日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

北海道紀行08(4) 今年の小樽・プレス・カフェ

2008-11-29 11:57:33 | 建築・風景

小樽は雪になったそうだ。温暖化が問題になっているのに今年は雪が早い。雪掻きが好きで、その姿に男の味があるといわれたプレス・カフェのマスター。<誰だ!ソンナコトコトイッテイルのは(笑)>。さてさてそのマスターと店長のアサジさん。雪の小樽で元気だろうか?

ドアを押してやあ!とマスター(僕たちは、ターマスと呼ぶ)と顔を見合わせる。モスブルー(モスグリーンではなくブルー、モスとは云わないか)のMG Midget 1500が場を得たように店の中に鎮座している。ごくごく日常的な1年前と変わらない空間。アサジさんも微笑んでくれる。そこにいる人がいる。これがプレス・カフェだ。
ちょっと違うのは、今年はMOROさん運転のあの紅い奴・ロータスヨーロッパで乗りつけた。留める場所が決まっている。店の中から見える場所。ここに留めろとターマスに言われたんだそうだ。それが格好良い。

MOROさんはマンデリンだけど、僕は苦味のあるイタリアンコーヒー。昨年飲んだその味が忘れられないからだ。そしてあのクラッシックな`ライスカリー`にしようかとちょっと迷ったが、今年はぺペロンチーノにした。美味いに決まってるけど、まあトライだ(笑)。そしてデザートは、クレームブリュレ。ああ!思い出すと溜息が出る。
マスター・イナバさんは、木骨石造の「旧澁沢倉庫」を改修してカフェにした。明治28年に建てられ、小樽の歴史的建造物として指定されている天井が高いこの建築の木の梁に取り付けた小さなBOSEから、JAZZや渋いフォークが流れる。いい音だ。

眼鏡。オヤ、半円形だ。上がない。「老眼で近くが見えない、下だけを見るために半円形にした」。それがなんとも、まいったことにターマスに似合うのだ。似合わなければかけない?
車はね。一生懸命売ろうとは思わない。欲しいといわれたら売ることにした。レーサーでもあり、エンジニアでもある、更に武道家?でもあるターマスは、ヒストリックカーも売る。あの紅い奴は一時(いっとき)ターマスの愛車だったのだ。(ところがついつい最近、そんなんでもミニが売れた。前庭に鎮座していたあのミニだ!)

今年はね、人が沢山来てくれた。アサジさんがそっとうなずく。そのうなずき方は昨年にも増して素敵だ。この店もこの地に馴染んできた。「いいねえ」と僕。ターマスと、それにMOROさんも一緒に相も変わらずボソボソと他愛のない会話を交わす。
豊穣な時間だ。
今年のターマスの至言。「僕はね!古い車が好きなのではない。好きな車が古いのだ」

晴耕雨読と王道

2008-11-23 13:55:26 | 添景・点々

ほろ酔い気分だけど、この一文を書き出すことにした。
つい先ごろ教育長を退任された、牛村さんを囲む会から帰って来たのだ。参加したのは仲のいい12人、大半の元父兄がいま行きつけのミニクラブで唄を歌っているだろう。

もう十数年も前になるが、娘が小学校5年生のときに僕はPTAの副会長をやった。思い起こせば、とちょっと大げさに云うと、その一年間が唯一「地元」に根付いた活動をした時期だった。
その翌年引き続いて会長をやって欲しいとか、娘が中学生になったときにも会長就任の打診があったが、迷った末断った。世はバブル期、仕事に専念したいと思ったのだが、今になってみるとそれだけではなかったような気がする。ささやかだけど「よそ者の僕が!」という逡巡する気持ちもあったのではないかと思う。

僕の住む東急が販売した分譲団地は小田急線厚木駅に隣接した620戸、小さな町を構成している。
海老名市は新宿から小田急に乗ってほぼ1時間、多くの人が東京に仕事に行くが、副会長をやって初めて海老名にも歴史があり、様々な行事があり、小学校のある地区に諏訪神社があって子供たちが数名で組んで氏子巡りをやってお菓子をもらう祭りのあることに気がついた。
団地で生まれ育った娘は、同級生が着物を着て氏子巡りをやるのも、神社があることも知らなかった。僕の家族は、団地の近くにある有鹿神社に初詣をするからだ。もともとここは田んぼ、有鹿神社エリヤだったようだ。地の神様にお参りする、そのほうが僕らしい。

PTAでは諏訪神社祭礼の日には、子供の安全を見守るために手分けして神社に張り付く。僕はその違和感よりも屋台の出る賑やかな祭りに好奇心が刺激された。その後諏訪神社の祭りに行ったことはない。いつ行われるかの情報がないからだ。

`よそ者が`ということにこだわっているのではない。とはいえ会長経験者からここに三十数年住んでいるけれど、まだよそ者扱いされる、とぼやかれたことは忘れない。それもまた面白いだろうというのが今の僕なのだけど、若かった僕はちょっとこだわった。
しかし子供は無頓着だ。娘の小学生時代のクラスは仲がいい。今でもしょっちゅう飲み会をやっている。担任だった先生を引っ張り出したりしている。楽しそうだ。世代が替わり、ここが娘たちの故郷だからかもしれない。

牛村さんは教頭だった。その肩書きのまま教育委員会に転任し教育長になった。頂いた挨拶のはがきにはこう書いてある。感謝の気持ちを述べた後、「これからは`晴耕雨読`の生活を過したいと考えております」。

囲む会の挨拶で僕はこう述べた。
『社会も教育界もおかしな状況の中、「晴耕雨読」という、何か懐かしいコトバを表明できるのは、海老名という地に根付いた教育という職務を全うし得たからだ。人はそれぞれの人生を歩み、誰しもがその人にしかできない役割を果たしている。そのなかでも牛村さんは、教育の、行政サイドでの王道を歩いたといってもいいのではないか』。これは僕の本音だ。

晴耕雨読。そうありたい。でも(最近の僕は`でも`が多いなあ!)僕には出来ない。地に根付いていない?生涯現役?そうでもないのだけど、まず「耕」がない。晴耕がないと雨読もない。僕のは電車読。牛村さんは僕より若いのだ。何だか情けない。
と書いてきて、いや待てよ、ちょっと違うかもしれないと思った。
宴会で僕は牛村さんの隣に座った。僕の問いに小さな声でささやいた。「小学校3年生のときの先生に惹かれ、先生になろうと思った。以来数十年。大学に行くときに農大に行って家(うち)を継ぐのだと思っていた親父と一悶着あった」というのだ。
振り返り親父の思いをいま想う。そして「晴耕」。
いまの時代、牛村さんは教育行政サイドの様々な課題と必死にとり組んだに違いない。そして「晴耕雨読」、閑居する自適の生活。やはり地に根付き、王道を歩いたのだ。

<写真。僕が副会長時代、娘の学校は創立20周年を迎え記念誌を作った。僕は写真を撮り表紙のデザインをした。僕には唯一の地元に仲のいい仲間が出来たのだ。来年は娘の担任をしてくださった先生を囲む会だ。他校で教鞭をとっておられるが定年を迎えるからだ>

北海道紀行08(3)二つの市庁舎・旭川と山形県の寒河江(その二)

2008-11-13 18:37:37 | 建築・風景

寒河江市庁舎には、山形県の東北芸術工科大学で教鞭をとったことのある建築家香川浩さんの要請によって、DOCOMOMO選定プレートを持って出かけた。香川さんは山形の地に建築文化を根付かせたいと願っているのだ。
所用が在ると聞いていた市長が思いがけず時間を割いてくださった。同行したDOCOMOMO Japanの副事務局長渡邊研司東海大准教授と共にプレートを送呈する。
年輩の市長が述べたという。「俺の元気なうちはこの庁舎を壊させない」。
その市長が言う。「使いにくいんですよ!真ん中に吹き抜けがあって」。でも僕には、このやんちゃ坊主を慈しんでいるように聞こえた。

黒川紀章さんに耐震診断をしてもらった。そして積載荷重を減らした。倉庫や書庫、それに廊下におかれていた書類棚や資料一切を運び出した。なんと正味40トン、100トン分のトラックで運び出したと僕たちを唖然とさせた。
担当課長が苦笑した。「それでも市政には何の支障も起きない」。

まるで僕の部屋のようではないか。あまりの乱雑さを見かねた妻君が3週間をかけて僕の部屋を整理してくれた。さっぱりして部屋が広くなった。でも口には出せないけれど、必要な本がどこかに行ってしまって、サーてどうしたものかと。でもこんなにいい部屋だったかと実は唖然としている(閑話休題)。

市庁舎のどこもかしこも整頓されていて、市民ホールの床のタイルがはっきり見える。三角に焼かれたこの床タイルの組みたて方が華やかで、妙に懐かしい。あの時代の様々な建築の姿を髣髴とさせる。訪れるのは2度目の僕の心が激しく揺さぶられる。実にいい建築だ。

DOCOMOMOのリーフレットを差しあげた。
課長が綴じ込んだ青図を出してくれた。旭川市役所の営繕課に行き撮影許可を得たときのことだ。外から見ると気がつかないと思うが、部屋が足りなくなってピロティ部分を執務室にした、ここをね、と教えてくれる。昔は開放的だったんだけどと、申し訳なさそうだ。
議場は木による壁と波打つ天井で構成され、これが有名なんですよねと案内してくれる係長が、ちょっと自慢げに微笑む。確かに!佐藤武夫の使う人への想いが読み取れる。それがこの建築家の感性なのだ。
それにしても書類の山だ。寒河江のすっきりした有様を伝えようと思ったが、ちょっとためらった。さすがに僕だって、自分の部屋を考えると人のことは言えない。

案内してくれている係長がふと漏らした。10月30日にこの庁舎は50周年を迎える。記念して写真展をやる。
そうか、この庁舎が50歳の誕生日を迎えるのだ。僕がつぶやく。僕より若い、でもお祝いに選定プレートを持ってきてプレゼントすればよかった。係長に営繕課に引っ張っていかれた。課長にもう一度会って欲しい。プレートが欲しい。
撮影をさせていただいたお礼を述べながら、帰京したら営繕課気付けで若き市長にプレートを送呈する約束をした。きっといつまでもこの建築を大切に使ってくれるだろう。それを期待して!

僕は思う。黒川さんが亡くなって1年経った。黒川さんと何度も意見交換した中銀カプセルタワーだけでなく、寒河江談義をしたかった。黒川さんの旭川市庁舎論も聞きたかった。熟するとは何かと。歳を取るのはどういうことかと。
時の過ぎるのがやけに早い・・・北海道の晩秋がざわざわと過ぎてゆく。旭川では雪が降ったとテレビが言っている。

<写真 左・寒河江市庁舎市民ホール 右・旭川市庁舎議場>

北海道紀行08(2) 二つの市庁舎・旭川と山形県の寒河江(その一)

2008-11-08 13:57:16 | 建築・風景

DOCOMOMOで選定した市庁舎は三つある。坂倉準三の岐阜県羽島、山形県の寒河江、それに北海道の旭川である。機会を得て続けて二つの市庁舎を観た。寒河江と旭川だ。
10月17日、仙台`メディアテーク`で行われたJIA東北大会で「よみがえるデザイン・サーヴェイ展」展示とシンポジウムを行った翌日寒河江を訪れた。仙台からJR仙山線に乗って山形駅に行き、そこから車で寒河江に足を伸ばした。仙山線車窓に迫る紅葉の始まりを身を乗り出して楽しむ。旭川にはその11日後、稚内に行く途中に立ち寄った。

寒河江市庁舎は建築家黒川紀章のいわばデビュー作である。1967年の竣工、若干33歳だった。
市民は外部の緩やかなスロープを登って2階の市民ホールに入る。その下に議場を設けた。これが黒川の考えた市民のための市庁舎なのだ。
黒川は4本のコンクリート壁によるコアシャフトによって建築の構造を支え、異形ともいえる大胆なカンティレバー(跳ねだし)をつくり出した。若き日の気負い。しかし時を経て、今では何がしかの微笑ましさをも感じ取れる。

庁舎の中央にある市民ホールに大きな吹き抜けがある。
はねだしの中の庁舎内のどこからも見える不思議な吹き抜け、そこに象徴的に吊るされた岡本太郎のガラス彫刻によるペンダントに天井のトップライトから光が注がれる。
33歳の黒川と55歳の岡本太郎とのコラボレーションだ。空間に刺激を与えたこの照明器具も、今では人々の心に溶け込んでいるようだ。
白い光の中の赤みのあるこの電球色が市役所を訪れた市民を和ませるだろう。出入り口のテンパーライト(強化ガラス)ドアの雲形の大きな取っ手も岡本太郎の造形だ。

黒川の建築人生へのスタートを、あの「爆発だ!」の岡本太郎が支えた。
市民はこの建築をどう受け止めたのか。慈恩寺のある歴史を内在したこの地にも新しい時代が訪れたことを感じ取ったに違いない。

一方の旭川市庁舎は、その9年前、1958年に建てられた59歳だった建築家佐藤武夫の設計した建築学会賞受賞など高い評価を得た建築である。
プレキャストコンクリートのフレームの中にその土地でつくられたレンガを組み込みこんだ。レンガとコンクリートの組み合わせは、北の大地に品格のある姿を生み出した。
この温かみを感じる円熟期のデザインは、大勢の市民に厳寒のこの地で生活する喜びを与えたに違いない。雪の上遠野邸を見たときにも感じたのだが、レンガの壁は雪によく似合う。自然のなかで人の生活を包み込む存在感がある。でも自然に阿(おも)ねてはいない。対峙しているのでもない。屹立している。上遠野邸も旭川市庁舎も。建築家の資質を僕も受け留めたい。
世は好景気に沸く高度成長期。佐藤武夫は浮かれず、人の生活を見据えたのだ。

建築を訪ねる。
建築を観て、描いていた僕の建築感や人生観が揺らぐ。建つ場の空気を読み取ることができるからだ。だから観に行かなくてはいけない。そして建築に出会うと黙っていられなくなる。意識はしていないのだけど、いつもそうなってしまう。
同時にもしかしたらと思う。僕と会った人の、僕の建築に対する想いを聞いて、建築に対する気持ちがほんの少し動くかもしれない。この建築はとてつもなく大切なのかもしれないと。

<写真 上段・旭川市庁舎 下段・寒河江市庁舎>

北海道紀行08(1)旭川から日本の最北端・稚内へ時を走る

2008-11-02 14:57:50 | 建築・風景

旅をする。
目的があって旅をする。例えばイベントに参加する為に。家族で温泉に。
自分で企画することもあるし、ただついていくだけの旅もある。仕事で出かけるのは旅とはいわないだろう。出張? でも仕事を旅にしてしまうこともある。

仕事の旅、数は少ないが、8月の後半に行った新潟では僕の設計したホテルの定期点検の後、一泊伸ばして翌日の夜「新潟町遺産の会」の人たちに保存の話をした。そこで思いがけず銘酒「鶴の友」の当主にあう。ニコニコしながら握手をした。
夕方までの空いた時間は例によって建築探索だ。前川國男の設計した新潟市立美術館へ。そこで僕の好きな画家、李禹煥(リ・ウーハン)の大作に出会った。砂丘館(元日銀支店長宅・木造の邸宅を美術館にした)に行って、館長・美術評論家の大倉宏さんに「いいですね、あの作品」と同意を求めたら、うれしいことを言ってくれますね、と喜んだ。この作品は大倉さんが収録を決めたそうだ。
大倉さんは新潟町遺産の会の代表でもあるのだ。でも僕の講演を仕切ってくれたのは伊藤さん、JIA保存問題委員だ。

僕の旅って人に会いに行くようなものなのだ。大倉さんに会いに行く。すると蔵元の当主と再会したりする。その後の飲み会で大勢の人と名刺の交換をする。飲まない誰かがホテルまで送ってくれたりする。

今年の北海道は、10月26日(日)から29日までの旅。築年の友、諸澤先生に招かれての札幌建築デザイン専門学校の学生(2年生と3年生)の設計課題の講評と学生との懇談会が目的。でも会いたい人がいるのだ。
建築家上遠野徹さん、北大の歴史の研究者角教授と院生の原さん、小樽PRES・KAFEの髯のマスター、それに学生たち。2年生が3年生になって一年ぶりの再会だ。
2年生とは初の出会い、彼らは緊張しているようだが、僕の好奇心が刺激される新鮮な出会いだ。

2年生の課題講評と懇談会の翌日、旭川を通って稚内へ向かう。旭川には、DOCOMOMOで選定した佐藤武夫の代表作、建築学会賞を受賞した市庁舎があるからだ。前夜北大の研究室に角さんを訪ね、サハリンの建築調査の成果に見入った(魅入った)後お座敷に席を移して一杯やりながら、旭川市庁舎を見た後稚内に行くんですよと述べたら、角さんはうっと眼をむいた。往復750キロくらい、日帰りだからだ。

去年は釧路の毛綱建築紀行だった。今年は「上遠野建築」を観たい。では稚内へ。いいね、稚内へは行ったことがないし。でも地図見て驚いた。北端だ。日本の最北端の丘陵地に、上遠野さんの自邸と並ぶ代表作、レンガを使った「稚内北星大学(竣工した1986年当時は短大)」が建っている。

今年の上遠野邸は紅葉の真っ盛り。ご子息の克さんが、樹の真下に円を描くように広がる落ち葉が綺麗だったのに、昨日の風雨で落ち葉がこっち側に固まちゃったと申し訳なさそうな顔をする。
青々とした芝生(札幌では芝生が枯れない。春になって雪が解けると緑の芝生が顔を出す)と紅葉、鉄の柱と梁と雨を含んでしっとりとしたレンガがえも言われぬ美しさだ。克さんともいつの間にか親しくなった。口に出さなくても建築家同士の絆ってあるのだ。

北海道は広大だ。でも車で走ると直線。長い。
まだ緑の唐松が、3時間も走ると色づいてきて白樺のヒラヒラとした黄色が綺麗だが、名寄を過ぎると枯れ木になってしまう。時を、季節を僕たちは走り抜けているのだ。

僕は助手席でうつらうつらしながら諸さんと語り合う。その諸さんは9月、砂丘館を訪ね大倉さんに会った。新潟に行ったら砂丘館を見て大倉さんに会いなさい!と僕が強要したからだ。
7時半に札幌のホテルを出て稚内北星大学に着いたのは3時を過ぎた。日暮れの予感がする。北は日が落ちるのが早いので。カメラを構えて走り回る。今年初めて手がかじかんだ。寒い。

上遠野さんが連絡を入れてくださったので、総務課のKさんが出迎えてくださり、校舎内を隅々まで案内していただいた。
諸さんも僕も無言。至福の時だ。

(写真 上遠野邸の紅葉と北西大学)