日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

軽井沢の KENSANSO を訪ねて!

2017-10-26 16:25:18 | 建築・風景

軽井沢、長倉・坂下の傾斜のある林間地に「KENSANSO」と名付けた山荘が建っている。

つい先週一泊した。訪れたのは数年ぶり、いや、7,8年ほど経っただろうか・・・この山荘の主は僕の従兄(現在は会長)の経営する五反田に本社があり、日本各地に支店や出張所を持つ中小企業。だがKENSANSOのKENは会長の名前の冒頭三文字を取り込んだもの、おしゃれなネーミングだと改めて思う。

想い起こすと嘗て(若き日・苦笑!)JIA(日本建築家協会)の大会が軽井沢近郊で行われ、ふと思いたって僕の設計によって建てた山荘が此の近くにあるよ!と親しい建築家に伝えたところ、それじゃぁ!と二十数名の同僚が此の山荘に集まった。室内を一通り観た後誰かが言いだして、肉や野菜やワインなどを買出しし、テラスの隅っこのブロックで作った炉で薪を炊いてバーベキュー!、それこそワイワイとしゃべくり回して楽しんだ。へ―!建築家ってこういう人種なのだと嬉しくなったことを思い起こす。その時の建築仲間たち、元気かな!などとふと思う。

 改めて「KENSANSO」の設計図を観ると、1983年7月とあるので、JIAメンバーが来てくれたのはその次の年か、或いはその翌年。この山荘を建てたことによって僕は建築家としてやっていけると内々確信をしたのではないかとふと思った。洋間の廻縁の繊細な納まり、引手や蝶番などの建具金物を観ながら、そうか、この金物類は、著名建築家に紹介して貰った赤坂にあった建築金物を扱う店で手に入れたのだなどと、瞬時に三十数年前の若き日の建築への、我がこだわりが思い起こされた。

久し振りに観た懐かしき我が建築、案内してくれた総務の部長や担当者と車の中での余話もまた面白いものだった。メンテナンスをするために、親しい友人から地元の建築会社を紹介してもらったが、なかなかの人、それもまたうれしい事だった。さて、仕事(メンテナンス)はこれからだ!とふと思う。

 

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此の秋の一日:四国鬼北町への想いを・・・・・

2017-10-15 12:37:02 | 建築・風景

梅雨時のような小雨降る連休(土・日曜日)、庁舎の保存改修の委員を担った四国・愛媛県鬼北町に想いを寄せながらの2日間になった。 

僕と共に同じく委員を担ったA・レーモンドの設計による「鬼北町庁舎(旧広見町庁舎)」の保存改修に携わった愛媛・砥部町の建築家`和田耕一′から資料が送付された。此の庁舎の保存改修を公式文書として取りまとめることになったので、起稿した文書のチェックをするようにとのこと。資料をめくると、その公式文書の冒頭に僕の書いた`コラムが`撮った写真と共に記載されており、一瞬目を見開いた。ちょっと大袈裟だが、ホントに冒頭記載でいいのかと驚嘆したと言い換えてもいい。 

ともあれ、その経緯を振り返ってみると、此の庁舎との出会いと共に、数多くの「人」との巡りあいがあったこことに,改めて思いを馳せることになった。ことに此の庁舎の設計に関わることになったA・レーモンド事務所の中川洋総務部長との出会いは一本の電話。詳細はいずれ別枠でと思うものの、之が事の発端。町長や役場に在籍する副町長、そして上記した和田・各委員との会話・共感・共鳴。その経緯はいずれどこかで!                           

                                     <写真、中庭から観る庁舎。右手には、木造による増築棟 :文中敬称略>

 

 

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沖縄の原風景の一端に想いを寄せる!(追記的に・・・)

2017-10-08 17:08:47 | 沖縄考

改めてこの日の(2017年の冬)沖縄紀行を振り返り、2月20日に「紙漉所跡」に案内してくれた建築家`根路銘安史`に感謝したいと思った。前項でも触れたが、前稿を補足しながら下記石碑に刻まれた全文(日本語の箇所:英文と筆で書かれた文書を除く)を、後日の沖縄考の資料として記載しておくことにした。 

手元に「沖縄拝所巡り」(那覇出版社・比嘉朝進著)があり、ここには300箇所にも及ぶ首里拝み、那覇の寺社参り、那覇の拝所、等々様々な拝所の紹介があって奥深い沖縄文化の原点に目を向ける事になる。訪沖のときには持参せず、案内してくれる沖縄の人の(主として建築家)案内に身を託すことにしているが、稀には帰郷してからこの本をめくってみたりする。さて・・・下記石碑より。 

紙漉所跡(カミスキジョアト):Site of the Takaraguti Kamisukijyo  

琉球王国時代から昭和初期にかけての紙漉所跡。宝口の紙漉所ともいう。琉球における紙漉きの技術は、大見武慿武(おおみたけひょうぶ)が1686年鹿児島へ赴き造紙法を修行。帰国後の1695年に首里金城村に宅地を賜り、杉原紙(すいばらかみ)・百田紙を漉いたのに始まる(金城の紙漉所)。1717年祖慶清寄・比嘉乗昌らが芭蕉紙を始めて作り、翌年王府の援助を受け首里山川村に一宅を設けて紙漉所とした(山川の紙漉所)。以来、カジノキ、糸芭蕉・青雁皮を原料に、色半紙・広紙・奉書紙・藁紙なども作られた。 

宝口の紙透所は、1840年首里儀保村の一角「宝口」に家屋建て製紙区域とし、製造が途絶えていた百田紙の製作を行わせたのに始まる。これにより宝口では百田紙、山川では芭蕉紙が作られたとされる。 

紙透は王府野矢久祥「神座」の監理のもと行われたが、1879年(明治12)の琉球処分の後も、此の一帯では民間の手で紙透が続きられた。・・・』               < 写真:紙漉所跡からの帰路>

 

 

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沖縄への思いの一端を!紙漉所跡

2017-10-01 17:14:51 | 沖縄考

 前稿で、斎場御嶽(セイファーウタキ)に触れたら、沖縄への思いが込み上げてきた。

 ここ数年、沖縄の建築家根路銘安史の想いがあって開催されている`聖クララ教会`でのコンサートを聴講する為に、2月に沖縄を訪れている。僕がこの教会を初めて訪ねたのは、15年前にもなる2002年。JIA(日本建築家協会)の大会が沖縄で行われた時だった。九州支部に所属していた沖縄が支部として独立、全国大会が沖縄で開催されたときだ。

 関東甲信越支部の理事を担っていた僕は、訪沖に際して一廻り若いクリスチャンの建築家に声をかけた。彼は大会には出なかったものの、沖縄の教会群を観たくて同行してくれた。ところが彼に引っ張っていかれたその僕自身が、此の`聖クララ教会`に魅せられる事になった。

そして出会った与那原の建築家根路銘が中心となって建築士会島尻支部での主要なイヴェントとして2月に聖クララ教会でコンサートを開催していることを知り、数年前から、僕の訪沖はそのスケジュールに併せることになる。

さて、斎場御嶽を始めて訪れたのは何時だったか!上記、JIAの大会の時、あるいはその後母校明大での一般公開された講座に臨み、その講義の中での沖縄の風水論考に魅せられたからだったか?終了後教壇に赴き渡邊教授に質問をしたのが発端、院生を対象とした渡邊欣雄(当時は東京都立大教授:社会人類学)教授の明大の院生を対象とした講座に数年間聴講、僕はJIAの建築家としてではなく、まあ言ってみれば、OBとしての聴講生としてではあったものの、講座の一環として一緒に企画調整、数年に渡って、渡邊教授や院生と共に沖縄紀行に参画する事になった。そして沖縄に嵌まる。

 ところで掲載する画像、琉球王国時代から昭和初期にかけての「紙漉所跡(カミスキジョアト)」である。1879年(明治12年)の琉球処分の後も、この一帯(那覇市首里儀保町4)では民間の手で紙漉が続けられた」とある。<文中 敬称略>

 

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