日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

沖縄の貝

2020-06-09 11:20:59 | 沖縄考

30年ほど前・1990年頃に描いたスケッチ `沖縄の貝′をUPします。
沖縄の風情に魅せられて何度も訪れましたが、この画像を掲載して置きたくなったのは、沖縄を愛でている僕にとって、このスケッチが30年ほど前のことだということに、わが想いを改めて見遣ることになったからです。初めて訪沖したときのこの画像、沖縄への思いが (ex、JAZZのライブハウス・寓話や盟友共々・・・・)

と同時に、描き綴ってきた画像のスケッチブックが満杯となって、次回からのブログに記載するスケッチブックの冒頭に、この貝のスケッチが記載されていてWHY! UPしようと考えている一文とこのスケッチ!

さて今日は晴天、時折聞こえてくる飛行機の轟音(とも言えないが)・風の音・鳴く鴉・走る小田急線の電車の音、そして主婦連のやり取り(姿は見えねど!) 子供たちの笑い声と叫ぶ声!まさしく初夏の一コマです。

 


晴天の初春・沖縄復帰の著作に想いを!

2019-03-24 14:50:39 | 沖縄考

 前稿に記した`日向別邸委員会`の後、同席した女性委員連と共に珈琲を味わったそのお一人から、興味深い「うるまネシア」というタイトルの冊子を戴いた。サブタイトルは、`琉球弧の自立≪特集≫それぞれの「復帰40年」という興味深いものであり、一文を起稿した方々は40名を越える。

 執筆者の一人として親しくお付き合いをした建築家`真喜志好一′さんの名があるのでオヤッ!と想った。そして訪沖し真喜志さんともども四方山話 (と言っても辛辣な!) にのめりこんだことを 此の一文を前にして懐かしく想い起こすことになった。

サッと眼を通すと、6頁に渡る起稿は10篇に分かれていて”1969年海兵隊計画の辺野古計画図”           〝オスプレイ配備を隠した日本政府″〝「お答えできない」が意味すること、などなど興味深いサブタイトルが一文の前に記載されている。

他の寄稿者のタイトルも、「帰りなんいざ、暑き沖縄へ―そして、意味が汲み取れないが、妙に心打たれる りか、やーかい とのサブタイトルが添えられていて、好奇心が刺激された。拝読するのが楽しみでもあり、僕の沖縄への想いが沸き立ってくる!

 

 

 

 


翁長沖縄県知事の訃報に接して

2018-08-18 14:31:04 | 沖縄考

沖縄の盟友・根路銘安志さんが、8月9日附けの「流球新報」と「沖縄タイムス」を、新宿にある僕の事務所に送ってくれた。

一面のトップ記事は`翁長知事 死去`と`翁長知事が死去`という太文字の下に、翁長氏の大きな上半身の写真が添付されている。「67歳膵臓がん闘病」「膵臓がん入院中」の文字が痛々しい。そしてサブタイトル『基地軽減訴え国と対峙』『辺野古新基地阻止貫く』の文言が眼に焼き付く。

 此の6年ほど僕は、2月に行われてきた与那原(沖縄県)に建つ『聖クララ教会』での根路銘さんが企画・実行してきたコンサートを拝聴し、一言聴衆に挨拶をさせてもらったりもしてきた(今年は遠慮したが!)。その訪沖の折、根路銘さんが車で沖縄の山野や町中を案内してくれた。時には沖縄の建築家が コンサートの準備に追われる根路銘さんを引き継いで基地内を!ということもあった。敢えて過去形で書くのは、今年でそのコンサートが終演したからでもある。

 翁長知事への想いがあるのは、存続が厳しくなった主として戦後に建てられた建築の存続を願ってのメッセージを、知事の姿を胸の収めながら琉球放送で述べさせてもらったり、新聞に一文を掲載させてもらったりしてきたからでもある。

人は死ぬ。いつかは!己の歳を考え溜息をつきながら此の一文を起稿している。

翁長知事のご冥福を祈ります。


「慰霊の日」に想う!

2018-06-23 23:19:01 | 沖縄考

6月23日は、沖縄戦での犠牲者を追悼する`慰霊の日`である。

沖縄には親しい知人が沢山さんいて「平和の礎(いしじ)」の設計を担った建築家もその一人、その彼の想い・志が浮んでくる。新聞記事の中に彼の名がでてこない事が例年気になっている。僕の父はフィリピンで戦死したが、嘗てフィリピンに社員を派遣して仕事をしていた従兄に誘われて、その地`モンタルバン`を訪ねて現地の人々に父が死去したその場所を聞いてみたが、特定することができなかった。      <このことは数年前になるこのブログにも記載した>

 さて朝日新聞夕刊のトップ記事のタイトルは、「沖縄 負担苦しみ73年」である。父が戦死してから73年を経たのだ!と想うと同時に、父の位牌に毎朝頭を下げていた亡くなった母の姿を思い起こしている。僕は母の想いを継承して毎朝仏壇におまいりしている。

 ところで新聞のサブタイトルは「知事、(基地の)辺野古移設 を非難」。僕は父の亡くなった歳をはるかに過ぎてまだ生きているが、数多くの沖縄の人々の想いと、翁長知事の一言に共感する。この一文を起稿しながらふと想う。沖縄には親しい知人が沢山いるが、このことでお互いの想いを取り交わした事がない。妙に怖くて言い出せない!ということでもあるのだが・・・・<画像 リビングに掲載してある版画より:何故か真っ黒になってしまった!>

 

 

 


胸を打つこの想いは何時までも!

2018-04-29 21:17:42 | 沖縄考

沖縄の若き(僕より弐回りほど…)建築家・盟友ともいえる根路銘安史が、建築の講習会受講の為に來都(東京)した。若きなどと記すと苦笑されそうだが、彼の主導によって数多くの人々を巻き込み、例年2月に行われてきた聖クララ教会(沖縄県与那原町)でのコンサートは、今年の2月11日(日)の第12回目を期に閉じることになった。その折の淡々とした彼のメッセージに心打たれたことを忘れ得ない。

その彼と新宿で一杯やりながら、コンサートのことだけではなく建築を主体として、人の生きていくことへ踏み込んだ四方山話が尽きなかった。 

閉じることは、始めることよりも決断力が必要だとついつい瞑目したくなる。しかも例年この音楽会は常に満席、僕は特別招待のような形で招聘され、ここ数年、冒頭に挨拶をされる神父さんの後、此の建築に魅了されている建築家の一人としての一言を述べさせて戴いてきた。

今年は神父さんの都合がつかなくて例年お世話になって僕とも親しくなったシスター中村さんのにこやかな挨拶に心打たれたが、僕の一言(挨拶)は無しとした。そして嘗て、隣接されている修道院宿舎(基本的には修道女のための!)に2度ほど泊めて戴いたことなどを想い起こしたりした。

そういう縁もあって神父さんや修道女の方々とも懇意になり、当初は神父さんが2次会(懇親会)に同伴して下さったこともあった。 

`初めがあれば終わりがある`とよく言われる。でも、この聖クララ教会での此のコンサートとの出会いは少し違うような気がしている。コンサート自体は終焉し、登場して僕達を魅了し親しくなった音楽家連、同行した建築家とも疎遠となってしまうだろうが、その人たちとの出会いは僕のどこかに何時までも留まっているような気がしている。とどのつまり沖縄への、此の教会・この建築への僕の想いが、僕自身、閉じる・忘却することはありえなと確信する。 <写真・聖クララ教会>

<追記>この一文を起稿しながら、7年前になる2011年3月11日に発生した`東日本大震災`の翌年から、仙台をベースにして、毎年、閖上(ゆりあげ:宮城県名取市。今年は訪れなかったが)、そして女川に赴き、その復興の様相に目を向けてきたことを、聖クララ教会でのコンサートと共に記しておきたくなった。女川行きも今年で終焉しようかと想っているからだ。

その女川は、昨年に観た復興の様相から思いがけず町の姿が大きく変わり、残念ながら、必ずしもその様相に得心できなかったことを敢えて付記しておく。というよりも正直がっかりしたのだが・・・ 

本文は今年の、仙台、女川から帰郷した翌日になる今日(4月29日)のUP。事前に概要起稿したものに手を入れてのUPです。<文中敬称略>

 


沖縄を愛でて(5) 森のアイスクリームを食べた よ!

2018-03-10 14:48:16 | 沖縄考

前稿で記した「森のアイスクリーム・アテモヤ」。無論、甘みもアルが何処かに品格を感じ取りながら味わった果物、その姿はゴツゴツしていて妙に愛しくなる。

包丁で二つにすると現れる白色の姿。スプーンで癪って口に運ぶ。その味は!品のい甘味があって淡白、何故今まで出会わなかったのかと不思議。牧志の市場をブラ歩きをしながらも、おそらく眼に留まっていてもすっと流してしまったのかなどとふと思ったりしたものだ。旬は12月から3月とのこと。沖縄の人にとっては当たり前の果物なのだろうか!

此の一稿を書かないと次にし進めないような気がしていたが、記載してまずはホッとしている。


沖縄を愛でて(4)`あてもや`を味わう

2018-03-04 20:13:16 | 沖縄考

海を見るだけでもいい。岩礁の頭が微かに見え、その先がブルー、そしてその手前の海の色は微かにグリーンが入り混じる。 

そんなことに思い出を馳せながら、「森のアイスクリーム」と名乗った果実『アテモヤ』を目の前にして起稿している。写真は、我が家のテーブルで「俺さまが、`アテモヤ`だ」と叫ぶのではなく、微かに囁きかける一枚。食べてしまうと今度会えるのは何時か?と問いかけられているようで困ってしまう。旬は12~3月とあり、更に果実全体に少し柔らかさを感じたころ、とある。となると今が食べごろだ。


沖縄を愛でて(3) 瀬名波ガー(湧き水の泉)の浜辺で

2018-02-25 20:25:12 | 沖縄考

前稿、高志保の浜辺にたどり着くには車を留めて、急傾斜の曲がりくねった坂道(コンクリートで整備されている)を降りていくことになる。その浜辺の海際には、平たい岩石が顔を出していて味わい深い。訪れた時は引き潮だったようだ。

 その山側には、湧き水の出るという岩石で覆われた空洞があり、坂道にある案内看板には「豊かに湧き水流れ出て、戦前から水道が普及するまでの人々の生活を支えた」(此の一節の他省略)と書かれている。そして、`現在でも瀬名波では水の恩に感謝して大御願(うふうがん)、フトウチ御顔(うがん)で拝んでいる、とある。

 此処を訪れたのは初めてだった。遠くの海は、水平線の先に太陽が落ちていく絶景。その水平線には小さく見える客船がゆったりと通り抜けていく。浜辺は左程大きくはなく、山地際・岩壁の麓には寄せ波によって(と思われる)履き潰したズックやジュースのボトル、何故か竹箒、ごみなどが散乱している。残念ではあるが妙に人の気配を感じ得て、一瞬しかたがないか!  などとも思った。 

 そしてその異物の一角に蟹の姿が、引き潮時に海に戻れなかったのだと、瞑目したくなった。

 

 


沖縄を愛でて! (2) 絶景・陽の沈む読谷村高志保の海

2018-02-21 14:21:26 | 沖縄考

・・・時を経ても、つと想い起して瞑目したくなる光景がある・・・

洛陽する読谷村高志保の海。観入っていて`微動だにしなかった`と後に言われた我が後姿のこの写真。撮影者・上記の一言は根路銘安史。前項でも記した、那覇に生まれ、沖縄県島尻郡南風原町にオフィスを持つ建築家・僕より一回り若き盟友である。

沖縄に魅せられるのは、陶芸家・大嶺實清さんやJAZZ・ドラマーの津嘉山善栄さんをはじめとした数多くの、大学の後輩・建築に係わる友人・不思議なご縁の知人、がいるからだ。とりわけ今回の訪沖で多数の方々との旧交を温めたこの5日間、沖縄に惚れる!


沖縄を愛でて!(1) 『ありがとう』: まずは「聖クララ教会でのコンサート」

2018-02-18 19:38:33 | 沖縄考

今年の沖縄紀行には、特段の想いがあった。その一つは与那原の丘の上に建つ『聖クララ教会』でのコンサートです。

 このコンサートが、12回目を迎えた2月12日(日)・この日で終演。僕は第6回目から7年に渡って拝聴し、DOCOMOMO Japanで日本の代表的な建築の一つとして選定したことなどを含めて冒頭に挨拶をさせて頂いてきた。主催は沖縄県建築士会島尻支部だが、実質的な企画・構成・実施は、南風原(はえばる:沖縄ことばではでは、ふぇーばる)の建築家・盟友根路銘安史さんだと言ってもいいだろう。そして手探りでコンサートを始めた根路銘さんを支えたのは、ラサール神父、そして修道女中村睦子さんだった。 

ラサール神父は高齢となって引退されたが、僕と気心が一致し、嘗て演奏会が終わった後の`飲み会`に参加してくださったことは忘れ難い。脚の具合が万全ではなくて飲み会の座敷に靴をはいたまま上がって戴き、お店の人が低い座椅子の下に座布団を積んで腰掛けていただいた神父と、会堂に併設された修道女の宿舎に2度に渡って宿泊させていただいたシスター中村睦子さんのお姿とお名前を僕は、終生忘れない。 

コンサートの始まる前に、現役の神父にご挨拶いただくのが通例となったが、今年は神父の方々が教会での会合が重なって不都合になり、奇しくも中村睦子シスターがご挨拶をされた。ふと思い立ってご挨拶が終わった中村さんに近寄り『お久し振りです!』と頭を下げたところ、「兼松さん!」と破顔、僕の名を覚えていて下さったことにグット来るものがあった。その一言だけでも沖縄へ、そして此の会堂へくることが出来てよかった!と想ったものだ。改めて根路銘さんに此の一文を通して御礼を言いたい。『ありがとう!』

<聖クララ教会のコンサート終演後の記念写真(左端:中村睦子シスター:修道女、前列中央兼松、右端:根路銘安史さん>