく街の色なのだ。
道路に面して水が張られ、同じ色彩の隣の地域福島県の白河で産する白河石を貼った通路を渡って、80年前に建てられた芦野石による石蔵につくられたエントランスホールに向かうのだが、際どい事をやっていながらうっかり通り過ぎるほど街に溶け込んでいる。

建築家は創る・造りたい人種だ。そこに作品として屹立させることによって己を表現したい。それは「業」(ごう)のようなものだが、それを消してみせる。究極の弱い建築、とついつい僕も理屈を言ってみたくなるのだ。

ところで僕が書きたかったのは、こんな建築論ではなくこの美術館の中のブースの一つ`石と光のギャラリー`で放映しているビデオで、NHKのアナウンサー山根基世さんを案内しながら「映像や写真では表現できない、ここへこなくてはわからない建築を創った」という彼のコメントだ。ここでは「創る」という文字を使ってもいいだろう。
連休の前に僕はニコンのフラグシップレンズDX,NikkorED17-55F2,8Gを手に入れた。銀塩かデジタルか、デジカメで建築が撮れるかと悩み、それは楽しい悩みでもあるのだが、使わなくなったレンズを何本か処分したのだ。デジカメにトライする僕の決意、それを隈さんは写真では俺の建築は表現できないというのだ。

よし!と思った。しかし大正から昭和にかけて造られた三つの石蔵と、ルーバー状の芦野石で組んで造ったギャラリーと通路で構成したこの小さな都市空間はなかなか撮り尽くせない。癪だが撮らされる。
一棟の建築ではなく幾つかのブースを点在させて組み合わせるのは、スケッチしていても楽しいだろう。僕の卒計は当時流行った「アミユーズメントセンター」で、一棟の中に押し込むのではなく幾つかの建築の組み合わせを考えたことを思い出した。まとめるのは厄介だったが面白かったのだ。
さて石蔵は存在感が在ってしかも内部に思いがけない広さを持っているが、それを繋ぐのは弱い建築にしくはないかもしれない。

それに僕の気に入った石と取り合わせた鉋をかけない木の質感、電気を消すと現れる闇と光(これは白井晟一の世界ではないか!)、スライスされた石を通して浮かび上がる外光、それらが持つ空気感表現が難しい。でも村井修さんの撮った竣工時の透けて光に満ちた林昌二さんの設計した「三愛ドリームセンター」にはそれが写っていた。
これは、機械つまりデジカメと銀塩の問題ではないだろうなあ。

この美術館には朝がまだ早いのに、親子連れや若いカップル、それに僕と同じく建築しか観てない建築家らしき若者、写真を撮り巻くっているいやな奴(笑)がいた。そいつは(失礼)広重美術館にも現れた。愛妻と娘は目を見合わせて笑っている。

建築巡り 三つの隈研吾 Ⅰ 

2006-05-17 10:58:20 | 建築・風景

梅窓院の竹林を見て建築家隈研吾が気になりだした。
南青山の青山家代々の菩提寺「梅窓院」を、文化ホール機能や集合住宅機能などを併せ持った都市型寺院として再生させたというこの建築のアプローチの両側に、ワイヤーで引っ張られ、斜めに起立する竹林が作られた。人はここを潜り抜けるようなカタチで入り口に向かう。
そこを歩くと妙に心が騒ぎだす。この竹林に隈研吾の都市感を視るといいたくなる。

誘われて梅窓院プロジェクトの一角にある隈さんの事務所を訪れた後、和食店 `暗闇坂 宮下` に案内して貰った。この壁に新潟高柳の小林康生さんの漉いた和紙が使われていて、その和紙を丈夫にするという「こんにゃく」の汁の様子や、ダイオードを使った照明トライの様子を、そっと触れてみたり見上げたりしながらうまい酒を飲み懇談した。
一見朴訥だが、しかしシャープにしゃべる隈さんとの会話は面白い。同行した内田青蔵さんや韓国の留学生李さんも楽しそうだ。

嘗て新潟のRC造、西脇町小学校保存に関するシンポジウムのために現地を訪れたとき、同じパネリストを務めた美術評論家の大倉宏さんと共に、地元の建築家に案内されて高柳の民家に一泊したことがある。
その席に小林康生さんが訪ねてきてくれ、一緒に飲みながら和紙談義をした。そしてその小林さんと組んで創った隈さんの「高柳町 陽の楽屋」を数年前の夏休みに愛妻と娘で訪ねたことがあり、そんなエピソードを盛った話は弾み、そのときのお礼状に僕はこう書いた。

「モダニズムの源流を考えているとき、ふと思いついて本棚にあった隈さんのグッバイ・ポストモダンを読みました。実作のチャンスに恵まれないことが、彼らの論理を、彼らの言葉を強化する。そのようにして70年代が過ぎる・・だが・・80年代は彼らに一挙に実作のチャンスを与える、とありますが、まるで隈さんご自身のことを書いているようでもありますね。それにあの竹林の非日常性に刺激を受けます」と。
気配、ただならぬと言いたくなるような。つまり非日常性。何故彼はああいう竹のざわめきを造ったのだろう。創ることに一瞬をかけようとした僕の若き日の思いが頭をよぎったりする。
そして隈さんからの返信メールは、今度はグッバイ・ポストモダンと竹林談義をしましょう、というものだった。

1989年に書かれたグッバイ・ポストモダン(鹿島出版会)の文体はいかにも隈さんらしく飄逸で、第一章「大いなる世代」はこういう風に始まる。
『話は、1960年代のはじめにさかのぼる。場所はニューへブン、イエール大学の一教室。茶色のツイードのジャケットを着た一人の神経質そうな若者が古今東西の建築の大量のスライドを交互に映しながら、誰も聞いたことのないような妙な話をしている。彼の講義は後に一冊の本にまとめられ、その本は建築の歴史を揺るがすことになる』

若者はロバート・ヴェンチュリーで本のタイトルは「建築の多様性と対立性」。僕の愛読書とはいわないまでも読みこなした本の一つだ。そしてアメリカに生まれイギリスに渡った建築史家チャールス・ジェンクスがこれを受けてポストモダンという言い方を表面化し、その言葉を得て建築の70年代が動き出し、隈さんの言う80年代が始まる。
歴史の変わり目に立ち会った彼の生々しい記述は貴重だ。

隈さんが訪問してヒヤリングし「グッバイ・ポストモダン」に取り上げた彼ら、つまり建築家は、マイケル・グレイブス、ピーター・アイゼンマン、フランク・ゲーリーやKPFのウイリアム・ぺターゼン達で、大御所の二人、シ―ザペリと亡くなったが「神様は軽い」と軽妙にサブタイトルをつけたフィリップ・ジョンソンをも訪問しているのがにくいし、その会話がまた興味深い。

当時はまだ留学生だった隈さんは、今や彼らに匹敵、凌駕する建築を創り続ける存在になったが、その経緯は隈さんの言う彼らの存在と同じだとつくづく実感する。
そしてポストモダンのキイワードのひとつ、ヒストリズムによるM2を創った建築家が、16年を経て「弱い建築」を創りたいといい出し、木や竹の格子を多用するようになる。

弱い建築こそ実は粘り強くしたたかで生き延びるというのだが果たして・・・

村野藤吾賞をとった「広重美術館」は正しく格子建築だし、`宮下`でボツボツと話を取り交わした円と元のレートの問題だけとも思えない中国建築界の生々しい状況、しかしトライしたい、そしてトライした建築「GREAT(BAMBOO)WALL」は、竹の格子建築、長持ちするのかと気になったが、次の建築に使いたいと検討しているという、試作として組み上げた数ミリに細く裂いた華奢な竹格子を見せられ、思わずうーん!とうなってしまった。

GREAT(BAMBOO)WALLはコマーシャルに登場した。なんとも隈さんはしたたかだ。きっと格子建築もしぶとく生き続けるだろう、とついついうなづかされてしまう。そしてこれこそ非日常性ではないか。GREAT(BAMBOO)WALLはいくつものゲストルームを持つ住宅なのだが。
さーてね!隈研吾建築の観て歩きをするしかないか!

とまあ理屈はともかく、ゴールデンウイークの一日娘と愛妻を車に乗せて栃木に向かった。訪れたのは那須町芦野の「石の美術館」と「那須歴史探訪館」馬頭の「広重美術館」である。
そして僕の心に最も響いたのは、地場の芦野石を使った「石の美術館」だった。





永遠のダンディズム  NOWとNO.38

2006-05-12 11:36:41 | 日々・音楽・BOOK

ダンディスト石津謙介に「男たちへの遺言」という著作がある。週間東洋経済に、つれづれの思いを91歳になってから書き綴ったのをまとめたものだ。冒頭に、いつも歳のことから始めるインタビュアーに対して「歳のことしか話題がないのか、つまらないヤツだ」とある。僕はこういう言い方が大好きだ。

「NOW」という雑誌があった。
1972年NO14冬の号の「FASHION NOW1」は`ADULT 男,30歳`という特集。正しくその時の僕の年代だ。「俺のワードロープ」は伊丹十三が書き、写真が浅井慎平。

五木寛之の連載した伝説的な記述「魔女の伝説」では本号で大地喜和子を取り上げた。
『小海永二の訳になるこのロルカの詩(スペイン警察兵のロマンセ)は・・・馬は黒 蹄鉄も黒 マントの上にインクと蝋のしみが光る・・・』
『こんなふうに始まっている。その詩が似合う女は、大地喜和子しかいない。すなわち彼女は<エナメル革の魂>と<ピストルの天文学を秘めた頭脳>とを持って夜にやってくる丸顔の魔女なのだ。』
亡くなった大地も魅惑的だったがこの五木もすごい。チョット格好良すぎる気がするものの、それが「若き日に」ということなのだろ。
ちなみに五木は15号でJAZZ歌手(僕がのめりこんだ)笠井紀美子を書き、しばらく休筆すると宣言している。

さて写真はあの「鴉」を撮った深瀬昌久。大地と五木を撮った粒子の粗いモノクロームのつい惹きこまれてしまうこの写真は、34年を経た今でも僕の撮りたい写真だ。この雑誌の創刊から廃刊までの大半をもっているが今では僕の宝物の一つになっている。

この雑誌の表と裏表紙は「VAN」の広告。
石津謙介のダンディズムとNOWのポリシィが一致したのだろう。そしてそれは若き日の僕のポリシィでもあったのだと思う。

「VAN」は学校だったと石津は書く。「カッコ良いと思うことは何でもやってしまえ、夜中だろうと休みだろうと会社は人であふれていて、みんなアメリカから取り寄せた雑誌を見たり、ジャズのレコードをかけて、コーヒーを飲みながら雑談を重ね、次々と新しいアイディアを生み出していった。」
彼は「私は落第生で会社を潰してしまったけど、今でも外観はいい年をした大人になったやんちゃ坊主のままのOBが沢山いるし、のんびりした住宅街だった青山の街が、いまやすっかり大人のファッションタウンになったことは自慢なの種である」という。
「みゆき族」や「TPO」という言葉も定着させ時代を生み出したが、確かに石津謙介は青山を変えたのだ。

「家は諸君の分身である」という建築家の僕にとって興味深い一節がある。
男なら「住まいにこだわるべし!(住まいは)あなた自身を作っていくのだから」つまり「カッコよく」なりたいなら」「カッコよく」暮らそうというのだ。僕の人生観と一緒だ。
だから僕は休みになるとまず`ガーッ`と豆を挽いてコーヒーをいれ、エバンスやキースやマイルスをかけるのだ。実は事務所でも。とはいってもなかなかいいアイディアが生まれるというふうにはならない。まだまだ僕は「カッコよい」とはいえないということだ。でももう少しの努力だ、と考えることにした。

その石津の自宅をDOCOMOMO100選に選んだ。
モダンリビング誌のケーススタディハウスとして石津の費用によって建てられたこの住宅は、スキップフロアによってL型に配置し、塀と建築に取り囲まれた中庭を持ち、設計は池辺陽、実験住宅NO,38と呼ばれる。
100選展に向けて取材のために、というよりそれを表明して何とか拝見したいと数名で押しかけた。(2004年)謙介夫人、お二人のご子息、それにお出かけくださった池辺先生の奥様にもお会いすることができた。

この住宅は竣工してから既に50年ちかくになり、ご長男や次男が住んだり、建築家宮脇壇によって増改築がされたりしてきたが、写真で眼に焼きついている蔦に覆われたこの住宅は、周囲とも馴染み、樹がかぶさる中庭も人の気配に満ちていて魅力的だ。
お聞きする話の面白さだけでなく、居心地のよさについ時間を忘れて長居をしてしまった。ここで日本のダンディズムの源流が醸成されたのだという感慨に、去りがたかったということもある。
謙介氏は残念ながら亡くなられまもなく一周忌をむかえるが、その志は大勢の人に受け継がれ、僕もその末端に加えてもらっている。勝手ながらだけど。

石津謙介のこの著書に書かれた遺言は「お洒落な人より、洒落た人になれ」



来てくれた大黒天と恵比須さま

2006-05-07 13:27:51 | 日々・音楽・BOOK

我が家にというより僕のところに小さな祠に入った「大黒天」と「恵比須さま」がきた。埃を払い棚に収めて手を合わせた。

益子に「おお屋」という古道具屋があり、その近くに`おお屋`の娘夫婦と友人でやっている「道具屋」がある。ゴールデンウイーク真ん中の5月4日、栃木に建つ隈研吾建築巡りの帰りに立ち寄った。
益子には親しい陶芸家後藤茂夫さんの窯と住まいがある。建築巡り後時間ができ思い立って後藤さんを訪ねることにしたのだが、娘は卓袱台を探していて、隈さんの設計した広重美術館を見た後「行くか?」と聞いたらニコニコ顔になった。
僕も愛妻もこの` おお屋`が好きだ。やっとこさ歩けるくらいの狭い通路の両側に、古い時計やお面やなにやら怪しげな仏像や人形、それに欲しくなってしまう陶磁器の山、うっかりけつまずいたらえらいことになると、ついびびりたくなるほどの骨董品に埋もれた店だ。

ねぶたを観に青森に行った折、友人に連れて行かれた店で真っ黒に煤けた大黒天と恵比須様に出会ったものの、ついためらって手に入れ損なってから11年間、気になって仕方がなかった。
`おお屋`の親爺に卓袱台のことを話したら、道具屋に行ったかと言う。娘と愛妻はちょとねと`道具屋`へ出かけ、僕は骨董の山の中の李朝の白磁、益子の陶芸家島岡達三や浜田庄司の茶碗に見入ったり親爺と骨董談義をやっていたが、やはり気になって`道具屋`に足をむけた。そこにいたのだ。神様が。

大黒天と恵比須さまは、なぜかペアで厨房神として台所に祀られる。だから青森の二神は真っ黒けだったが、この僕の神様は自然木のままだ。薪の台所に祀ってあったのではないだろう。ガスコンロの台所、都会の神様だったのか。
でもこの円空ばりの一刀彫はなんとも素朴だ。杉でできている祠は精密な細工とはいえないが、鉄を使わず杉釘で組んである。屋根は年輪を上手く使って曲げてあり、工夫しながら造った人の楽しさと真剣な想いに惹かれる。

さて我が家に納めてみてふと気になった。大黒天は俵に乗っているので間違いないが、この恵比須さんは鯛を抱えていないし竿も持っていない。青森の恵比須さまも竿は持っていなかったけど。電話をしたら鯛を持っていない`えびすさん`もいますよという。時代は明治だろうという。祠はこの二神に合わせて造ったので時代は少し浅いそうだ。気にしているわけでもなく好奇心に駆られて聞いたので、何故そう思うのかとは問わない。
大黒天は密教では自在天の化身で憤怒神、大国主命と習合して親しまれている。恵比須は西宮神社の祭神蛭子命、海上・漁業の神、商売繁盛の神様でもある。七福神の二神は一対で台所神となった。

「道具屋」の若旦那はちょっと名残惜しそうにこう言った。店を開くとき「福が来るように」と手に入れ隅っこで7年も祀っていたが「今度はお客様に福が来ますように!」と。それにしては埃が!何はともあれ僕のところに来てくれたのだ。きっと善い事があるだろう。

後藤さんの作業場で、昨日窯出しをしたという数年ぶりで65センチを引いた大皿を見た。力でなく集中力、その精神力に刺激を受けた。ご家族と一緒に個性ある支那蕎麦を食いに行った。気になって出かけた隈さんの建築にも心魅かれた。
皆何かにこだわっていい人生を生きている。
娘は小ぶりで角にゆるいカーブのある、娘にとっては念願の卓袱台が手に入った。`おお屋`の親爺に挨拶したら一緒に喜んでくれた。
実りある一日、まず二神に敬意を表したい。

艶やかな 熱海をどり

2006-05-03 15:47:50 | 文化考

ひょんなことから「熱海をどり」を観ることになった。
重要文化財になるブルーノ・タウトの設計した旧日向邸の打ち合わせに4月28日に熱海を訪ねた折、観光部文化交流課の課長さんに「芸妓見番」で公開している「熱海をどり」を是非観てって欲しいといわれ、この公演は`都をどり`や`東をどり`に負けるとも劣らないと力説されたからである。

ふと心が動いた。

というのは、正式には「熱海芸妓組合歌舞練場」という会場になる建物を2度ほど案内してもらったことがあり、挌天井組の稽古場に惹かれ、国の有形文化財への登録を考えてもいいのではないかと思ったのだが、そこで毎週土曜日に行われている芸妓の公演ではここがどういう感じになるのか気になっていたからだ。その集積、一年に一度の熱海を上げての「熱海をどり」を・・・
と言いたいのだが、本音をいうとそこで踊りの稽古をしていた芸妓に魅かれたのだ。
Gパンとは言わないまでも普段着で扇を持ち、たぶん踊りの「基礎」を繰り返し叩き込まれている有様、二度目の訪問では稽古着でこれも何度も駄目を出されている様子をみて、若い芸妓も頑張ると思ったが、お師匠さんも凄いと思った。

稽古を見せるのはためらったことがあるそうだが、熱海の観光文化を促進するためといわれて公開に踏み切ったという。芸への自信なのだろう。こういうのに僕は弱い。それに化粧っ気のない素顔の芸妓の、やはりそこはかとない「色」はとてもいい。大人の女の色気。
とっくに僕は「大人」を通り越してしまった年になったのだが、いつまでも「大人」に魅かれる。つまり、と開き直ることもないのだが、大人になりきれない僕がいて、若き女性の大人の色に戸惑うのだ。困ったことに。

熱海の夜を飲み歩き、帰るつもりだったのにビジネスホテルに泊まってしまった。
翌朝9時、旧日向邸でボランティアガイドさんと懇談し、開場の30分前、少し早いかと思いながら足を運んだ。
行列ができていて整理券を渡している。4000円の会費を払い貰った番号はなんと137番、開場前なのに既にお客様を入れている。人気があるのだ。なんとなく `心` が浮き立ってくる。

さて公演は。
言うまでもなく感動した。
長唄「元禄花見踊」から始まる。地方の三味線と唄にのって`左京`とか`すず菜`などが艶やかに登場。僕はカタログに掲載された芸妓の顔写真と舞台で踊っている顔を妄想逞しくして見比べながら観始めたが、いつの間にか踊り自体に引き込まれた。

二題目の常磐津「釣女」には思わず笑わせられた。能狂言の「釣女」を芸妓が演じる。
大名と太郎冠者が出てきて、美女と醜女を釣るという笑いに満ちた演目なのだが、醜女を演じた関美が秀逸。写真を見ると結構美形なのだが、こういう芸者が宴席に来るとなんとも楽しいだろう。この醜女や太郎冠者をはじめとする演者の演技力に感嘆する。会場からも笑いが起こりいい感じだ。

小唄集「東海道名所絵巻」は華やかで踊りも見事だが、その舞台構成、演出が素晴らしい。
今回の公演は第17回目だが、永く構成、演出、振り付けの指導をしていた花柳稔氏が昨年亡くなり、今回は花柳園師と寿賀洲師によるものとのこと、京都の祇園甲部歌舞練場で行われる「都をどり」と東京の新橋演舞場で行われる新橋芸妓による「東をどり」に負けないという想いもうなずける。
全員が扇をかざして登場すると自然に拍手の沸きあがる大団円に満喫し、これはやはり芸妓、芸者、女世界の艶やかさだと思った。

温泉の街「熱海」にはいくつもの思い出がある。
僕は大学を卒業して叔父の創った小さな建築会社に勤めた。その頃の建築会社はよく熱海の温泉旅館で大宴会をやったものだ。コンパニオンもまだ居らず、芸者が酒を注いでくれた。カラオケもなく芸妓が舞台で踊りを披露し、僕たちは非日常的な大人の世界を楽しんだ。若かった僕にとって、芸妓つまり芸者の色の世界が大人の世界だったともいえる。

そしてそれはその大宴会場と無縁ではない。何処かほの暗く艶めかしい空間だった。京都鴨川べりの歴史を感じる大きな宴会場に舞妓が来てお酌をしてくれたことがあった。それと同じような空間が熱海にもまだあるのではないだろうか。
こういうと熱海は昭和25年に大火があって、市の中心をなしていた旅館の大半を焼失したという。しかしそれから既に55年を経た。僕が若き日味わった艶めかしい思い出は、大火の後の空間体験なのだから。

日々の研鑽によって磨き上げられた芸妓衆の優雅な踊りと「粋」と「心意気」は、熱海のかけがえのない文化であり、熱海温泉にも着実にお客様が戻ってくると感じている、と「熱海をどり」のカタログに市長をはじめとする様々な立場の人が書いている。
建築家の僕はそれを味える建築空間を探っていきたいと思う。縁もできたし、大人の色を求めながら・・・なんだか楽しくなってきた。