日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

「東北を・・」(2)建築は誰のものか―未来へ

2012-09-28 19:17:44 | 東北考

―シンポジウムのご案内―
ほんの一週間だが、宮城県、岩手県沿岸沿いの集落を歩いてきて、ずしりと重いものを背負ったような気がしている。しっかりと受け止め、考えてみたいが、来週月曜日(10月1日午後1時より)、未来へ視野をみて「建築は誰のものか」と題したシンポジウムを行うことになった。ウイークデェイの午後だがお出かけいただけるとありがたい。
会場は、東京新宿西口広場に面するイベントスペースです。

沿岸沿いを案内してくれた仙台の写真家小岩勉さんには「女川1988-1991そして2011」と題して写真を展示、パネリストとしてお話しいただくことになっている。
パネリストには構造家の増田一真氏と、建築ジャーナル誌の編集長中村文美氏にも登場いただく。


「東北を・・」 (1)人に会う

2012-09-23 21:31:41 | 東北考

―出かけて人に会う―
札幌でも沖縄でも、そして先週、6日間をかけて車で出かけた東北であっても、考えてみると人に会うために出かけたのだった。
3・11から一年半が経ち、東北を歩かないと建築家としてなにもできないという茫漠とした思いがあった。被災地を見るためと言うことでもなく、ただ東北を歩く。とは言え、20年前に「女川海ものがたり」を撮った小岩勉さんとの出会いがあってその小岩さんに会う、名取市の斎場を建てた建築家針生承一さんに会ってヒヤリングし写真を撮る、と言う目的はたてた。そして青森まで足を伸ばすのはやめて仙台に4泊、この大都市を拠点とした。

―人に出会う―
敬老の日、東北道を降りて立ち寄った「福島県教育会館」(設計ミド同人・前川國男1956)のホールに電灯を点けて撮影をさせて下さった事務局の職員と話が弾む。仙台リッチモンドホテル駐車場の担当者と顔を合わせると、お互いに笑顔になった。七ヶ浜国際村の担当官には撮影可能箇所を案内してもらう。先生方に引率されてバスで訪れた気仙沼の小学校の生徒たちが、登米の森舞台(隈研吾・1996)で賑やかにお弁当を食べているのに出会い、帰りのバスが見えなくなるまで笑顔で手を振り続けた中年女性職員や、女子(おなご)先生との対話の中で、この子どもたちのはじける笑顔の中に仮設住宅に住む子もいるのだという一言に言葉が出なかった。そして一関JAZZ喫茶「ベイシー」の 菅原正二さんである。

―日常と非日常―
東北へ出かけたこの一週間を`旅した`と言う言い方にはいささかためらいがある。旅することは非日常生活の一齣であって、その土地で日常生活を営む人と旅先で出会うのが旅だとこれもまた茫漠と感じていた。
しかし小岩さんや写真を撮るという奥様とも、まだ小さい子どもたちもそうだが、お会いした針生承一さんや同じく建築家奥様の陽子さん、それに石山修武さんを大切にしてね!というJAZZ界伝説の人菅原正二さん。その誰しもが僕の日常生活の中でのときおり訪ねて談笑する旧知の人のような気がしていた。



白井晟一のサンタ・キアラ館と交接して 官能的エロスに!

2012-09-16 13:41:39 | 建築・風景

2年前になる2010年、東京造形大学で「SIRAI、いま 白井晟一の造形」展が行われた。さらに同年9月、高崎市の群馬近代美術館で「建築家 白井晟一 精神と空間」と題した建築展が開催され、その後松下電工汐留ミュージアムに巡回されたことは記憶に新しい。

この`精神と空間`展のカタログの、実行委員会の委員長を担った布野修司滋賀大学教授の「虚白庵の暗闇」と題する一文は、「サンタ・キアラ館」に対する如何にも布野らしい記述から始まる。

「白井晟一は、僕の『建築』の原点であり続けている。理由ははっきりしている。僕が『建築』について最初に書いた文章が《サンタ・キアラ館》についての批評文なのである」と言うものだ。
この建築を布野は「二つの量塊」と捉え、量塊周囲を徘徊し、二つの量塊の交接と見えたものは、そのものズバリの官能的エロスを擽る、とする。そして、`そういえば私の立っているここは、うら若き乙女たちの園だった`となると、読む僕も妙に恥ずかしくなって布野の顔を思い浮かべたりするが、若き日のこの記述から白井展(白井論)をスタートさせるのだから、多分布野は己の感性を慈しむように白井に重ね合わせていたに違いない。

この`官能的エロス`は言うまでもなく無くなった「虚白庵」の暗闇にかぶさるものだし、親和銀行の本店(佐世保)や大波止支店の打ち合わせのコーナー、これも銀座に在った東京支店の石の『外壁』にも見て取れるものだ。
そして僕の感性は、九鬼周造の「いきの構造」、や谷崎潤一郎の諸文、その挿絵を描いた棟方志功へと飛ぶ。さらに白井建築を撮った写真家村井修へと言うことにもなるのだ。

この度の見学は、岡倉天心の六角堂を望む五浦(いずら)観光ホテル別館大観荘に宿泊して行ったJIA保存問題委員会の、「理論合宿」時に行ったもので、茨城キリスト教キャンパスにある、このサンタ・キアラ館と、2年前に建てられた晟一の長男昰磨(たくま)氏が担当した「セバスチャン館」とを合わせてみるものだった。

配布された資料には学内の先生方による、面白い記述がある。暗くて評判が悪く慣れるまで厄介だったが、建築雑誌や美術誌に紹介されて海外からも認められるようになって評価がかわったなどと。

キアラ館は、礼拝堂と教室棟(研究室や教室)の二つの用途が組み合わさったものである。礼拝堂は屋根面、外壁をレンガで包み、事務所棟の2階の側面には、大きなガラスが使われている。
今回の震災でガラスが割れて修復が大変だったと聞いたが、布野は一体となった二つの建築を量塊と捉え、そこに白井の底にある官能的エロスを感じたのだ。

ところで量塊とは面白い表現だ。この礼拝堂はいわば彫刻のようなものだ。穿つという言い方がある。キャンパス内のこの台地だから可能になった。白井は機会を得たのだ。ご子息に担当させた`セバスチャン館`のあと、自分がやると引き受けたところに建築家としての白井晟一の想いに夢を馳せるのだ。

さて私事。明日から一週間、20年前に女川を撮った写真家小岩勉さんに案内していただき、我が体調を気遣いながら宮城の沿岸沿いの集落を案内してもらう。建築家としてそうしないと何もできないような気がしている。

夏が終わり 豊かな村野藤吾の箱根プリンスで

2012-09-09 18:07:04 | 建築・風景

お盆には仏様がうちに帰ってくるんだっけ、と妻君が言う。富士霊園に向かう車の中だ。
8月15日は終戦の日だがお盆でもある。そういえば旧盆だったか新盆だったかは思い出せないが、妻君の母親が迎え火と送り火を焚いていたと聞いたことがある。でもお彼岸に行けなかったたんだからだと仏様は分かってくれるわよ!と妻君。 まあねと僕。

妻君と僕の気質は娘のどこかに引き継がれていると時折り感じることがあるが、この迎え火送り火伝統行為は途絶えた。でもご先祖様への思いは引き継いでいるからいいんじゃないの!というのが我が家である。
お墓まいりのあと箱根に行くことにして家を出た。箱根の何処とはきめないのも、僕の言い出したことには口出しをしない(してくれない?)のが我が家なのである。さてと思いながら車に乗って地図を開いた。ふと行ってみようかと思ったのは、芦ノ湖湖岸に`九頭竜神社`の名を見つけたからだ。

場所がよくわからないが、まず箱根神社辺りに行ってみようかと妻君と話す。たわいのないこんなことは本編の主題ではないのでさっと書き流してしまおうと思うがさて!
箱根大神を御祭神とする箱根神社は関東における山岳信仰の一大霊場となり、明治期の神仏分離によって、関東総鎮守箱根権現から箱根神社になったと社務所でもらった案内書にある。そしてこの境内に九頭竜神社があるのに気が付いた。
安芸の宮島のように鳥居が水中(芦ノ湖の)に立つのがこの箱根神社だが、この鳥居が九頭竜と何がしかの縁があるのではないかと考えたりする。でもその由来は何処にも書かれていない。

社務所に箱根神社とともに御朱印があるので頂くことにした。昔来た時にここで御朱印帖を買ったよ、と妻君に言われた。そして帰宅して調べたら表紙に箱根神社の紋が織り込まれている御朱印帳があった。よく憶えているものだ。奉拝平成八年九月一日とある。御朱印はその時の箱根神社のひとつだけ、そして16年前とまったく同じの文面の案内書が挟み込まれていたのである。

―箱根プリンス―
時間が後先になるが、お昼を何処で食べようかとなって、箱根プリンスが頭に浮かんだ。
村野藤吾が1978年に設計したこのホテルのロビーラウンジに魅せられて何度か訪れたことがあるが、まだメインダイニングで食事をしたことがない。
娘は四国巡回のサマーバケーション中、晴れたと思ったら暴風豪雨の一週間を我が家に閉じこもって、来春より写真と文による建築誌に連載するための試作(思索)をすることで終わることもないだろうと、お墓参りに出かけてきた僕たちのバーケーションに華を添えるようなものだ。

インド砂岩を使ったこのロビーラウンジ(通路的な空間)は、何度来ても心が騒ぐ。
コトバで言い表すのは難しく、写真を見てもらいたいと逃げたくもなる。砂岩と埋め込む目地の色合いや質感と、柱から持ち送った壁体にしつらえた彫刻置き場とその台座や天井の組方の空間構成とその寸法感覚に、これは村野藤吾一人のものだとしか言い表せない。

メインダイニング、ル・トリニアンでの昼食は、僕は普通のビーフにしたが妻君は、お店の人かから、カレーには白いものなどいろいろとあるが、このピンクカレーはおいしいですよと言われて、面白いからそれにしたらと!と勧めたものだ。ピンクと言うよりやや紫かかったこのカレーを一口試食したがさすがに箱根プリンス、深い味わいがあってとてもおいしい。

でもこのカレーは一編のエピソード。
レストランの高い天井を見上げながら、曲線を使ったデザインとともに、妖しげなオーラが漂う吊るされている照明器具に魅了された。
FRPでつくられた三対の女の顔をダチョウの羽で包み込むという村野の発想の不思議さに呆然とさせられる。このイメージはこの建築のスケッチを積み重ねる中で湧いてきたものなのだろうか。あるいは村野の中のどこかにいつの頃からか漂っていたものなのだろうか。そしてやわらかい線でスケッチをし、試作をして裏面に照明を置いてみたときにかもし出された女面の綾に、あの厳格な村野の顔が、ふっとゆるんだのではないかと夢想する。

モダニズム建築と同世代・モダニストであろう僕であっても心が揺さぶられる、村野藤吾と茨城キリスト教大学セント・キアラ館の白井晟一という二人の建築家の存在は、日本の建築界の持つ豊かな可能性をいまだに僕たちに伝え続けているのだ。この二つの建築を味わったこの夏は、一際感慨深い。

<写真はロビーラウンジ>

夏が終わり・・・

2012-09-04 12:48:04 | 建築・風景

心なしか蝉の声に力がなくなり、時折アスファルトの小道の端にひっくり返っている姿が見られるようになった。秋はちょっぴり切ない光景からはじまる。
僕の住処にある百日紅(サルスベリ)の花房が、9月に入っても咲き誇っている。でもこの花は8月の花、俳句の季語も夏である。
ここの百日紅は、樹に勢いのある春を迎える冬になると枝をおろし、猿が滑り落ちるというつるりとした幹だけにしてしまう。丸坊主になると、これで新芽が出るのかと何時も不安になるが、自然界の冥利、ちゃんとこのように自己主張するのだ。

ロマンスカー通勤をしていてふと気が付いたが、玉川学園駅を出てしばらくすると、路線沿いに走る左手の沿道に、百日紅並木があった。
8月18日、北茨城の常磐線大甕(おおみか)駅で待ち合わせ、白井晟一の設計したサンタ・キアラ館を見るために訪れた茨城キリスト教大学へ向かう道路にも、たわわに咲き誇る並木があった。友人の運転する車中で同行したJIAの保存問題委員に向かって「百日紅だ!」と思わず声を上げると、ホーッと皆が僕の顔をみる。いままで気にもしなかった花にふと目が行くことがあったりするのだ。
この写真を撮ったのは、8月14日。娘は夏休みの四国巡回中、妻君と墓参りにと御殿場に行った15日の前日だった。(この項続く)

可愛い「かつお人間」

2012-09-02 00:12:01 | 愛しいもの

旅先の娘から携帯にメールが来た。「いいね!」の一言だけ。内藤廣の設計した「牧野富太郎記念館」からだ。去年も内藤廣。大雨の山陰・益田のグラントワ(島根県芸術文化センター)だった。

帰ってきて、一杯やりながらのひと時。携帯電話を出してみて!と娘が言う。
つけていた「せんとくん」のストラップを「かつお人間」(かつを君を訂正)に取り替えてくれたのた。
角が取れた「せんとくん」が気になっていたという。1週間の夏休みの今年の娘の旅は四国巡回。高知の人気者かつお人間は娘のお土産なのだ。
うーん!可愛いって言われればなかなか可愛い。(追言・・「人間」というのが妙にいい)。
さてさて、可愛そうな角の無いせんとくんは妻君がちゃんとしまっておくという。