日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

初夏の地鎮祭 「下屋ボックス3」

2009-05-30 23:08:10 | 建築・風景

汗ばむような晴天の朝10時半、「下屋(げや)ボックス3」・H邸の地鎮祭に臨んだ。連休明けの5月10日、日曜日である。
神主さんが神を呼ぶ。設計した僕は、いい家になりますようにと鎌で榊を伐り神に祈る。皆で様々な事柄をお願いして`わかった、任せておけ`と神は天に帰る。いつものことだが新鮮な儀式だ。
僕が捧げた奉献酒は厚木の地酒小金井酒造の純米酒「盛升」。Hさんご夫妻は飲まないが、実家のお父さんに飲んでもらおうと選んだ切れのあるうまい酒なのだ。

その酒・神酒を建築会社の現場担当者Y君が神主さんに渡そうとした。いやこれはHさんにと、建築会社からの神酒を神主さんに渡す。ふと神に捧げたこの酒は本来誰のものになったのかと考えてしまった。数多くの地鎮祭をやってきたのにはじめて頭をひねった。

近隣に挨拶をした後、近くに建てたHさんの実家に立ち寄った。数年前僕が設計した「下屋ボックス2」。
ダークグレーに塗ったボックスの外壁に片流れの下屋を架けた。下屋の壁は土色のリシン掻き落し。車庫の外壁を同色に塗った。街路に沿って植えたHさんの丹精による木々が育ちいい感じになった。やはり・・・時間だ。

Hさんの父親は僕の出た大学の先輩、その奥様がお祝いにといって「桜茶」を入れてくださった。
庭の片隅には大きな桜の古木がある。この桜茶の花びらは、庭の桜花を塩漬けにしたかと思ったら「いやよ、スーパーで売ってるのよ」と僕と同い年の奥様が微笑んだ。塩加減も良くちょっとしたお祝いだ。みなで乾杯をする。

この家の工事もY君に担当してもらった。若い彼はずい分と苦労したようだがいい経験を積んだと思う。庭先の石垣の上に鉄骨とデッキプレートで1メートル20センチほどの人工地盤を造った。そこに植えた株立ちの樹木が育った。大きなガラス戸を通して見る緑が濃い。緑も濃くなったが、多用した室内の米松材がいい色になった。家も育つのだ。

5月の樹木の密生した濃い色が僕は好きだ。秋もいいが初夏のこの装いもまた格別である。この感覚を伝えるいいコトバが無いだろうか。「充実!」。うーん、語彙が乏しいなあ、僕は。
桜茶と、濃い緑を味わいながら、かつて妻君と歩いたタモの樹林を思い起こした。光に映える新緑を。
僕も妻君も山歩きはちょっと厳しくなった。
僕たちが山岳地を歩いたのは、いつのことだったかとふと目を閉る。

東京女子大学の光を消したくない 「旧体育館の解体」問題

2009-05-24 23:28:37 | 建築・風景

新渡戸稲造や安井てつの建学の精神を受けて建てられた、東京女子大学の旧体育館の存続が、風前の灯火となった。理事会(理事長)の指示により解体準備に入るという。

この建築は、設計したアントニン・レーモンドの軌跡や、日本のモダニズム建築の歴史を検証する上でも欠かせないが、この体育館ではじめて日本の女子大学の体育教育がなされたのだと東女のOGや先生方から聞くと、日本の近代化の歴史の一面をこの可愛い建築が背負っているのだと思えてくる。

この体育館の両サイドには鉄筋コンクリート壁構造によるクラブハウスがある。
この壁と、体育館の柱にアーチ状にかけられた梁に設置された鉄パイプによって支えられた体育館の構造計画からは、DOCOMOMO Japanの要請によって耐震の検討をした構造の建築家松嶋晢奘さんが感嘆したように、建築家レーモンドの新しい時代を切り開いていこうという気迫が感じとれる。

この建築には、帝国ホテルを設計するために来日したF・L・ライトについてきたレイモンドの、まだライトの影響や故郷チェコキュビズム造形の面影を宿すなど、昭和初期の建築の面白さが汲み取れて,得も言われない魅力(僕が可愛いというのはそういうことなのだが)を感じるのだが、デザイン面だけでなくレイモンドが構造の合理性にも目を向けたということに興味がわいてくる。1920年代より主流となるモダニズムの思潮がここからスタートしたのではないかと気がつくのである。
これは僕が建築家だから気になる建築としての面白さだ。

しかしこの体育館の魅力とかけがえの無い価値は、それだけではない。
ものがおいてあったりして気がつかなかったが、この体育館のクラブハウスには、一階にも暖炉があり、数えると趣の異なる五つの暖炉があるのだ。この体育館が、社交館とも言われていたことは、この暖炉を見ると納得できる。
つい先日、レーモンドの弟子、吉村順三に学んだ奥村昭雄東京芸大名誉教授や東女の教授など数名が暖炉の前に集まり、慎重に薪を燃してみた。僕は所要があって同席できなかったが、外部からの吸気パイプが設置されており、燃えすぎず、煙にむせることも無く、炎の暖かい空気が部屋にふんわりと流れてきて感嘆したそうだ。
暖炉だ。炎があるのだ。
レーモンドの技術と、建学の精神をこういうところからも汲み取れるのだが、この暖炉は大学教育とは何かと言う命題を今の社会に、つまり僕たちに問いかけているのだと思う。

暖炉を前にした教師と学生、或いは学生同士、さらに東大や慶応義塾と社交ダンスやフォークダンスなどの部活動による交流がこの体育館で行われてきて、薪を焚いた暖炉を前にしての談話、そこに新しい日本をになう女性を育てる女子教育を目指した人々の思いをみる。
作家永井路子さんにうかがうと、かつてこの体育館で演劇をやったのだという。体育館の床が少し下がっていて、回廊があり階段室の前面のスペースが舞台になる。2階の階段室ホールの手すりから、ジュリエットが顔を出し、ロミオが体育館の床に膝を着いてジュリエットに手を差し伸べたという。これが東女の伝統だ。

部活は今でもなされていて、この空間で見た社交ダンスやフォークダンス、更にICUとの交流で行われた日本の神楽舞などに僕は酔いしれた。憧れの東女、歳取った今でも僕の心にふと灯るその思いは、見識高いOGの方々の姿とダブル。東京女子大の宝物だ。ハードもソフトも。

三十数年前に建てた新体育館を取り除くと、旧体育館を残しても広い中庭ができる。新研究棟・体育館の一階のピロティがうまい具合にその中庭と繋がるのだ。レイモンドが想いを込めたキャンパス計画の一端が蘇るのだ。
新しく建てた研究棟の体育館が竣工してお披露目がされた。それを受けて東女では学生が中心となって旧体育館を使うイベントが行われた。
5月14日にはレーモンドの弟子三沢浩さんと建築史の研究者内田青蔵さんが講演をし、22日の「体育館=社交館」復活イベント、講演&フリートークで僕は永井路子さんや卒業生鳥山明子さんと共にこの建築への想いを述べた。

東寮はなくなったが、この旧体育館への保存要望書がJIA(日本建築家協会)、DOCOMOMO Japanやアメリカの建築史家などから提出された。
OGを中心に構成した略称「レーモンドの会」が、この建築の価値を検証するシンポジウムを開催し、HPを立ち上げて社会にこの建築の存在を広く伝えてきた。
数多くの学内の教授陣が立ち上がった。
建築史家鈴木博之さんたちがパネリストになったシンポジウム第二弾が旧体育館で開催された。学生が様々なイベントを通して残して欲しいとアッピールした。
有識者にこの想いを伝えたら、瀬戸内寂聴、近藤富枝というOGの作家や、平野健一郎、谷川俊太郎、本橋成一、それに阪田誠造や仙田満をはじめとする大勢の建築家など様々なジャンルの180人を超える方々があっという間に残したいと名を連ねてくださった。この会は前野まさる東京芸大名誉教授が代表となり、僕が事務局を担っているが、思いがけない人々の名をみて驚いている。数多くの新聞や雑誌がこの問題を書いた。

活動をすることによっていろいろな人と出会った。僕も多くのことを学んだ。暖炉の逸話もその一つだが、やりながらわかってきたことが沢山ある。
僕たちは明日25日、プレスセンターで記者会見を行う。この旧体育館が東女の善福寺キャンパスにまだ建っていることを訴えるのだ。一旦決めたことを振り返り、踏みとどまることは勇気がいる。理事長にその勇気を期待したい。
「東京女子大学の光を消したくない」からだ。

室生犀星の金沢 +建築家内藤廣とNコレクションをみる(Ⅱ)

2009-05-20 10:28:10 | 日々・音楽・BOOK

僕が犀星に読みふけったのはいつの頃だったのだろうか。
「幼年時代」や「性に目覚める頃」には微かな記憶があるが、犀星が東京に出た青年時代を描いた「ある少女の死まで」を読んだ記憶が無い。
「幼年時代」を読み出して感銘を受けたのは、その時代の、金沢の武士だった子の多感さだけでなく、その言葉使いや生活規律の確かさだ。この規律が日本文化を支えてきたのだと思う。それはまた70歳も間近になった僕の感じる日本文化の源流なのだ。

崔川やその畔(ほとり)の草むらに生きる虫や庭を愛して、そしてつくった自宅の庭を歩く着物姿の犀星の写真を見て、僕が中学生の頃、阿佐ヶ谷(東京杉並区)に住んでいた僕の伯父を思い出した。
荏原製作所を出て水処理の会社を興した伯父は、経営者というより俳句を詠む明治生まれの文人だった。そして後年、堀の内に建てた自宅の庭を庭師を入れてつくった。風貌もよく似ている。
二代目になったその息子僕の従兄弟は、オヤジは仕事なんてできなかった、俺がこの会社を築いたんだと笑う。

僕は室生犀星を読み返してみたくなった。24日の夜、東茶屋での懇親会でお酌をしてくれた可愛い娘を思い描きながら!

嵐の中、往くところがなくて飛び込んだ記念館。受付のおばちゃんの話だと、この記念館だけを見たくて沖縄や九州から来る人も沢山いるのだという。だがその日、風雨のせいなのか僕のいた2時間には誰も来なかった。お蔭様でのんびりとおばちゃんと話しこめた。犀星の書物では得られない側面が見えてきた。

木造だった実家を建て替えた記念館は、まあなんというか新しい手法の鉄筋コンクリート造だった。<写真 その室生犀星記念館2階>


―『追 記』―
ふと気がついた。「ふるさとは遠きにありておもふもの・・」が犀星の抒情詩だということに。

ふるさとは遠きにありておもふもの
そして悲しくうたふもの
よしやうらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
・・・・・・・

叙情小曲集に収録されたこの詩は、抒情詩として若き日の僕の心をうったが、読み返してみるとつらい詩(うた)だ。でも犀星には「ふるさと」があった。室生犀星記念館も建った。だけど僕の生まれた杉並・馬橋の長屋は空襲で焼けた。
時々思いを凝らす。僕の`ふるさと`はどこにあるのかと。



室生犀星の金沢 +建築家内藤廣とNコレクションをみる (Ⅰ)

2009-05-16 14:52:44 | 日々・音楽・BOOK

「あんたは単純だね」と妻君にいわれた。金沢へ行ったと思ったら「室生犀星」だもんね、というのだ。
部屋を掃除したときに、僕の枕元に図書館から借りた文庫本「ある少女の死まで」(岩波文庫)を見つけたのだ。だって!ともぐもぐと言い訳をする。まあ俺はわかりやすい男だからなあと思いながらもなぜ言い訳をしなくてはいけないのだ。
雨と風でねえ、傘がおちょこになって歩けなかったのでね、仕方なく「室生犀記念館」に2時間もいたのだから・・・でも妻君は室生犀星が金沢の出だと知っていたんだと我が妻をちょっと見直したりした。

4月24日(土)、金沢工大で行われたJIAと金沢工大(KIT)で設立した建築資料館「JIA-KITアーカイヴス」の設立記念展「Nコレクション展」に関連した建築家内藤廣の講演と、内藤さんもパネリストになったシンポジウムを聴き、委員会を行うために1泊2日で出かけたのだ。

Nコレクション。
建築雑誌「a+u」を創刊した編集者中村敏男氏がコレクションした、ルイス・カーンやコールハウスなど著名建築家のスケッチをJIA-KITアーカイヴスに寄贈したのだ。
内藤さんは展覧会場で、カーンのスケッチをみて、あまりうまくないね!と僕の顔を見てにやりと笑う。うーん!でもね、どれでもいいから一点だけでいいから欲しいよねと僕は内藤さんにささやく。本音だ。

それは別の機会に書くことにして、一泊した翌25日、まずは思いがけず出会った「室生犀星」だ。
実家のあった土地に建てられた犀星の記念館。犀星の生まれた実家があったのは西茶屋街と犀川の間、そこでの少年時代が「幼年時代」を生み出し、「性に目覚める頃」と「ある少女の死まで」の三部作になっていくのだ。

この文庫本には、3篇の後に、後書と題した後書きが掲載されている。
「幼年時代」は犀星が30歳のときに書いた処女作。後書の最後の一節には「何事も或いはもう遅いかもしれないが・・と書き出し、私の初期の小説については多くの悔いばかりがのこり、・・・一つの作家の生い立ちの悲哀をかたちづくるものとして、私をそぞろに悲しめてくるのである。」とある。
昭和26年、犀星62歳、功なり名を遂げた亡くなる10年前に書かれた厳しい一文である。

記念館では、長女朝子さんのみる父や、犀星をささえた堀辰雄夫人多恵子さんの語る犀星の姿が映像によって映し出され、2階の犀星と私というコーナーでは、自身の声で自作の詩を読む犀星の生の声も聞くことができる。
「文士」という姿がぴったりの犀星の面影が浮かび上がった。
犀星は武士であった父と小間使いの間に生まれた子供で、幼くして近くの寺に養子に出される。生みの母は、追い出されてその後の消息がわからなくなるという幼年時代をすごすのだ。(つづく)

<写真 金沢工大で行われた「Nコレクション展」に見入る内藤廣さんや、元JIA会長の大宇根弘司さん、JIAーKITアーカイヴス所長竺金沢工大教授>

愛しきもの (8)  野田哲也のDiary「桃」

2009-05-10 18:03:40 | 愛しいもの

春になるとどうしても見たくなる版画がある。野田哲也の「桃」だ。
版画家野田哲也は全ての作品を「日記」(Diary)というタイトルにして日付しか入れていないが、この版画を、わが家では「桃」といっている。(May 9nd 1972)

無地の座布団の上に桃が4個置いてある。
野田さんの作品は、主体をよく画面の下方に配置するが、この桃も下部ぎりぎりに置かれている。淡い色調の微かな赤みのある彩がなされ、女性のお尻の様だ。よくモチーフとして取り上げられる「みかん」は「おっぱい」のようだし、それがなんとも微笑ましく思えるのだが、それが野田さんのたくまざるたくらみ、意図なのだろうか。

この作品は、4個という偶数の桃なのに、その一つがやや右に置かれているが中央にあるように見える。微妙なバランス感覚だ。そしてなんとその桃には、お尻の穴があって、それを僕たちにそっと見せているような気がしてくる。
長時間見入っていてもその構成力の見事さに見飽きることがない。完璧だ!完璧なのにいつまで見入っていても見飽きないのはなぜだ?

展覧会時のカタログ「野田哲也 全作品Ⅱ1978-1992」は、ハードカバーのものと2冊も持っているのに、「Ⅰ」がない。この桃は72年作なので「Ⅰ」に収録されているはずだが、なぜ「Ⅰ」が僕の手元にないのだろうか。
それはともかく、「Ⅱ」で中原祐介はこんなふうに書いている。(野田さんは写真を撮ってそれを使いながら版画構成をするのだ)。

『野田が写真を用いるようになるのは、作品が「日記」というタイトルを持つのと期を一にしている。多分「絵日記」から「絵」が去って「日記」となったにちがいない。』
そして「カメラ日記」に移行したのだという。写真と美の結合、そこに野田にしか表せない技法がある。

描かれるのは、或いは撮られるのは、日記。日々の出来事、近所の人や知人にお土産にもらったもの、時折ご自分の子供や奥さんだったり、家族の集合写真、街、それに野田哲也自身が登場したりする。僕のささやかなコレクションにも横顔の野田哲也がいたりする。

いつのことだったか忘れてしまったが、銀座で行われた小さな展覧会の最終日、今日は少しは人がきてくれると思って出てきたのだけどこないなあ!と僕と二人で苦笑したことがあった。
その野田さんは、数々の国際版画コンクールで受賞し、米国の国内では作品を入手するのが難しいと言われる。なぜなら自分で手刷りするので作品が少なく、すぐに完売してしまうからだ。(The WorksⅢ1992-2000)。

ところでつい最近、東京文京区千駄木のギャラリー五辻で「Self Selection展」が行われた。
カナダに行ったときに、ショウウインドウを撮った写真で構成した最新作がいい。案内葉書に刷られたDiary April 2nd 2007の自画像にも惹かれた。いい男になった。顔を隠した野田さんのいる作品もある。隠さなくたって・・・

今、国際的に評価されるのは、草間弥生と野田哲也の二人だと、かつてフジテレビギャラリーにいた五辻さんは言う。
その野田さんは一昨年東京芸大教授を定年退職された。書かずもがなだが名誉教授となった。

(写真、映り込みがあってうまく撮れない。シルクスクリーンと木版による作品 May 1972「桃」!) 

闘わない建築家「槇文彦」 豊田講堂から代官山ヒルサイド・テラスそして未来へ

2009-05-06 12:21:44 | 素描 建築の人

心に深く留まっている「コトバ」がある。
「私は闘わない建築家なのです」。
今年の2月19日に行った「モダニズムの源流 豊田講堂からヒルサイドテラス そして未来へ」と題するDOCOMOMO×OZONセミナーでの建築家・槇文彦さんのコトバだ。

ハーバード大で学び、そのまま教鞭をとった槇さんのその時代(1960年・32歳の時)に建てた名古屋大学「豊田講堂」は、建築家槇文彦のデビュー作でもある。
9年後に建てた代官山ヒルサイド・テラス第一期から現在に至るその建築群は、その一つ一つが僕たちを触発させる魅力的な建築であると共に、建築家が都市をつくりうる事例として、建築界に大きな刺激を与えた。それはとりもなおさず1期と2期の建築群の背後に建っていて重要文化財として保存された「朝倉邸」を所有していた朝倉家との信頼関係、「朝倉不動産」とのコラボレートによって、時間をかけてつくり上げてきたプロジェクトでもある。

このプロジェクトでは、つくりながらの試行錯誤、つまり学び取りながらゆっくりと時間をかけてつくってきたと槇さんは言う。その根底には「闘わない」という氏の人生観が内在しているのだ。
興味深いのは、メタボリズムという1960年代の思潮を受け止めながら建てた、豊田講堂からヒルサイド・テラスへの流れ、そして現在つくり続けている建築には、槇さん自ら「私はモダニストです」と述べているモダニズムの源流が脈打っているのだ。

その主要テーマの一つは「群と個」。
2007年に見事に改修(メンテナンス)された豊田講堂とともに、代官山ヒルサイド・テラスを紐解く鍵でもあるこのテーマは、都市を考え、建つ建築に思いを馳せるときの僕の命題でもある。
槇さんの話に思わず身を乗り出した。会場に詰め掛けた人々も息を詰めて聴き入っている。

19世紀の新印象派に位置づけられる画家ジョルジュ・スーラーの代表作「グランド・ジャット島の日曜日の午後」の画像を映し、私の言い出したことではないのですけどね、と断りながら、ここにいる50人ほどの人物は群れてはいるけど勝手な方向を見ている、そしてほらこの犬だって、と目の前のセーヌ河とは関係ない方向を向いている犬を指す槇さんに、会場から笑い声が聞こえてきた。
会場が和やかな空気に包まれる。槇さんの指摘に、群と個はそういうものだと共感する笑みだ。

ワシントンの公園の一角で数名による音楽のグループが演奏の練習をしている傍で、階段に横たわって本を読んでいる大学生(少女)をポインターでさした。
ほらアメリカ人は公の場は自分の場だと思っている、とさり気なく「公」とはなにかを示唆したのだ。言外に、建てた建築はどのような建築であっても「公」の側面を持つことになると述べているのだ。
設計した青山通りに建つ「スパイラル」の階段に配置した椅子に腰掛けてじっと外を見る人を映した。公の場に個人のスペースをつくる試みをしたが、ここにはこうやって座る人がいつもいるのだと、実験によって捉え得た「群と個」の関係を僕たちに指し示した。こういう場が都市には必要なのだと暗示される。

僕はこのセミナーの司会をやりながら、感銘を受けていた。講演が終わり会場からの質問を受けながら、槇さんとの対談形式で会話する僕の声も上ずった。話の組み立て方も見事だが、さり気なく実験を試みながら建築のあり方を模索するその姿。実験とは言うものの、当たり前のように存在する椅子。謙虚、というコトバがよぎる。僕たちはすぐれた人間の真髄に触れ得たのだ。

僕は最後に槇さんの著作「記憶の形承」をとりあげた。
`都市と建築の間で`と副題のあるこの著作は、1960年代から90年代の初頭にかけての様々な雑誌に掲載された槇さんの、都市と建築を中心とした論考を集成したものである。この著書は1992年に筑摩書房から刊行されたが、僕が愛読しているのは1997年に`ちくま文庫`から発刊された上・下刊の第一刷である。

槇さんは「嬉しい紹介をしてくれましたね」と、どうなるかわからないが、その後書いたものを集成して刊行する企画がなされていると微笑された。その笑顔がまた素敵だ。

実は僕は槇さんが恐い。林昌二さんも恐い。阪田誠造さんも菊竹清訓さんも恐いが、1928年生まれ、82歳になる建築家は恐いが実は何方もとても優しい。昨年は林昌二さんを招いて新旧の掛川市庁舎を中心にして対談形式で林さんの毒話!をうかがったが、なんとも暖かい心に包まれた。
セミナーを担当する大川三雄日大教授、田所辰之助日大短期大学部准教授とともに槇事務所に伺った時に、兼松さんに会えてよかった、テーマと進め方の確認ができてと微笑まれ、出口まで見送ってくださったことが、僕の宝物のように思い出される。

前川國男は闘った。丹下健三も黒川紀章も。闘いはモダニストの宿命のような気もするが、「私は闘わない建築家なのです」と槇さんが述べたのは、対談に入ったときだったかもしれない。僕がモダニズムの源流に触れたときだった。
「闘わない建築家」。
槇さんとその建築を考えるとき、そこにその回答が潜んでいるような気がする。僕の心の奥深く息づきはじめた大切なコトバだ。

<写真 名古屋大学豊田講堂>

若き陶芸家の誕生・島岡達三最晩年の愛弟子・後藤竜太

2009-05-03 16:07:47 | 文化考

一人の陶芸家が誕生した。人間国宝`島岡達三`最晩年の弟子「後藤竜太」君だ。
竜太君は緊張した面持ちで年輩のお客さんの話にうなずいている。銀座「たくみ」での作陶展へ初日に行った僕の妻君と娘がスーツ姿なんだよ!と驚いていた。やっと時間のやりくりができて出かけた最終日。
スーツだねえ!と呼びかける。「晴れの舞台ですから」とはにかむ様子に子供の頃の竜太君の姿がダブった。

まだ彼が小学生の頃、僕の娘や彼の姉、桃子ちゃんたちが裏山を駆ける僕の撮った写真がある。桃子ちゃんの指には赤とんぼが止まったが、竜太君もまた虫や田んぼの側溝のどじょうが大好きで、学校から帰ると表に飛び出してなかなか戻ってこなかった。時折益子の陶芸家の父親茂夫さんの工房を訪ねると、竜太君の手捻りが棚の隅においてあったりした。親の子だと思ったものだ。
会うのは何年ぶりだろう。

竜太君は昭和58年(1983年)生まれ。26歳になった。栃木県窯業指導所研究科を修了後、島岡達三に5年間師事した後、一年間島岡製陶所に勤務し、この個展によってデビューした。これからは父親の工房で一緒に作陶に励むことになる。何種類もの土を自分で探してストックしてあるのだと、息子の作家としての姿勢に茂夫さんも嬉しそうだ。その笑顔をみると親ばかだねえ!とはいえなくなる。

これかア!と思って見たのが白い蛾を文様にした大皿だ。「なんで蛾なの」と聞く我が娘に、「すぐ傍に蛾がいたから」とボソボソと答える竜太君はいいねえ、という妻君に、僕は竜太君は虫が好きだったからねと言ったものだ。

作陶展の会場として、2階サロンを提供した銀座「たくみ」の志賀直邦氏が、`初個展に寄せて`と題して一文を寄せている。
『先生(島岡達三)は生前、「再来年は後藤君の卒業展だから、頼むよ」とお会いするたびに言われたのであった。そして、それは後藤さんへの期待感からであったか、愛情であったかわからない』とある。


<写真・妻君と娘が行った初日のお昼前、既に赤ポチが沢山ついていたそうだが、奔放な刷毛目が気になって即かず離れず手にとって眺め入った`ぐいのみ`や徳利(一輪挿し)には、当然のごとく赤ポチがついていた。これはざらっとした感触が手に馴染む、面取りの湯飲み茶碗>