日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

もの想う大晦日 別れと出会い

2006-12-31 21:32:32 | 日々・音楽・BOOK

別れがあり出会いがある。
BILL EvansとJim HallのデュオIntermodulationのつぶやきあうようなピアノとギターの音を聞きながら人との別れを想う。年末の薄い雲を通して柔らかな日が部屋に差し込んでいる。高架工事の為の仮囲いの向こう側に、建築家岡部憲明さんのデザインしたロマンスカーの白い屋根が音もなくゆっくりと動いていく。陽炎のようだ。
娘がキッチンで正月の支度をしていて微かな包丁の音が聞こえてくる。愛妻は自分の母の介護に出かけているのだ。いつもの年末と少し違う。

嘗てダブルスのパートナーを組んだYさんの訃報、奥さんからの喪中の知らせは堪えた。
膝を痛めてテニスを断念してから10年近くなる。次第に疎遠になったが、都市対抗で格上の平塚市との対戦のとき彼と一緒に戦った一戦が、僕にとってのダブルスでの多分最高の試合だった。
相手はJapanランカーだったが、プレイが始まった途端負ける気がしなくなった。勝てるとも思わなかったが、体も良く動くし前へ詰めるYさんのボレーも角度がありなぜかミスをしない。相手があせり始めるのも良く見え、それが適度の緊張感になって集中していく。チームプレイの面白さだ。
ストレートで破って握手をしにネットに駆け寄ると、相手は憮然としてにこりともせず僕の手に触れただけでそっぽを向く。情けないなあと思ったものだ。テニスってそういうものではないという想いと、Yさんのにこやかな風貌と、テニスを語るときの早口になる彼の声がなかなか消えない。Yさんはまだ67歳だった。

僕が独立した直後からお世話になったOさんが11月に急逝された。若き日、技術も建築感も未熟だった僕に良く仕事を委ねてくださったものだ。愛妻が「そんな人いないよ!」とつぶやいた。

振り返ると、僕の人生の要に必ず人がいる。その人との出会いがなくては今の僕はない。無論そうではなく誰との出会いでも、誰との別れでも今の僕を創ってはくれたのだが。でも厳しかったOさんとの出会いがなかったら新横浜での10棟ものオフィスビル設計の機会がなかったと思う。設計の機会を得たことで又人と建築にも出会える。

女優岸田今日子さんも亡くなった。一度だが撮影をさせてもらったことがある。親しい写真家の新宿タウン誌の取材のとき助手という名目で赤坂のマンション、自宅に同行した。岸田さんはライターのインタビューに緊張されていてにこりともしなかったが、撮影に関してはいやな顔をしなかった。プロなのだ。助手といっても何も手伝わない僕が何故遠慮なく撮るのかわからなかったと思うが何も言わなかった。良い写真が撮れたが気になり発表していない。でもその時の僕も緊張した一齣が瞬時に思い浮かぶ。

人だけでなく建築との別れもある。慨嘆しブログにも記載した白井晟一の旧親和銀行銀座支店だ。眼に焼きついている建築がなくなった。どうあれ人が壊したのだ。
危うい建築も数多くある。東女の東寮、旧体育館。来春早々の1月16日にシンポジウムを行うことにした日比谷の三信ビル。中銀カプセルタワーの問題もある。しかしそういう建築の保存問題での人との出会いもある。東女のOG。三信ビルに思いを寄せる若い建築家と歴史の研究者。一時代を築いてきてこれからが戦いだと言う黒川紀章さん。

もう一つの出会いがある。何度も会っているのに突然心が揺さぶられることがある。僕が変わったのだ。いやそうでもなくふと触発されることが起こるのだ。人にも建築にもそしてモノにも。
年賀状がうまく出せて大晦日に時間が出来た。Intermodulationが終わった。しみじみともの想う大晦日。次はコルトレーンのバラードにしよう。

<写真 プリントごっこで印刷した来年の干支「猪」を乾かしている年賀状>

ライスカレーとグリンピース

2006-12-25 18:23:58 | 日々・音楽・BOOK

冷凍のルーをバリバリと割って、鍋に移して少し水を足し、中火でコトコト煮た。肉がバラバラにならないように「優しく」混ぜる。
と書いたが僕が煮たのではなく愛妻が慎重にゆったりとやってくれたのだ。沖縄の気に入っている皿にご飯を乗せてとろとろになったルーをかけた。
付け合せは生協で買ってきた福神漬け。グリンピースを3個乗せる。乗せたのは僕だ。これなくしてはね。何故グリンピースなのだかわからないのだけど。
気分は「三丁目の夕日」。泣けるカレーライスができた。
さて韓国の真鍮を叩いて出来たスプーンを水のグラスの中に入れて食卓に置く。

上遠野さんが札幌から送ってくださった北海の幸、かまぼこも冷蔵庫から出して皿に乗せ食卓に出した。従兄弟の博っちゃんから届いたぶつぶつと発酵している佐渡のにごり酒金鶴を、益子の仲の良い陶芸家後藤さんの杯に注ぐ。娘のは彼女が気に入っている沖縄の仁王の杯だ。

愛妻も、京都の着物店で古い大島を手に入れて自分で着込んできてご満悦の娘もニコニコしている。このライスカレーがなんとも旨いのだ。しっかりした味だ。でもこれではちっとも旨そうではないなあ。
コトバの限界か。いやいや`ねじめ正一`さんが書くと、卵焼きやそうめん、醤油まで何とかして食べてみたいとなるもの。やっぱり筆力ってあるんだと思う。

「波乱万丈、背水の陣、一寸先は闇、といった言葉の峰を爪先立ちで歩いてきた」小樽のPRESS・CAFÉのターマスさんが心を込めて作ったカレーライスが届いたのだ。添え状に僕をこの秋PRESS・CAFÉに連れてってくれたMOROさんのことが書いてある。思わず笑ってしまった。
「このご時世に、まだこんな時代遅れな男がいたのか!」
何だか僕も時代遅れの仲間のような気がしてきた。変な三人男。いやいや一周遅れて走っていて気がついたら実は時代の先頭に起っているような気もする。おや目の前に建築野郎1なんていうけったいな男が走っているぜ。

今年のクリスマスイブの食事の一齣です。




僕のクリスマス

2006-12-24 21:54:57 | 日々・音楽・BOOK

山下達郎の「クリスマスイブ」が車のラジオから聞こえてくる。
竹内まりや夫人との一年に一回(?)の掛け合いトークに、去年も車の中で聞いたねと同乗している愛妻や娘と語り、ああ一年経ったのだと年の瀬を思う。ノロウイルス対策で厳戒態勢の病院に母を見舞い、生協の買出しから帰宅してから3チャンネルをひねると、パレストリーナの荘厳なミサ曲が流れてきた。今夜はクリスマスイブなのだ。

昨日「二人の家」の現場に行き、そのお二人と建築会社の人や大工と仕上げ材の相談をし、少し遅れ気味の工程のことと収まりの打ち合わせなどをした。担当しているA君はノロにやられたらしくて出てこれない。28日にもう一回現場を覗くが、今年最後の正式な打ち合わせだ。お二人には無理なお願いを聞いていただいた。なんとなくホッとして新しい年を迎える楽しみが出来た。

60センチほど地面にもぐらせた居間から見る中庭や廻り階段廻りの空間は、僕が考えていたように面白くなってきた。もう少しだ。

そして歩いて燭火礼拝が行われる「杉田キリスト教会」へ向かう。
上り坂を曲がると打ち放しコンクリートで造った塔の上段に埋め込んだステンレスの十字架がバックライトによってほのかに浮かび上がる。入り口の右に起つイルミネーションで飾られた`もみの木`。クリスマスツリーだ。僕をみんなが一年ぶりなのににこやかに迎えてくれる。
僕は此処では有名人なのだ。何故って僕の設計した教会堂だから。

久保田牧師の聖書のお話は、僕の好きな朝日新聞の`言葉を信じる`と述べる「ジャーナリスト宣言」。しかし言葉には限界があると神に触れていく含蓄に富んだ組み立て方だ。

会堂にクラリネットのふくよかな音(ね)が響く。ゲストにお呼びしたクラリネット奏者柳瀬洋さんと佐和子夫人のピアノによるコンサートが始まったのだ。
柳瀬さんは東京藝術大学大学院を卒業された後、留学したドイツ国立デトモルト音楽大学を主席で卒業された。クリスマスにサンタさんからのプレゼント、そういうクラリネットとの出会いをユーモラスに伝えるトークをはさみながらの演奏。
音が良く響く。

ライバルとの闘いだと大学入試のときから頑張ってきた柳瀬さんが、ドイツで押しかけて演奏を聴いていただいた時の、後に恩師になる先生の一言。私はずっと「うた心」を聴き取ろうとしていた。日本人は誰でもテクニックがあり、此処を直せというと寸分違いなく次には勉強してこなしてくる。でもそれが音楽か?にべもなく入門を断られて悩んだ末の数年後、教会で神と出会う。恩師はあるとき「うたが少しはわかったね」と言って下さったと述べて演奏を始めた「アメイジング・グレイス」に不覚にも涙が出てきてしまった。

僕の創った建築に大勢の人が集まり心を震わせながら音楽に聴き入る。これはもしかしたら凄いことかもしれない。
僕は僕の内に幽かにある神に感謝をささげる。

久保田先生は母の為にお祈りをしてくださる。元気だった母を僕は良くこの教会へ誘った。土佐紬や会津木綿で作った袋を大勢の信徒さんにあげてみなに喜ばれた。ニコニコして穏やかなお母さんですねと気にしてくださっているのだ。

沖縄文化紀行(Ⅱ-4) 屏風のある亀甲墓

2006-12-21 11:59:44 | 沖縄考

渡邊欣雄教授の到着が夕方になるというので、先行したメンバーで、昨年見学した那覇市内の風水に関わる場所を廻ることにした。
文化人類学を学ぶ院生とはいえ、風水の研究をしているわけではない。何度も沖縄を訪れた院生はいるが、意識して墓や風水の郷を訪ねてはいない。結局なんとなく僕と、昨年も一緒だった佐志原さんと言う大学研究会のOGでもある民家の研究者が引率して案内することになった。

琉球王家の別邸「識名園」。琉球王朝時代から深い関わりを持ち、琉球文化に大きな影響を与えた中国福州と沖縄の友好を記念して作られた「福州園」。いずれも沖縄を語る上でも風水を検証する上でも欠かすことは出来ない場所だ。
そして僕が皆と行きたかったのは「識名霊園」という墓地である。

一つには霊園の入り口に建てられている「コンクリート流しこみ墓」という墓地業者の宣伝看板をもう一度確認したかったことにもよる。ブロックで無くコンクリートで造ることを売りにしているようだ。建売住宅と一緒だというところが面白い。
沖縄の墓の大半はコンクリートやブロックを使って造られるが、石組みだった亀甲墓が何時からコンクリートになったのか(或いはコンクリートブロック)気になっている。
沖縄で使い始められたコンクリートいう材料と墓との関係、それとブロック。そういうことを実証することで、墓を通した今までとは違う視点からの沖縄文化が浮かび上がるかもしれないと密かに思う。思うだけでなかなか調査・研究にまで踏みこめないのが僕らしいといえば僕らしいのだが・・・

今年の「墓ツアー」はこの識名霊園と、「伊江王子家」の墓だ。東恩名寛淳(ひがしおんなかんじゅん)によると沖縄の最初の亀甲墓とされる。
この伊江王子家の墓は資料が整っていて1687年に建造されたといわれているが、平識令治(へしきよしはる)によると、昨年沖縄紀行で探し当てた世界遺産になった座喜味城を構築した按司「護佐丸」の墓はその前年の1686年に造られたとされており、どちらを沖縄の最初の亀甲墓とするのか研究者の間では確定されていないようだ。
それはともかく明治期には貴族議員も担った名門伊江家は存続されており、二日目に見たその墓は首里の杜の一角に320年の間、密かに佇んでいた。

識名霊園の敷地内の道に車を留め降り立った。同行した学生が歓声をあげる。低い樹木に囲われた一角に幾つもの古い亀甲墓が見つかった。そして見事な(というのも変だが)屏風(ひんぷん)があったのだ。屏風設置の理由は「制さつ」(殺気除け)。そして良い風水を逃がさないためだとも言われる。樹による遮蔽垣と思われる育った樹木が見られるのも興味深い。
墓を見て歓声とはおかしな光景だが、そこが文化人類学者の卵たる所以なのだろう。破風型(家の形)が多いが、亀甲墓も沢山あるし、此処には共同墓はないが、門中(むんちゅう)の表示を見つけるとまたもや歓声が上がる。
研究者一行との風水の旅はこうやって始まった。

「亀甲墓」(沖縄のコトバではカーミナクーバカ)は「かめこうばか」と発音するが、大江健三郎の「沖縄ノート」や若き日沖縄を訪れたエッセイスト沢木耕太郎の紀行文、更に興味深い報告書でもあり貴重な研究書酒井正子氏の、奄美・沖縄「哭きうたの民族史」では,`きっこうばか`とかなが符ってある。しかし他の研究論文では「かめこうばか」とされており、渡邊教授によると「かめこうばか」と発音するのが正しい。しかし`きっこうばか`とあえてかなを符るのは、そういう言い方をする地域があるのかもしれない。そういうことが気になってくる。

中国ではクーカ(亀甲或いは亀殻)という言い方がされ、渡邊教授によると泉州には亀の甲のような文様が刻みこまれているものがあって聞き取り調査をすると、長寿の象徴である亀の形の墓を造るのは、(長寿は祖先(死者)のためではなく)龍脈を通じて墓に埋葬された祖先を敬うことによりその影響を子孫の繁栄に及ぼすためなのだという。これは正しく風水思想の原点だ。護佐丸の墓も伊江王家の墓も、風水を見立てて建造されたと文献にある。

沖縄では亀甲墓を母体に見立てるともいわれる。沖縄文化を語るときに「女性優位男系原理」という言い方がされるが、墓の前庭で母体を前にして食事をしながら祖先を想う風習を考えると、おおらかな沖縄の人の心が汲み取れるような気がしてくる。風水の原点が次第に忘れられ新しい文化として変貌して行く様をこういうところでも感じ取れるのだ。

前述した「哭きうたの民族史」(2005年6月小学館刊)は「哭きうた」といわれる死者を送る供養の歌と哀惜歌の研究書だ。歌の採録と共に死霊との交歓や葬礼などの興味深い事例が記述されている。

その酒井氏が挙げた今の時代の課題は、①ジェンダー(社会文化的性差)、それは国民国家形成を急ぐ公権力による沖縄人(うちなんちゅー)のヤマト化政策に関連して女性が関与する習俗に対する圧力にあるという指摘、②「弔い泣き」の抑制。ヤマトとの通婚による地域と世代による文化ギャップ、そして③火葬移行による葬礼の変革によりともなう死生感の変化、更に興味深いのは人間関係の希薄化による④「ともにいる、気」の希薄化。これは本質的な文化変化といえるかもしれない。鋭い指摘だ。沖縄だけの課題ではないなあとも思う。

沖縄を考えることは今を考えることになるのだ。
その考察こそ文化人類学にとっても、社会に深く関わる建築家である僕の課題でもある。
泡盛、瑞泉`青龍`を味わい良い気持ちになりながら、古の琉球の国に想いを馳せる初冬の一時。この一文を書いているバックで鳴っているのは、沖縄の古歌では無くエバンスのつぶやくようなピアノの音なのだけど。


デジカメに苦言あり

2006-12-18 10:19:50 | 写真

早く書いておかないと次号が出てしまうのでバタバタと書き飛ばしてしまおう。
まあ愛読書といっても良いかもしれない雑誌アサヒカメラ12月号に、「ベストカメラ・オブ・ザ・イヤー2006」が発表されている。多少後ろめたいのか、表紙の文字は小さい。

グランプリはニコンD80だそうだ。TVのコマーシャルで`キムタク`(木拓)が名機だとつぶやく奴だ。そしてレンジファインダー部門もデジカメ、ライカM8である。このカメラは発売したばかりで、誰も手にしていない。何しろ高価だしなかなか手にできない代物、審査員だってメーカからの試写のための貸与でしか触っていないカメラ。ちょっとこの企画はおかしいと思った。僕のポン友の写真家が審査員を勤めたので `おかしい` といいたくないのだが、こうやって書いていてますます腹が立ってきた。

一眼レフ部門のD80の講評で選考した或写真家は「D200と比べて絵がよくなっている」とのたまう。更に価格は本当に安いと思う、と付け加える。まるでメーカーのお先棒を担いでいるように見える。
それではD200を「ニコン渾身のデジタル一眼」さらに3年満を持して発表した衝撃とまで称えた昨年12月号のアサカメのスタンスはどうなのか。あのべた褒めの記事、それを上回るなどと書く。

D80が出たとき新規参入ソニーを恐れ、あわてて出したと僕たち写真好きの仲間では冗談っぽく揶揄した。そうやって楽しむのも、ひと頃のPCのように買った途端新製品が出る有様に憤懣やるかたない思いを抱いた「消費者」の怒りと、まあそうとはいえ売る為にはそんなこともあるだろうと「この時代と企業の苦悩」を酒の肴にするそういう楽しみ方を僕たちはしているのだと言っても良いのだが。

どう考えてもこのカメラを賞賛した写真家が、このカメラを使う(仕事でも、自分の作品を撮る時でも)とは思えないところが馬鹿馬鹿しいのだ。
このカメラは確かに安いのかもしれないがさしたる特徴があるわけではない。でも凡庸の魅力ということも有るか! ごみ取り機能もないこのカメラを`名機だと言っていいのか。コマーシャルだからどうでも良いのだが、今の時代、デジカメに名機はあるのか。

さて僕は写真人間(必ずしも写真機愛好家ではない)だが、システムや機能など技術的なことについては何もわからない。でも今のデジタル一眼レフに欠けているもの、「これさえやってくれれば褒めてやる」ことを書いておきたい。

① マウントが同じならどのレンズでも普通に使えようにすること。つまりマニアルレンズ、ニコンで言えばAiレンズのことだ。エプソンR-D1だって、ライカM8だってマニアルのMマウントが使えるではないか。
シフトレンズを使えないのも問題だ。あとでフォトショップなどで補正すれば良いと公言している。
しかし写真はファインダーを通して瞬間を切り撮るものだ。後で勝手に細工しろというスタンスは容認できない。事実の捏造になるではないか。写真の原点、記録という側面を考えなくてはいけない。

② レンズ交換が普通に出来ること。要するに撮像素子につくごみ対策だ。僕はなるべくレンズ交換をしたくないのでフイルムカメラでは決して使わなかったズームレンズを使い始めた。
ディストーションに悩まされながらも背に腹は変えられない。でもなんとおかしなことか。そうやって注意しながらもごみが付き、メーカーのサービスステーションに何度も出かけた。東京にいるから気軽に行け、メーカーの対応も良いのでおや!良い会社だなあと思ったりしたものだが、身近にサービスステーションのないところではどうしているのだろうか。D80にはその対策がなされていない。選者やメーカーの問題意識のなさに唖然とする。

愚痴っぽくなるが、これは愚痴ではない。写真界が当たり前だと思うことと、僕たち写真人との乖離が気になるのだ。


自然林は雪の中だろうか

2006-12-16 09:45:50 | 日々・音楽・BOOK

寒くなった。手を切るような冷たさというほどではなく、二週間ほど前からコートを羽織るようになった。東京の寒さなんてそんなものだ。そしてやっと銀杏が色づき落ち葉で僕のアトリエの近くの道が黄色くなった。今日の午後、委員会のために訪れた熱海の日向邸へ降りる階段は、真っ赤な`もみじ`の落葉が一杯で思わず見とれてしまった。12月の半ばだ。紅葉は毎年12月だったっけ・・・

10月25日に伺った上遠野邸の黄色く色づいた紅葉が余りも美しいので見入っていたら、この2,3日だけ、明日になると散り始めてしまうよと上遠野さんが慈しむようにいう。一年で3日間、そういう日に来合わせたのは何か縁があるのだと思った。
その札幌は雪だという。あの魅かれた植物園も雪に覆われて真っ白になったのだろうか。

ホテルのベッドの中でぐずぐずと考えた。こうやって何もせずぼんやりしているのもなかなか出来ない贅沢といえるのではないか。夕方北大の教授と僕を札幌へ招いてくれた専門学校のMORO先生と一緒に一杯やるのだけど、それまでの半日ぽっかり時間が空いた。
でもやはり起き上がった。観てないというと呆れた顔をされ、あそこは素晴らしいと親しい建築家が言う「植物園」に行ってみようか。そうだ赤レンガの「旧道庁」も見てない。

自然林をバックにした芝生の中に、何棟もの重要文化財に指定された素地のままだったりブルーグレーに塗られた板張りの建物が建っている。開拓時代の貴重な建築群だ。でも僕はそれを横目に見て自然林に分け入る。そして「自然林の追跡調査」書かれた建て看板に見入る。その後この植物園の中にある「北方民族資料館へようこそ」と書いてある表示板を見て、関わるいずれも北大の研究者のスタンスに感銘を受ける。心のどこかでああ来て良かったと思うのだ。

「この植物園は開拓以前の植生の残る場所、もとはハルニレ林だったが97年の調査では低木や林の下にはハルレニではなく、エゾイタヤ(イタヤカエデ)が増加していた。平成16年9月8日の台風18号の強風で、大半の樹木が根から倒れ幹が折れた。暗かった林床に光が届くようになり、植物たちの新たな生存競争が始まった。倒れた樹木は片付けない」
世代交代。しかし油断もすきもあったものではない。老木の思いやいかに。研究者の溜息と好奇心に僕の好奇心もゆらゆらと立ち上がる。自然の摂理か。「新たな生存競争が始まったと」いう一節にぐっと来たのだ。

「明治初期の北海道は、本州に住む人にとっては未開地、先住民族であるアイヌ民族の文化の知識がなかった。開拓使や昭和初期の大学の研究のための収集なので、特殊なものしか収録されていない。当時のアイヌ民族感に留意する必要がある。アイヌ民族やその文化は `失われていくもの` という今では考えられない意識で収集されており、他の博物館や文献等も参照して考察しなくてはいけない」という。
僕が文化人類学の講義を聴いて学んだ「知識論」の実証が此処にある。真摯で平衡感覚のある研究者の歴史感に触発される。それにしてもこの収集された器具や道具のなんと魅力的なことか。

「旧道庁」そこの展示に立ちすくんだ。「又8月がやってくる」というコトバから始まる戦後の樺太の惨事に。郵便局の交換台を守り「これが最後です。さようなら  さようなら」という言葉を残して9名の若き交換手が自決した。

考え込み、感銘を受けたあとの仲良しとの一杯。しょうたと染められた朱の渋い暖簾をくぐる。時を語るのには日本の酒だ。アイヌ民族文化を考えるのはなかなか難しいのサ、と角教授が言う。MOROさんは毛綱モンタの反住器が黄色と黒だったと教授から聞いて愕然としている。

美しい東京女子大学の存在

2006-12-07 15:00:04 | 建築・風景

武蔵野の森に映える東京女子大は、日本で一番美しいキャンパスかもしれない。
私は何度かその素晴らしいキャンパスを見学させてもらった。校門を入った正面に、背の高い樹木の中に旧図書館(現在の本館)の姿が表れるといつも心が震える。右手のチャペルに敬意を表して前に踏み出すと、芝生に彩られたキャンパスの全貌が現れる。更にその奥には、樹木の中に佇むライシャワー館や外国人教師館などと共に、チェコキュービズムのデザインを漂わせる東寮の整然と並んだ窓が現れ、建築の品格とはこういう建築のことを言うのだと身の引き締まる思いがする。

東京女子大はアジアや日本のクリスチャンの教派を越えた人々の日本に女子大を設置すべきだという検討結果をうけて、アメリカの超教派による組織(協力委員会といわれた)の寄付によって創設された。東、西寮からこのキャンバス計画が実施されたのは、全寮制を目指した建学の精神によるもので、この寮を見ると当時の人々のこの大学への想いが浮かび上がる。

又私が好きなのは旧体育館だ。社交ダンス部や、フォークダンスの稽古をやっている有様が垣間見え、何か華やかでこれが女子大なのだと若き日に憧れた女子大生の姿が眼前に顕われるのだ。この体育館は周辺の校舎との調和を取るために高さを押さえ、床面を地面にもぐらせて階段で降りるようになっている。その階段が見学席の役割を果していることを見ると、なんとなく微笑ましくなる。当時のよき女子大を表現している証でもあり他に類のない空間だ。其れが今に生きている。

そのキャンパスを構成する上で欠かせない東寮と旧体育館を壊すのだという。

数年前になるが、建築家の私はレーモンドの建築を見たいという想いでここを訪れた。このキャンパスは帝国ホテルの設計のために来日したフランク・ロイド・ライトや、ライトに同行したA・レーモンドの生まれたチェコの建築様式の影響を漂わせていて、建築家レーモンドの初期の貴重な作品として知られている。日本の建築の歴史を考えるとき、いや世界の建築界にとっても欠かせない作品として評価されているが、何度か訪れるたびに次第にレーモンドと言う名前の為ではなく、キャンパスを構成するその建築自体の魅力の虜になった。

現在の社会構造の中でどの大学でも将来のあり方に腐心している。でもこの東京女子大にはこの9棟の建築が残っているのがうれしい。登録文化財にした7棟だけでなく、壊すと言う2棟と共に奥深い魅力を秘めた東京女子大を生かしていくことが出来るからだ。其れが東女(トンジョと親しみと敬意を表して言いたい)のかけがえのない財産になる。

学校ではその2棟は老朽化が酷く安全上に問題があるという。東寮につながっていた西寮は残念ながら既にないが、同じ時期に建てられた他の7棟と安全の上で何処が違うのだろう。
学校では様々な問題があると表明しているが耐震診断をしたのだろうか。いや耐震診断をするまでもなくこの時期のレーモンドが設計し、日本の建築界の叡智を傾けて創った2階建ての建築の安全に不安があるとは言い難い。それではチャペルや講堂や本館はどうだと言うのだろか。勿論お金を掛けてメンテナンスはしなくてはいけない。どの建築に取ってもそれは当たり前のことだ。
又時代、つまり社会の様相の変化にも対応しなくてはいけないだろう。まずこれらの建築を残してどのような計画が出来るかというところからスタートすべきなのだ。

私はいつも不思議だと思うのだが、学生時代のたったの4年間が人生のあり方を決めてしまう。多感な青春の一時、そこで培った教師や友人との出会い、そしてそれを育んだ空間、つまり建築の存在を抜きにしての人生はないのだ。普段は考えもしないことだが。
女子大、それにクリスチャンコードの掛かった経営陣を占める男性は残念ながら卒業生ではない。しかし自身の学生時代を振りかえってみれば思い当たることがあるのではないだろうか。先達、OGのこのキャンパスに対する想いを受け止めたいものだ。

六本木にある国際文化会館では、一旦改築すると表明した嘗ての三菱銀行頭取を勤めた理事長が、その建築に思いを馳せる人々の気持ちを汲んで残して改修する道を選んだ。そして理事会決議を変更したその決断は各界に高く評価されている。東女でも経営陣の英断に期待したい。卒業生でもない私だが、建築家として、いや一人の社会人としてこの魅力的なキャンパス風景を壊したくないのだ。
守衛さんの学生や訪問者に対するにこやかな対応にも心が和み、とても良い大学だと想ってきた私たちの気持ちも受け取って欲しい。いつまでも良い大学であって欲しいのだ。

 

<この一文は、「東京女子大学レーモンド建築 東寮・体育館を活かす会」(通称:東女レーモンドの会)のHP記載のために寄稿したものですが、大勢の人にお伝えしたいと思い、このブログにも掲載します。12月4日日本外国特派員協会のホールで、この問題ついてのシンポジウムを行いました。私は司会(コーディネーター)役を担いましたが、その様子は機会を見て報告します>


旅 トルコ(4)トルコで食べる

2006-12-03 13:22:33 | 旅 トルコ

トルコの料理はどうだったかと良く聞かれる。その度に意表を突かれたような気がして困惑する。
旅に出てその土地の料理を食べるのは大きな楽しみだが、何しろ一人旅っぽくなったので、トルコ料理を味わいに出かけようという気持ちにはならなかったからだ。でも無論何も食べなかったのではない。そして食べた料理(料理とは言い難く食事、食い物?)は、思いがけなくどれも癖がなくなかなかだった。

まず関空からのターキッシュエアライン、水平飛行になった途端夜食が出た。時間があったので関空のレストランで、パスタセットなるものを食べたばかり。参ったなあと思いながら食べ始めたら、これが味がまろやかでなかなか美味い。よりもよってクリームがどっぷりのパスタが付いてきたけど。トルコに対するイメージが少し変わる。

ところでターキッシュと発音する人と、トルキッシュという人がいる。僕はターキッシュで篠田さんはトルキッシュだ。カッパドギアで出会った韓国の女性はターキッシュ。帰りの飛行機でスチュワーデス(今では客室乗務員というのか、エアラインによって違う?)に聞いたら、ちょっと困った顔をして、どちらも違うという。トウーキッシュ(この発音は文字にはし難い)(閑話休題)。

ホテルの朝食はバイキング形式だ。ペラパレスで初めてちゃんとした(?)トルコを味わうことになった。どうやって食べるものなのだろう。僕はヨーグルト(実はトルコが起源なのだそうだ)などにぶち込んだが、猛烈に塩辛いチーズやナッツ、これがトルコかと思ったが、他のホテルではそうでもなかった。パンが美味い。フランスパン(トルコパン?)をナイフで好きなだけ切りとって食べるのも、このホテルと旅人との信頼が築かれているような気がして良い感じだ。

さて一緒に食べようと約束した初日の夜、篠田夫妻とガラタ橋の下のレストランに行った。呼び込みのアンちゃんに12YTL(イエーテレ)といわれて安くて良いやと入った店、ライトアップされたイエニ・ジャーミーや行き交うフェリーを見ながら食べるのはなんとも楽しい。
ガラタ橋ではウイークデェイなのに日がな釣り糸をたらすおじさんたちがいて、小さな魚が結構釣れる。釣れるのかと様子を見ていたのでわかるのだ。どうやらこの釣った魚を下のレストランでも料理をするようだ。魚を食った。まさか!出てきた魚はでっかいのでそれではない。と思う。

結構なビールで良い気持ちになった頃、店の奥から流しの三人組の奏でる音楽が聞こえてきた。コーラン風のメロディとリズム、豊かな異国イスタンブールだ。
味は普通。まあ写真を見て欲しい。なんとも楽しそうな篠田さんとサービス満点の流しのおじさんたちを。味なんて二の次だ。

実はちょっぴりお腹を壊した。渡邊さんも山名さんも調子を崩したが、正露丸を三粒飲んだら直ってしまったという。あまった二十粒ほどを渡邊さんに貰った。それをほとんど翌日の一日で飲んでしまった。僕の調子がいまいちだったのは、正露丸に当ったのではないの!と帰ってから皆に笑われてしまった(これも閑話休題)。

さてアンカラからイスタンブールに戻った日、フィッシャーマンズワーフに座り込んで暮れていくジャーミーやガラタ塔を見ていた。
スイミットというゴマつきドーナツパンを売る屋台が出てきた。のんびりと行き交う人と会話をしながら準備を始める。焼いた大きな魚(バルク・ウズガラ)をパンに挟み込んで売る屋台が何台も出てきた。売りかたにも個性(工夫)があって面白い。飽かずに眺めていたら腹の調子が万全ではないものの、そのホットドッグを食べたくなった。

好奇心には勝てない。公設らしい屋台の看板には[HISTORICAL FISH&BREAD]と書いてある。これが決め手、これは美味い。僕はイスタンブールの歴史を食ったのだ。回転焼肉ドネル・シカブを挟み込むのもあるが、人気があるのが魚だ。包むエルメッキという有名なパンが美味いのだ。安い、3YTL。

カッパドギアの洞窟ホテルでの奇形を眺めながらの夕食と朝食、夢のような景色だったがさて味はどうだったかと問われると!まあ普通。それより運んでくれた人の素朴でアットホーム的な感じがとても良い。でもこれでは料理のレポートにはならないなあ。
こんなことを書いていてもしょうがないか。ガイドブックで紹介されているトルコ料理の定番、レンズ豆のスープ・メルジメッキ・チョルパスもシシ・ケバブも食べていないので。

とは言えもう一つ。
イスタンブール現代美術館のコーヒーとサンドウイッチは美味かった。この美術館のレストランは、海に面した2階にあってミュージアムショップから入るようになっている。ドルもユーロも使えない。YTLかカードだ。
このレストランで食べるのは、イスタンブールの人々のステイタスになっているのだろうか。おしゃれをして、エグジェクティヴ的な様子の人々で埋まっている。優雅な景色だ。この街の側面が見えてくる。

倉庫を改造したこの美術館では、トルコの代表的な美術家(と思われる)Fahrelnissa、Nejad夫妻の回顧展が開催されていた。コレクションをしているようだ。黒や赤に黄色やグレーの原色を組み合わせたNejad夫人の代表作と思われる抽象画を表紙にしたノートなどが常設グッズとして売られている。色の組み合わせやその形に微かにトルコを感じる。アグレシップな。
思わず手に取り数冊買い求めた。DOCOMOMOのプロポーザルの資料を作ってくれたメンバーへのお土産にするのだ。

そうだ。これは書いておこう。何処へ行ってもチャイがおいしかったことを。