日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

四国建築旅(5‐2) 鳴門建築追記

2009-08-30 00:05:40 | 建築・風景

ブログのテンプレート更新の要請がgooからあった。この一枚の(一枚にした2,3枚の)写真と文章によるシンプルな表現方法が気に入っていて6年間も使い続けていたので、ためらったまま新潟に出かけている間に自動更新された。文字が小さくなってしまったのがショックで元に戻したほうがいいのではないかと模索中だ。

このフォトエッセイともいえる形で建築や様々なテーマを論じる可能性模索に僕はこだわってきた。
ブログのいいところは、コメントがもらえることだ。建築感の自己確認ができるのがありがたいし、異なる立場での反論があったりするのも興味深い。Moroさんとmさんのコメントにも力づけられたりしている。

ところでこのところTosiさんからのコメントに刺激を受けている。コメントで返信すればいいし解説的になるのは避けたいが、写真が無いとうまく伝えられないような気がするので`追記`と言う形で返信することにした。

僕のブログを読んだTosiさんの問題提起は、仮設的な建築の保存問題とフランスの建築家プルーヴェの実践された建築工法(理論)と増田友也の二つの建築との相関関係への問いかけである。僕の工場と見間違ったと思わず言った市民会館を、ためらいながら仮設的な建築と表現したのだと思うが、合理的な機能に目を向けたモダニズム建築保存の根幹に関わる課題だ。

市庁舎の弥次郎兵衛の構法が一本柱ではないだろうという一言にも、(多分構法の研究者である)Tosiさんらしい好奇心の発露が読みとれる。
この建築はさほど大きくないスパン(柱間の距離)による門型構成の柱からハンチのある梁の先端を(前項に書いたように)H鋼で支えているが、そのH鋼の柱がそのまま意匠として外部のカーテンウオール的な構成をつくり出しているのだ。そのバランスが見事でこの建築の品格を決定付けている。
PC(工場でつくられたプレキャストコンクリート)を多用した二つの建築の階段も魅力的だ。

僕はプルーヴェの理念に疎いし、指摘された市庁舎の工法との比較には興味をそそられるもののうまく応えられないのが残念なのだが、この二つの建築は、時代とか建築家とか地域における建築とは何かとか様々なことを僕たちに問いかけているような気がする。
一言だけ付け加えると、市民会館はリベットを打ったラチス柱鉄骨造で体育館のような空間構成だが、天井高がさほど高くなくどのように使われているのかちょっと気になっている。

四国建築旅(5) 鳴門のモダニズム建築Ⅱ 増田友也の鳴門

2009-08-25 10:31:35 | 建築・風景

市庁舎は、ブリッジのメイン出入り口に鋭角な大きな庇が飛び出している。設計者のこの建築群へのトライを宣言しているようだ。そこから入り総務課に立ち寄った。
課長に挨拶をし、名刺を交換した。課長はDOCOMOMOに選定されたことを知っており、選定した旨送付した書類には目を通したとのことだ。ホッとする。
見学と撮影許可を得ながら聞くと、竣工当初は、市民は外部の階段を上った広いブリッジから各建築に出入りをしたのだという。一階は倉庫とか会議室などだった。しかしバリアフリー・ユニバーサルデザインが叫ばれる現在(いま)の時代、ブリッジを歩く人はいない。

この市庁舎はセンターコア構成で、中央に階段室や設備コア(トイレや湯沸し室など)が耐力壁で構成され、柱から弥次郎兵衛のように両サイドに伸びた梁の先端を、コンクリートが埋め込まれたH鋼が支えている。
この明快な構造構成にこだわった増田は、コンクリート打ち放しの階段室の壁にも梁を少しだけ出っ張らせてその構成を見せている。
何か懐かしさを感じるのは、その見せ方が日本の建築界を躍動させた60年代というモダニズムの時代を表現しているからなのだろう。

市庁舎の議場を見せてもらった。どの市庁舎(或いは県庁舎)を訪ねても、議場の空間は面白いのだ。
傍聴席と議場の間の打ち放し壁のバランスが良くシンプルで気持ちがいい。背後に見える弥次郎兵衛梁構成の様が鮮明だ。
議場に入ってきた職員に、この庁舎は使いいいですか?と野暮な質問をした。この時代の建築を見ると壊されるのではないかと気になって仕方がないからだ。
中年の職員は、ウーン、ここに来てからずっとこの建物で仕事をしているし、そう聴かれると使いいいともいえないが、そんなこと考えたことなかったなあという。まあ合格か!

加藤さんはこう述べている。
「市民会館と庁舎、老人福祉センターと文化会館はそれぞれ有機的なつながりをもたせているが、実は2箇所の間に、議会棟、教育委員会棟など行政センターが計画されており、もしそれが実現していれば、市民会館から文化会館まで面的な広がりを持つ行政核として、さながらチャンティガール(ル・コルビュジエ:インドの都市)のような小都市が形成されるはずだった」。

増田友也は京都大学キャンパスに、同じような京大会館構想を練ったが果たせなかった。鳴門でも増田の建築家としての想いは果たせなかったかもしれないが、その一端のブリッジが残っているし、20の建築がまだ存在している。
釧路市が毛綱毅嚝建築のガイドブックをつくり、市のステータスとして市民や観光客に建築と建築家の存在をアッピールしているが、阿波踊り鳴門市も増田友也の建築群に目を向けてはもらえないものか。加藤さんは本気で鳴門の増田友也建築マップを作ろうかといっている。

隣接している消防署が耐震上耐えられなくなり、防災拠点として建て替えるという。屋上に魅力的な円形の塔があり、お願いして屋上に上げてもらって撮影した。庁舎と市の様子が一望できる。

藤本さんが、何か特産品を販売しているような所はないかと聞いたら、あそこに産業会館があると入り口まで案内してくれた親切な市の女性職員に恐縮し、すっかり鳴門フアンなってしまった。
僕は先ず自分が着るつもりの鳴門の渦をあしらったTシャツを手に取った。妻君には藍で染色したハンカチ、娘には扇子とハンカチが組まれた品のいいセットを買った。四国のお土産はこれだけ。藤本さんはもう少しお金を張ったみたいだ。

さて、腹が減った。なにせ3時間も市庁舎近辺をうろついていたことになる。昼飯はうどんだ。讃岐か鳴門うどん。これも藤本さんが職員に美味しいというお店を聞き出してレンタカーを走らせた。僕はついていくだけ。

<写真 上段:議堂  下段:市民会館 鉄鋼造の有様が見えて興味深い>

四国建築旅(4) 鳴門のモダニズム建築Ⅰ・増田友也の鳴門市庁舎と市民会館

2009-08-21 15:01:59 | 建築・風景

DOCOMOMOに選定した四国のモダニズム建築は、日土小学校、香川県庁舎、坂出市人工土地、海のギャラリー、それにブリッジで接続された鳴門市庁舎と市民会館の公共建築群である。いずれも戦後に建てられた建築だ。

選定建築は2008年度選定を加えると145選になった。
どの建築も魅力的で、技術へのトライを含めた歴史的な価値や、その地域での位置付け、更に設計した建築家の軌跡を考えるとその存在はかけがえがない。しかし選定に関わった僕たち各自が全ての建築を見てはいない。しかし見ないと当然のことながら実感を得られない。
竣工した建築のコンペの1次審査が通って8月4日に現場審査のある藤本さんのスケジュールや飛行機の都合(如何に安いチケットを取れるかが僕たちの大問題・苦笑)を調整し、日土小学校見学・シンポを挟んだので、四国を2回も横断する羽目になった。高速道路通行料が割引になったのはありがたい。
でも四国は広い。実感した。

さて今回どうしても見たかったのが増田友也の設計した鳴門の建築群だ。
増田友也は1914年(大正3年)兵庫の生まれ(私事だが亡くなった母と同い年)。京都大学を卒業後満州炭鉱工事課に勤務し1994年に応召、戦後京都大学で教鞭をとった(1950~78)。
1972年に三一書房から刊行された現代日本建築家全集にも作品が収録されたように一時代を築き、1981年67歳で亡くなった教育者でもある建築家(今で言うプロフェッサー・アーキテクト)である。

その増田友也は、鳴門市に20の建築を建てた。
DOCOMOMO選定会議で、材料の研究者加藤雅久さんからこの一連の建築を紹介されたとき、ホーという溜め息ともつかぬ空気が流れた。
代表作といわれる京都大学の総合体育館は知っているが、鳴門の建築群はほとんど誰も知らなかった。写真が提示され資料によって概要の説明がされると皆の好奇心が刺激された。

数回の会議の最後に、同時代に建てられ、意匠や材料にも一貫性のある広いブリッジで繋がっている市庁舎(1961)と市民会館(1963)を選定した。市庁舎と繋がっている職員共済会館(1972)も群としての位置付けを明解にするためにと加藤さんは推薦したが、今回訪ねてみて感じ得たのは、10年を経た共済会館は明らかに増田の建築空間の捉え方が違うことの確認が出来たことだ。時代は変わっていくのだ。今回は2棟の選定でよかったと思った。
同時に感じ入ったのは、70年代の共済会館の空間構成は、吹き抜けでトップライトから光が注ぐホールのコンクリートの打ち放し壁をきれいな面として使い、これは今の時代のデザインポリシーと同じだとやけに新鮮だったことだ。

駐車場に車を止め、先ず目に入ったのが市民会館。一瞬市役所の側に何故工場があるのかと思った。異色の意匠で初めてみた僕は度肝を抜かれたのだ。
内部には舞台があるがフライタワーはない。中央ホールは平面で、体育館併用のようだ。舞台の反対側には段状の客席がある。その段の上がブリッジと同じ高さで、ブリッジから出入りができるようになっている。

<写真 左手に市民会館、正面に市庁舎。ブリッジの下は駐車場と通路になっている>


暑い夏 2009年8月15日

2009-08-16 11:19:52 | 生きること

戦後64年、暑い夏、今年も終戦記念日を迎えた。
NHKで放映した市民討論で、冒頭から数名の市民が声をあげて日本の核武装を望む発言を繰り返すのを聞いていて、見ていられなくなった。防元衛庁幹部などとともに、若い女子大生の口ぶりを聞くと、この人たちはどういう戦争体験をしたのだろうかと思う。
今はこれ以上のことを書きたくないが、夏が来ると毎年僕の住まいの近くで行われてきた花火大会を見るたびに思うことだけを述べておきたい。

毎年8月の第一土曜日の夜、厚木市の鮎祭りのメインイベントとして相模川で行われる大掛かりな花火の大会は、団扇を持ち浴衣を着た若者のカップルで賑やかだ。僕も何度かシートを持って河原の場所取りをし、頭の上から響く破裂音に身を揺らせたこともある。季節の変わり目に行われる祭りは、賑やかだが移り往く時を感じて妙に寂しい。

大玉を見上げながら口数が少なかった写真家の木戸征治さんが、後に忘れ得ない一言を呟いた。「来たかったという女房のことを思いながらね・・」。花火の好きだった下町っ子だった奥さんは、体調がよくなくて来られなかったのだ。転移だった。奥さんには「転移だと告げられなかった」という一言が辛い。

家中の金を掻き集めては過疎地の長期取材にでかけた。奥さんは黙って見送った。
四国の先端土佐清水横道の生徒が二人しかいない「ちんまい分校」(著作・1983年あかね書房刊)。片道16時間をかけてたどり着き、富ちゃんが入学してから卒業式までの6年間を追いかけた。
豪雪地、今では廃村になった長野と新潟の県境の戸土。

僕は妻君や娘を連れて木戸さんに連れられて何度も戸土の赤野さんの家を訪ねた。小谷温泉から山越えをしたこともある。
10年追いかけ`人の暮らしがあって初めて雪は猛威となり白魔となる`思わず書き記したフォト・エッセイ「雨飾山麓冬だより」(1987山と渓谷社刊)の出版パーティを、新宿の居酒屋2階の座敷をぶち抜いて行った。もう20年以上経つのにその様を思い出す。
その店に来るのが遅れている木戸さんから僕に電話があった。赤野さんが先ほど亡くなった。メインゲストが赤野さんだったのだ。赤野さんを偲ぶ会になったが、僕は司会をやりながら木戸さんから眼がそらせなかった。笑顔なのに彼の眼にたまる涙姿が忘れられない。

花火。日本酒をちびちびと飲みながら、どーン!と鳴る度に窓に駆け寄る老いた僕の母の姿も目に焼きついている。我が家の部屋から見える低層の4号棟の上に丸い華が咲くのだ。今僕が同じことをやっている。

8月15日。年に一度くらい過去を思い出してもいい。そして64年経った今の時代に危惧感を覚えるのも必要だ。

「生きること」に書いたが、僕の育児日誌に母の字がある。
「昭和20年8月15日。度々の空襲で防空壕に入ったり、何かしたが、いよいよ今日で終戦である。なんだか涙が出る。でもこれからは、子供たちもびくびくせずのびのびと遊べる。柏は(千葉県、疎開先)は広いのではだしでハダカで本当にのびのびと遊べる」
母は、既に父がフィリピン・モンタルバンで戦死していたことをまだ知らない。
さまざまな夏がある。


四国建築旅(3) 八幡浜のJAZZ BAR「ロン」で聴くコルトレーン

2009-08-14 08:18:08 | 建築・風景

分厚い扉を開けるとほの暗い店内に、ライトに照らされたテーブルとカウンターが目に入った。ハスキーなサラ・ボーンのバラードが響いてくる。柔らかいが底の深い音だ。
どこに座るのかと一瞬思ったが、僕たちを案内してくれた鈴木博之さん(青山学院大学教授・東大名誉教授)はためらいなくカウンターへ向う。ここがずい分前から聞いていたJAZZ BAR「ロン」なのだ。

何にします?とカウンターの中のオールドレディに聞かれる。Cocktailの一文字が頭をよぎったが、鈴木さんが僕はビールだけどと一言。では僕もと松隈洋さん(京都工芸繊維大教授)も僕もなんとなくホッとして答える。藤本幸充さんは「ジンジャエール」。申し訳ないが車を運転してくれるからだ。

乾杯の後、ひとしきり見てきてシンポを行った日土小学校を語り合った。曲がMJQに変わった。鈴木さんがリクエストしていいかとオールドレディに聞く。
午後6時、JAZZを聞くには早いがこの音で聞いてみたいアルバムがあるのだ。

スピーカーは大きなJBLの2220B。聴いているアンプはウエスパーツの86Bを参考にしてにして作った店主の自作。真空管だ。2220Bとの組み合わせはなんとも味わいが深い。もう一機はマランツセブンだ。

マッコイ・タイナーがイントロを弾き始め、エルヴィン・ジョーンズがブラシを一振りすると同時にジョニー・ハートマンが渋く胸に食い込むように唄い始めた。僕たちは思わず顔を見合わせる。そしてジョン・コルトレーンが追いかぶさるようにテナーを乗せると`これはたまらない`と溜息が出た。
「THY SAY IT`S WONDERFUL」。アーヴィング・バーリングが作詞作曲をしたミュージカル「アニーよ銃を取れ」のナンバーだ。そして・・・。

3曲目のMY ONE AND ONLY LOVEでは、コルトレーンのイントロが面々と続き思わず涙が出そうになる。僕はコルトレーンの「バラード」(1962年録音)が大好きだが、この「ジョン・コルトレーン アンド ジョニー・ハートマン」は1963年の録音。マウスピースの具合がよくなく急速調のプレイが思うようにできなく、悩みを知ったプロデュサーがこの企画を立てたのだという。奇跡って起こるものなのだ。この至福の名盤と言われる録音の4年後、コルトレーンは40歳の若さで亡くなる。ジョニー・ハートマンは1983年60歳で、ベースを弾いたジミー・ギャリソンは76年に亡くなった。ところでジョニー・ハートマンには、トランペットのハワード・マギーと組んだなかなか魅力的な「シングス・フロム・ザ・ハード」というアルバムがある。
ちなみにコルトレーンの代表作と言われる組曲「至上の愛」が1964年。

松隈洋さんは、8時40分のフェリーで別府に行くのだという。吉田鉄郎の設計した「旧別府公会堂」を観に行くのだ。八幡浜は港町。別府は対岸の様なものなのだ。
残った3人はもう少しJAZZを聴き語る。
若き日、JAZZ評論家になってもいいと考えていた鈴木博之さんは、ジョン・コルトレーンが死んでJAZZは終わったと思ったという。1967年、日本の建築界が変わっていく大阪万博が間近だった。

四国建築旅(2) 日土小学校Ⅱ・長い道のり

2009-08-11 11:00:53 | 建築・風景

手元に分厚い「建築家松村正恒の研究」(花田佳明著)と、日土小学校改修工事を記録した資料集がある。
花田教授のこの研究書は学位論文としてまとめられたものだが、1913年(大正2年)に愛媛県大洲市に生まれ、武蔵高等工科大学(現在の武蔵工業大学)に学んだ後、土浦亀城事務所に就職し、満州に移った土浦事務所で働いて戦後地元に戻って八幡浜市役所で仕事をした松村正恒の軌跡がつぶさに読みとれる。
ドクター論文とはいえ、この度の建築学会ワーキングメンバーとして日土小学校保存運動にも深く関わった花田の、松村正恒の生きた時代の社会の様相や社会と深く関わる建築の存在への深い考察に、読み進めていくと松村の建築家としての生々しい生き様が浮かび上がってきて、上質な小説を耽読しているような知的興奮に包まれてくる。

松村は一地方都市の職員として1960年(昭和35年)47歳で退職するまでの13年間に学校や病院など秀作といわれる数多くの公共建築を生み出した。
独立後に1,2名のスタッフとともにつくり出した建築は400に上るが、職員時代とは異なり、ジャーナリズムに喧伝される建築デザインとは一線を画したという。興味深いのは、地方都市での独立によって松村はデザインに対してニヒリズムに陥っていたのではないかと論破していることだ。同時に独立後の言葉や書かれた文書には建築家と社会に対しての厳しい批評で倫理観に満ちていると指摘している。
問題の根は深い。それは正しく現在の僕たちが直面している課題でもあるからだ。

改修工事の資料集は、日本建築学会四国支部「日土小学校特別委員会」と鈴木博之東京大学名誉教授を委員長とした「八幡浜市立日土小学校再生検討委員会」(八幡浜市教育委員会)の貴重な記録集である。
見学会の後行われたシンポジウムでその様が克明に披露されたが、中心となった曲田清維愛媛大学教授や、改修の実施設計を担当した建築家和田耕一さんなどパネリスト全員の話しが、綿々たる思いに充ちていて面白かった。解体・建て替え問題が取りざたされてから竣工までに足掛け6年も掛かったのだから。

このプロジェクトは「中校舎」(1956年・昭和31年)「東校舎」(1958・昭和33年)を、将来の重要文化財指定に対応できるよう文化庁の指導も得ながらオーセンティシテイを検証して耐震改修を行なった。
更にこれからの小学校教育に対応できるよう一部の間取りを改変し、「西校舎」を地元で採れる樹木を集成材にして使用し、既存校舎のイメージを設計担当した建築家武智和臣の今の時代感覚で汲み取って新設している。
その解釈には是非もあるだろうが違和感はさほどなく、四国の建築家の力量が提示された。子供たちや教師がどう受け止めるか、既存改修棟と併せて興味が尽きない。

日土小学校の保存・改修は、六本木の「国際文化会館」と並んで、日本のモダニズム建築存続の屈指の好例として、経緯をそこで見えてきた課題とともに次代に引き継がれることになるだろう。このことをシンポジウムの終わった後、八幡浜のJAZZ BAR「ロン」で、鈴木博之さんとビールを飲み、いい気持ちになってジョン・コルトレーンを堪能しながら語り合った事でもある。

シンポジウム時に、鈴木博之教授(DOCOMOMO Japan代表)から大城市長にDOCOMOMO選定プレートが贈呈された。この校舎が1999年にDOCOMOMO20選に選定されたのが、保存に於いてもオーセンティシティ(原初性)を大切にして文化庁の監修を受け得たことの大きな力になったからだ。

シンポジウムでも、その後行われた懇親会でも触れられなかったが、建て替え話しが出たのは日土小PTAつまり保護者からだった。そこにはコンクリート神話と保存を望んだ学区外の市民との微妙なやり取りが重なり、さらに日本の各地で子供の安全性問題が多発した時代背景もあったことを思い起こす。
建築学会やDOCOMOMOからの保存要望書提出がなされることになり、僕は建築学会のDOCOMOMO対応WGの主査を担っていたこともあって理事会で説明をして提出了解を採るなどささやかな役割を果たしたので、その経緯の概要は知っている。

また課題の一つはこういうプロジェクトであっても浮上する設計入札問題だ。これらの経緯を今伝えることに逡巡するのは、この校舎が子供たちの保護者たちに新鮮な刺激を与えて受け入れられると信じているからだ。
同時に心穏やかでないのは、同時期に建てられた日土小にまさるとも劣らぬ八幡浜駅の近くに建っていた松村の「江戸岡小学校」が苦もなく壊されたことだ。
その階段室とそれに連なる廊下の開放的な得もいえない空間が目の前に蘇るのだ。

<ちなみに日土小学校校舎は原則として非公開であることを記しておきたい。写真 東校舎昇降口>

四国建築旅(1) 木の学校・日土小学校

2009-08-07 10:22:41 | 建築・風景

八幡浜市(愛媛県)の中心地を右折すると、街道は港を背にして山麓に向う。しばらく走り、カーナビにしたがって右折し車がやっとすれ違うことができる狭い道をハンドルを握って登りながら、僕は感慨にふけていた。
十年ほど前に訪れたこととはあったものの、こんな辺鄙な(地元の人に叱られそうだが)場所だったのか。そこに建った建築が日本の木造モダニズムを代表する建築としてDOCOMOMOで選定して世界に知られていく。

建築って不思議だ。そして建築家の存在ってもっと不思議だ。この日土小学校を設計した松村正恒(1913-1993)は、八幡浜市土木建築係の一職員だった。やればできる。そうだろうか。土浦亀城に学んだ松村正恒だからできたのだ。いや! 思考が錯綜する。

五十数年前、地方都市の市街地を離れた山の中のこの木造校舎が、日本の小学校の代表作として建築学会が編纂した建築学体系や資料集成に掲載され、建築雑誌に取り上げられて世に知られた。
クラスタースタイル(葡萄の房)と言われる廊下と教室の間に小さな中庭をとって両面採光を採り光豊かな空間を作り上げた。
階段の一角にはぶら下がった倉庫を作り、多分子供たちは不思議空間を意識しないで体験する。期せずして教師も建築の面白さを、同じように意識しないで受け止めているかもしれない。

20日ほど前、神戸芸術工科大学の花田佳明教授から電話があった。「ピンクなんですよ。建築当初の様を調べたら白い校舎でなくピンク、今でも本当かと、塗っていて気になって・・」
この改修プロジェクトに関わった花田さんの一言は、見事に僕の好奇心を引きずり出した。よし行こう。そして建築家藤本幸充さんを引っ張り出した。

大勢の見学者(午前中だけ開放された見学会に訪れた人は800人を越えた。数十年前の在学時代を懐かしむ声や、ここへ子供通わせたいという30代と覚しき夫婦の声が聞こえてくる)の中で佇みながら、僕は改めて感銘を受けていた。手を伸ばせば届いてしまう昇降口辺りの天井高さ。子供のための建築だ。新学期を迎えるとここに子供の声と足音が響く。

耐震対策がなされ、オーセンティシティを検証して塗られた色は、淡いピンクだけでなく、淡いブルーとモスグリーン。その色が、開放的な木造空間によく似合う。僕が驚いたのは、東校舎の外壁や内部の廊下にも塗られたモスグリーンだ。
僕は学生時代、建築にグリーンを使うものではない。自然の樹木や草のグリーンを殺してしまうからだと教え込まれた。僕はその教えを頑なに四十数年間守ってきたのだ。それが、なんとも品のいい姿で周辺の緑に囲まれて建っている。優雅なのだ。

<小川に張り出したバルコニーを支える柱は、かつて僕が見たときはブルーに塗られていた。それはそれで味わい深かったが、塗られた塗料を丹念に調べ、文献を検索したらピンクだったという>