日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

理論合宿 今年はキッチュな鳳明館で

2006-08-30 16:56:58 | 建築・風景

今年のJIA保存問題委員会の理論合宿を、本郷の日本旅館`鳳明館本館`で行った。路地の向かいに別館もある。
夏休みを取っていた8月18日(金)の午後2時から翌19日の午前中の一泊2日。この日になったのは、この旅館はリーズナブルなこともあって結構人気があり、学生の研修会や、柔道の大会の宿舎になったりして他の日が一杯だったのだ。何故この旅館で?なに僕が推薦したのだ。わけあって・・というほどでもなく何度か使ったことがあり、委員も僕が魅かれるこのキッチュな旅館を気に入ると思ったからだ。

参加者は同じく夏休みで家族旅行だという委員がいたりして例年より少な目の11名。うんざりするほどの残暑に満ち満ちていた二日間だった。
毎年行う理論合宿は、通常の委員会ではなかなかできない建築界の現状把握と、建築家としてどう対処していくべきかを論議する。

レプリカ、オーセンティシティ、そして保存と創造・経済性、法制。耐震問題とそれを逆手に取る企業。歴史観。建築ジャーナリズムの持つ建築や都市の価値観。こういう青臭い論議を喧々諤々とやるから委員は皆若々しいのだ。
さてビールをしたたか飲んだ夕食の後の会議は、そうなると、どうでもいいやと思いながら臨んだが、始まったら段々酒ッ気が抜けた。
議題は来年の2月に東京で行うことになったJIA保存大会のテーマやコアメンバーをどうしようかということなのだが、今の建築界の様相を炙り出すことになったからだ。

論議が白熱したのだ。歯に衣を着せぬという言い方がある。この委員会は厳しいのだ。仮に元委員長だといって誰も容赦してくれない。僕もついつい言いつのると、大人気ないとたしなめられたりする。でもお互いの信頼関係が築かれているから、腹が立つよりさきに納得してしまう。それが刺激的でもあり楽しいのだ。

保存問題の実例に沿った論議もされる。例えば青山の同潤会アパートメント、間島記念館、レイモンドの東京女子大東寮と体育館、東京と大阪の中央郵便局庁舎、歌舞伎座、三信ビル。JR国立駅舎。とうとう無くなってしまったソコニーハウス。話は尽きない。新しく委員になった栃木の構造家和田さんの構造論が新鮮だ。
今年度の大会は、この近くに200名の宴会のできる懇親会会場が見つかったら、宿泊はこの旅館をベースにして、東大本郷キャンパスでやりたい。何しろこのキャンパスは今、混乱している東京の都市を象徴している。魅力的でもあり、困ったことでもあるからだ。格好のテーマを提供してくれる。

ふと思いついて「保存文化論」と口走った。いいじゃない、今度の大会のテーマはそれで行こうか、ということになった。保存問題を文化論として捉える、JIAの委員会もそこまで来たかと嬉しくなった。
初日の会議は10時に終了し、それぞれ部屋に一旦引き上げる。
僕の部屋は8畳に6畳の附室がついている。そこに篠田義男さんと藤本幸充さんの三人で泊まるという贅沢さ。このメンバーで9月の後半トルコに行くのだ。DOCOMOMOの世界大会が行われる、イスタンブールとアンカラへ。そこで2008年度の東京での世界大会立候補を表明するのだ。僕と藤本さんは、カッパドギアへ足を延す。

トルコ話に話が弾みだしたら、どやどやとウイスキーを抱えた数人が部屋に来た。まあいつものことだ。結局一番元気のある、川上恵一現委員長の松本で実践している民家建築論を拝聴することになる。うとうとといい気持ちになって横になっていたら、それではまた明日という声が聞こえた。時計を見たらいつの間にか1時半を過ぎていた。翌朝、今年から委員になった倉沢さんに昨夜はどうしたのと聞いたら寝たのが3時だそうだ。同室の久米設計の野中さんと話しこんだという。元気だ、皆。

工業化に拍車の掛かった1960年代、其れに伴う大学の大衆化による学生同志や教師との交流の喪失に危機感を持ち、夜を徹して話し合える空間を若者に与えるために創られた吉阪隆正の建てた建築群の存続が危うい。八王子の大学セミナーハウスだ。
委員会では、今の時代こそ若者に夜を徹して話し合えるこういう空間が必要なのだと、セミナーハウス館長や理事長に訴えた。その人と人との触れ合いの素晴らしさを、いい年の僕たち自身がこの旅館で体験している。なんとも僕たちは若い。(と思う)
とは言え朝6時に眼が覚めてしまった。ああ!やはり年のせいか。寝不足だなと思ってもう少しがんばって寝ようと思ったら、藤本さんが眼を開けた。近所の写真を撮ってくるというのだ。なんてまあ。

ぼんやり部屋を見渡してみると、それがなんとも面白い。改めてよく見るとキッチュなのだ。
水車の羽根を止める台座が壁の下に貼り込んである。障子に組み込んであるガラスの縁取りに模様がある。障子の桟もやたらに太いが複雑な組み方がしてある。洗面所は昔の民家の竈の様だ。銘木ともいえない曲げ木が壁から飛び出してつけられたりしてある。ノスタルジックな帳場もある。モダニズムではないなあ!

登録文化財になったこの旅館は戦前のものだと思っていたら、戦後に建てられたと言う。
旦那に聞くと、本郷は空襲がないことになっていたのだが、下手な米軍のパイロットが間違って焼夷弾を落として焼けてしまった、仕方がないので新しく建て直したのだという。本当かなあ。しかしバナキュラーっぽいこの旅館は名作ではないがとても魅力的だ。僕は、いやいや僕たちはこういう建築が大好きなのだ。
あえて言いたい。モダニズム建築と同じようにと。




生きること(10) 名前は敬子(よしこ)とつけよ

2006-08-26 13:40:44 | 生きること

終戦の年昭和20年の1月に、僕たち一家は千葉県柏の叔父の会社の社宅に疎開した。妹が母のお腹の中にいた。4月の生まれだから、父は自分の娘の顔を見ていない。考えてみると、妹も父の面影をまったく知らないのだ。
父が出征してから「吾児の生立」にはこの引越しの記述まで何も書かれていない。二人の児を抱え、お腹に赤ん坊がいるのではそれどころではなかったのだろう。
しかし父への手紙はずいぶん書いたようだ。最後のほうになると手紙は書くな、書いても渡してもらえない。こちらからのはがきを待て、と父からの封緎はがきに記されている。

『昭和20年1月27日。馬橋を引揚げて駒込へ行き、一晩とまって二十日千葉県柏に行く。27日敵の大挙空襲あり。相当被害があったようだった。
二十八日も汽車は不通で大宮まはりで、中尾さんにつれられて柏に行く。夕六時頃つく。柏の家についた時分は真っ暗になっていた。
お父ちゃまがいらっしゃらなくても近くの人々が親切にしてくださるので、あまりさびしくもなく過ごせました。みんな駒込のおじちゃまの会社の方ばかりなので、みんないい人ばかりでした。
南ちゃん、節子ちゃんとすぐ仲良しになって、よく毎日遊びます』
中尾さんは叔父の会社の社員で、15年を経た後にも僕はお世話になる。

馬橋にいるとき、疎開するまでの間に、招集された父から19通の手紙が来た。
16通は「西部第八十一部隊・検閲済」の印のある`郵便はがき`で初めの頃のものは返信とある。母が送った往復はがきの返信かもしれない。
3通の封緎はがきはには検印が無く、最後の19年8月の2通の差出人は偽名で書かれていて、いずれも街に出たときに密かに投函したようだ。国状の切羽詰ってきた様子がわかる。
そして最後のはがきは「比島派遣マニラ野戦補充」とブルーのハンが押してあり、万年筆で「軍事郵便」とある。父は陸軍通信二等兵としてマニラに派遣されたのだ。

『その後元気ですか。紘一郎、庸介は相変わらず元気のことと思ふ。自分は極めて元気で軍務に励んでいる。・・・お前に心配かけていた痔疾も現在なんともない故自分のことは安心してよろしい。
子供はもう生まれたか。名は何とつけたか。男か女か。それだけでよいから表記宛電報せよ。お前の健康状態も知りたい。頼む。
手紙は書いてよいといふ許しがあるまで書くな(医師か産婆の)』そして自分は食欲もあり健康は上々だとあえて書く。
『桑原班長のご好意により、本便速達とする。紘一郎と庸介、それから生まれているかもしれない子供の事よろしく頼む』と付け加える。
昭和19年4月8日の便だ。

それまで来た数通のはがきには、予定通り入隊し通信兵になったこと、あらゆることを長崎の父親や、阿佐ヶ谷や駒込の兄や姉に相談し、「お前はただ子供たちを丈夫に育てることだけを考えろ」と書き記す。

『電報を見た。女の子生まれた由。めで度い。母子とも健全のことと思ふ。余り長くなったのでどうかと思っていたが安心した。
名前は敬子(よしこ)とつけよ。
自分は元気に精勤しているから安心せよ』

<写真 馬橋の家の前で、みんなお友達。土門拳の世界だ>

寿司のダブル

2006-08-23 15:54:48 | 日々・音楽・BOOK

黒岩重吾に「外人と寿司」という短いエッセイがある。
女房とその友人のバレリーナと一緒にホテルの寿司店に行った。一人で寿司を食べていた外人が板前に聞き始めたが理解できずに助けを求められた。彼は、ライスの上に魚を乗せただけなのに、寿司は何故こんなに高いのかと?と聞いているのだ。でも女房の友人は、養殖、鮮度をどう表現していいかわからない。
私は仕方なくこの店はハイクラスで、魚もハイクラスだから高いと通訳した。外人は「オーケー、エニワン、ハイクラス、オーケー」といって笑った。

僕にもこれくらいの英語ならわかる。読んでいて思わずにやりとしたが、作家はこの外人の笑い方を見て、日本に来慣れている外人だなと思ったという。握り寿司の高いことはよく承知しているが、ただ何故値段が高いのかわからないのだろう。
実は!とさりげなく作家は締めくくる。寿司が好きでよく食べるが、私はいつも高いなと思う。そしてこういう高級寿司店はいったい幾らくらい利潤を得ているのかと、結構生々しく文章をつづる。
僕は寿司店の設計をしたことがあるので多少の裏事情は知っているが、高そうな店には怖くて入ったことがない。

この黒岩重吾のエッセイは「とっておきの手紙」(たちばな出版2004年刊)という氏が亡くなった後、未刊行となっていた数多くの黒岩エッセイの中から逸品を選び出して編纂したものである。
全身麻痺という奇病にかかった二十八歳の出来事からスタートするが、読み進んでいるうちに、人の一生は様々な出来事や、些細な想いの集積なのだが、先祖の血のようなものにも動かされるのだと気がついた。

廻船問屋を営んでいた祖父は、荒れた日に海に出て所有していた船を難破させたり積荷を失って欲呆け商人だと思っていたが、作家になってクルーザーで海を駆け巡るようになって祖父感が変わった。`海を征服したいと情熱をたぎらせたのではないか`と書く。どうしようもなく馬鹿をやるときに自分の中に祖父と同じ海人の血が漲っていて、その血がなせるなのだと言いたいようだ。
あちこちに書いたエッセイをまとめてみると、こういう面白いことが見えてくるのだと僕のエッセイ感が変わった。ちょっと大げさだが編集子が「逸品」と書くエッセイの集積だからか。

この「外人と寿司」も、奥さんを女房と書く妻との付き合い(ねじめ正一はオクサンとカタカナで書く。僕もそれなりに悩んでいてエッセイには愛妻と書くことにしたのだが、その書き方で家庭の空気が感じられる)やその人脈、ホテルで寿司を食べる生活、笑い方を見て日本に来慣れていると感じる感性とか経験、幾らくらい利潤を得ているのかと書いてしまう価値観のようなものまで垣間見えてくるのだ。

ふと、初田亨教授に寿司の`ダブル`をご馳走になったことを思い出した。
工学院大学の学生に特講(特別講義)をやることになり、その日の昼、韓国からの留学生、ドクター課程で学んでいる洪君を訪ねて研究室に行った。事務所から近いので、4時半からはじめる特講の、レジメや資料、PPを組み込んだCDを持っていったのだ。

打ち合わせをしていたら初田教授が授業から戻ってきて、飯を食いに行こうという。エレベーターで下へ降りて校舎内をくるくると回って表に出た。近いがちょっと歩いて寿司店に入る。「ダブル」というのが聞こえた。洪君がニコニコしている。昼の定食でもちょっと量が多いのだ。
握りを食べながら名著「東京 都市の明治」に話が弾む。まあ話をするために寿司を食いに行ったともいえるのだ。

東大工学部一号館階段教室で行われた建築史学会の今年の大会で、軽妙な伊藤毅教授の司会で、三人の歴史学者のデビュー時の著作についてのシンポジウムが行われた。
藤森照信さんは、建築家は建てる筈もない未来図のスケッチに時間を忘れてのめりこんだりするがそんなの頭のほんの一部しか使わない。建築家って変だよね、その点歴史学者はFullに大脳を使って馬鹿な無駄はしない。だから歴史学者のほうが優れているのだ、と訳のわからないことを行って笑いをとる。藤森さんが設計にのめりこんでいるのは誰でも知っているから変におかしいのだ。大笑いをしたので藤森さんの著作は何だったか忘れてしまった。

陣内秀信さんは若き日、のめりこむことになった勿論イタリア論、そして東京町並み散歩になっていくが、会場から英語での質問があって英語なら陣内さんと促され、四苦八苦しながら英語で答え始めた。先生、私日本語よくわかる!と質問した東大の女史留学生に言われた。ひどいな!誰だあんたの教師は?とこれも笑いに湧いた。

初田教授は「東京 都市の明治」の誕生逸話に触れながら、勧工場(かんこうば)という単語を連発した。観光場?缶工場?皆当たり前のようにうなずいているが勧工場って僕は知らない。それはともかく話は面白かったのだ。銀座、裏の発展史、いわば仇花を慈しむように語る。

ところで、伊藤教授は皆に、ここに鈴木博之さんがいたら今の建築歴史の世界が全て現れると言い出した。鈴木さんは京都でのシンポジウムのために欠席なのだ。ところでみんな仲いいの?と伊藤さんが問う。なんとなく曖昧にうなずくパネリストに、そうですよね、戦いは全て鈴木さんが引き受けているからね、と満席で立ち見で溢れた会場を爆笑させる。笑いながらも建築歴史界に於ける初田教授の位置づけも見えた。後に鈴木さんにこの喧嘩の話をしたらひどいなあ、といいながらも満更でもなさそうだった。

それはともかく、なんと言っても「東京 都市の明治」(ちくま学芸文庫)なのだ。その初田さんのご馳走してくれた寿司のダブル。ダブルの寿司と僕が言わないのは、`東京 都市の明治`という言い方に感心したからだ。
教授はお金を払いながらレジにいたお上さんと話し込んでいる。楽しそうだ。常連なのだ。ふーん!建築家をめざし、設計した自宅を若き日雑誌に発表した初田さんの魅力の一端を、寿司のダブルに見た。

<写真 建築史学会シンポ>


生きること(9) 雪の誕生日

2006-08-20 18:57:28 | 生きること

僕のアルバムを開いてみる。
まず生まれて一ヵ月後に写真屋さんで撮った写真がある。大きな涎掛けにうずまっているような写真だ。父が嬉しくて会社に持っていって同僚に見せた写真はこれだろう。二ヵ月後の智おじと一緒の集合写真が次に貼ってある。床の間を前にしたのもある。山水画の掛け軸の前に皐月人形がおいてある。葛山と志さんという人からのお祝いのようだ。吾児の生立には頂いたお祝いリストが記入されているのだ。

思いがけず大勢の人からいろいろなものを頂いている。現金も記入してある。当時の物価の様子がわかるが、母の父ぼくの祖父や長崎の祖父からこんなに!と驚くような数字が記載されている。鯉幟は長崎の祖母からだ。
つるの石鹸というのが沢山ある。価格も書いてあって75銭とある。石鹸は貴重品になっていたのではないだろうか。
この人形を下さった葛山さんのことを僕はまったく知らない。エー!とも思った。我が家は長屋なのに床の間があったのだ。

杉並第六小学校で遊ぶ写真が沢山ある。着物を着た母が僕を頭の上まで差し上げているのも在るし、ブランコにのせていたり、乳母車につかまっているのもある。
少し大きくなって近所の子達と並んでいる写真。上野動物園で肩車をしてくれる父。ハンモックで寝ている僕。

母の姉の嫁ぎ先、阿佐ヶ谷の家の石目ガラスが入って白く塗られた玄関の扉の前で父に抱かれた写真。この家には思い出がある。中学生になって東京に戻ってきたときに立ち寄った家、玄関を入って左側に籠もった匂いのある応接間があった。澱んだ都会の匂いでもあった。伯父から好きなものを買ってあげるよといわれ、近く本屋で山本有三の「路傍の石」を選び、伯父にびっくりされた。字の多い本が欲しかったのだ。

ICUの学生だった従姉妹のカッコいい姿、彼女の同級生がラジオのJAZZ番組に出るといってたっけ。都会の大人の世界を垣間見た気がした。今でも時折電話があり、アルツハイマーなのよ!といいながらも話の弾むお茶大で教えている彼女とは、思えば長い付き合いだ。
ああこんな昔のことばかり語っていていいものだろうか。

吾児の生立の「五つの時の主なこと」
「紘一郎満四才になる。
朝起きたら雪が真っ白に積もっているのでびっくりした。朝小豆ご飯をして午後おはぎをする。元気に元気に満四才になった紘一郎。お祝いに何か買ってあげようと高円寺のほうに行ってみたが、物品税がつくのでどの店も閉まっていた。戦時のお誕生日、何も買へずに帰る」

うろ覚えだが教育召集というのがあって昭和19年3月の出征前に呼び出されたことがあったと母に聞いたことがある。面白おかしく軍隊の様子を母は聞かされたという。心配させまいとしたのか。でも本当だろうか。この育児日誌には何も記載されていない。

<写真 自宅の前で三輪車に乗って得意満面だ>



生きること(8) 青夏集の父

2006-08-17 13:04:09 | 生きること

父のことを書きたい。
しかしどう思い起こそうと思っても父の姿、つまり抱いてくれた感触や、話し声とか笑顔が現れない。父は僕が満4才になったばかりの3月17日に召集令状が来て、20日に出征した。終戦の前年だ。
子煩悩で優しい父だったと皆言う。書かれた文字や文章と、母やおばや僕の従兄弟たちが語るその姿は、写真があるので想像はできる。しかし『吾児の生立ち』には僕の一才の誕生日の後に父の文字はない。

父は明治42年9月13日、百馬とすみの長男として長崎市古町に生まれた。
あるとき仏壇の引き出しを開けたら、思いもかけない手紙や手帳、それに僕の臍の緒が出てきた。母が大切に保管していたのだ。僕の大学時代の成績表もあった。このエッセイを書くために取り出してみたら、あまりの不成績に愕然とした。一言いいたいがそれは別の機会に・・・

昭和17年9月3日付の、藤森晋さんという学友から来た封書が入っている。第四種郵便とゴム印が押してあり切手は4銭の軍人の肖像画だ。
神山と丸い印鑑が押してある謄写版(ガリ版)刷りの手紙と共に折りたたんだ「青夏集(1)」が出てきた。手紙はこういう書き出しだ。
「藤森からトーシャ版の通知が来た時、なんかしらポーっと眼頭が熱くなったのは俺一人じゃないだろう。皆んなは近来多忙なのに、みんながいつも考えているみんなの消息を知らせてやりたい気持ちが一杯なのだ」「人生はボーっとしているほうがいいですね・・・と一緒に働いている女の子が初めて相当強度の眼鏡をかけた日につくづくとこう云うのを聞いて、ハッと胸を突かれた」純情を失いたくないという学生時代からの夢を、女の子に先に行かれたと書いている。「どうだ、ワイフは元気かい。みんな生活を生き抜いていることだろうな」

父について神山さんはこういう。
「兼松はメトロの資材を引き受けてこの戦争の裏の辛さを味わっている。ないない尽くしは米や味噌ばかりではない。生産財もみんな事業を運営すべくものだが余りにも少ない。それだけに担当者の労苦は、そんななまやさしいものじゃあない。現在は資材こそ会社の事業の運営を決定するものだ」なんて当たり前のことを言っても仕方がないと付け加えるが、そういう思いによって「青夏集」が作られたようだ。
角谷さんや坂本さんなど数名の文章の最後に父の記述がある。

兼松新 父の名前が飛び込んでくる。33歳の父だ。
『あれからもう七年余り経過してしまった。この七年余りの年月は、俺達にとって決して短かったとは言ひきれない程の大きな変転があった事を否むことは出来ない。
あの時は誰でもが皆当時の流行の言葉を以って言えばチョンガーであったのに、今奥さんや子供を持っている。そしてそれを扶養している。偉くなったもんだと思う。
然しその当時の俺たちがかくなろうと話し合っていた理想と現在の俺たちの姿とを比較した時、余りにもはかなかった現実の悲壮感に転じた、感慨無量たらざるを得ない。

俺たちの学生時代に盛んに論じ合った統制経済が、今日の計画的統制経済の濫觴となっているのを感じたとき、俺たちも何かしら経済史の一齣の役目を果たしたことを思い、心中いささかの感慨を持つことが出来る事は果たして幸か不幸か?そしてそのことが何かしら俺たちの・・・少なくとも俺の現在の仕事に従事すべく運命付けられている事を思い、ジョウダンから(ひょうたん?)駒が出た感が深い。今まで何かしらやってみたいとずいぶんあせってもみたが、現在では事の善悪は暫く問わぬとして一応納まってしまった感じだ。

七年前の俺だったら南方へでも飛んで行っただろうに、子供が二人もあってはちょっと考えてしまって飛び出す元気もない。この頃はいいお父さんだ。
長男(紘一郎)といってもまだ三歳なんだが、朝出勤のときイッテラッシャイの声におくられてなにを土産に買って帰ろうかなんて考えている。次男(庸介 一才)がこの頃、おきかえる術を覚えて、うんうんうなり乍ら運動している。這うようになったら危ないなあと思い、二階のない家に引越ししたいと考えている。
この頃は仕事が忙しくて考える時間なんてない。だんだん馬鹿になっていくような気がして淋しい。但し仕事の上では今の会社では誰にでも負けない自信だけは持てるのは、八馬鹿グループのお陰か?』

父のアルバムがある。
ハードカバーの表紙をめくると、「贈 兼松君 東京商大専門部会講演部 昭和10年」と筆で書いてある。しっかりした楷書だ。講演部?弁論部のようなものなのだろうか。卒業時に贈られたようだ。

父はボート部にいた。身体が小さいのでスキッパーだったと母に聞いたことがある。伝統のある一ツ橋のボート部だ。それが何故講演部なのだろう。何故アルバムを贈られたのか。教えてくれる人はいない。
でも貼ってある写真、兼松講堂の前での集合写真や、料理屋で先生を真ん中にして徳利を持っている女性もいるし笑っている学生のいる写真、大勢の仲間と旅館の前で浴衣を着て肩を組んでいる写真もある。楽しそうだ。
日本の近代史を考えると微妙な時代だが学生時代を謳歌したのだ。「八馬鹿グループ」とは、勝手なことのいえる仲のいいグループだったのだろう。

<写真 中央のフラグを持っているのが父>










鎌倉近美 JIA25年賞(2005年度)受賞

2006-08-14 13:51:55 | 建築・風景

JIA(日本建築家協会)関東甲信越支部から、「誠におめでとうございます」というメッセージと共に、「2005年度JIA25年賞(関東甲信越支部)の審査結果について」の報告とお礼状が送られてきた。現地審査の結果を踏まえ、審査委員会にて最終選考の結果としてと付記されている。

関東甲信越支部の受賞作品・一般建築部門は、僕の推薦した「神奈川県立近代美術館・鎌倉館<本館・新館>のほか、「聖グレゴリオの家」(1979年長島正充)、「パレスサイド・ビルディング」(1966年日建設計・林昌二)の3作品、住宅部門では「続久が原の家」(1977年清家清)である。
この後各支部から選定された建築を含めて審査が行われ、大賞がきまる。

さてこのJIA25年賞
25年以上に渡って「長く地域の環境に貢献し、風雪に耐えて美しく維持され、社会に対して建築の意義を語りかけてきた建築物」を表彰し、あわせて「その建築物を美しく育て上げることに寄与した人々(建築家、施工者、建築主または維持管理に携わったもの)」を顕彰する。そして建築の果たす役割を確認し、次世代につながる建築のあり方を提示するのだ。

このJIAのHPに記載されている25年賞趣旨の文案を起草したのは誰だろう。`風雪に耐えて`更に`建築物を美しく育て上げる`といわれると、健気な建築の有様が眼に浮かび、建築には人の想いがこもっているのだと、気恥ずかしい気もしないではないが胸に込み上げてくるものがある。そこがJIAの面白いところだし僕の好きなところだ。

2005年度の25年賞選定範囲が1950年以降から竣工後25年までと拡大された。
かつては竣工してから25年から30年の範囲という制約があり、そうだと戦後に建てられ、使いこなされながらもその存続に腐心している建築の存在が抜け落ちてしまう。僕は無理は承知で選定基準に該当しない建築を2件推薦し、特別表彰をして欲しい旨記載して提出したことがあった。残念ながら採択されなかったがまあ当然のことだ。しかし今回のこの規約の見直しは素晴らしい。建築の存在は趣旨文の通りだと思うからだ。

神奈川県立近代美術館は、1951年戦後の荒廃した日本に新しい文化を築こうと、当時の内山神奈川県知事が、同じく復興を願った鶴岡八幡宮から土地の貸与を受け、日本で初の、世界でもパリとニューヨークに続く三番目の近代美術館を創った。
設計を担ったのはコルビジュエの元で学んだ坂倉準三。当時はまだ鉄骨材がなく、施工した馬渕建設が海軍がストックしていた鉄骨を運び、それに合わせて設計を担当した駒田知彦さんが現場で計算を見直して建てたという物語に満ちた建築でもある。そして坂倉の代表作というだけでなく日本を代表するモダニズム建築として世界に知られる美術館となったのだ。

1966年、新館が池の中に増設された。創設時から関わった二代目館長、美術界に大きな貢献をした土方定一肝煎りで建てられたこの建築もエピソードに満ちている。
坂倉事務所では所内コンペを行い、所内では是非こもごもの、美術館でありながら壁のないガラス張りの建築を提案したところ、土方定一はこういう美術館が欲しかったと叫んだ?というのだ。

鎌倉館が手狭になり、一帯が史跡に指定されて増改築が難しくなって葉山館が2003年に新設された際、準備のために半年前後鎌倉館を休館して新館の内部塗装など行った。彫刻家堀内正和展で再会されたが、新館に踏み入れた途端、これだ!と思った。土方さんの望んだものが実感できたのだ。
ガラス前に設置されていたパネルが取り除かれ、全てのブラインドも巻き上げられ、本館や池、それに鎌倉の杜が目の前に広がっているのだ。
今回の25年賞で躊躇無く本館と新館を併せて推薦したのは、そのときの有様が目に焼きついているからだ。

ところで受賞したどの建築も魅力的だ。
聖グレゴリオの家は見たことがないが、設計者の長島正充氏は丹下健三事務所のOB、写真を拝見すると納得させられる。又パレスサイドビルは、近美と共にDOCOMOMO100選(現在は115選)に選定され、100選展時のカタログの解説文は僕が書いた。大好きなのだ、このオフィスビルが。建築は素晴らしいと改めて思う。

実は今回の受賞は僕には格別な思いがある。
次の借地更新は2016年、八幡宮からは出来得れば返してほしいと言われている。存続に危機感を持った建築家と歴史学者、それに美術関係者が集まり、僕が事務局長を担い、美術史家高階秀爾氏に会長になっていただき「神奈川県立近代美術館100年の会」(略称近美100年の会)を2001年11月に設立した。このところ停滞気味だが、存続を願ってシンポジウム、数多くの見学会、会報の発行や要望書の提出など積極的な活動をしてきたからだ。

2003年3月には鎌倉市から「景観づくり賞」を頂いた。この賞は近美100年の会の活動に対してもらったものだが,この建築の存在が、鎌倉にとってもまた長い歴史を培ってきた鶴岡八幡宮との環境構成の上でもとても大切だということである。JIA25年賞は建築そのものに対する賞だが、地域の環境を考える上でも役割を果たしているという趣旨に合致する。。
県の財政難もあってメンテ費用が交付されず、思うような修復が出来ていない。今回の推薦に際しても、万全の措置がなされているであろう他の建築の中でどのように受け留められるか危惧していた。「風雪に耐えて美しく維持され、建築物を美しく育て上げてきた」であろうか。
でも学芸員が自ら塗装を行うなど、管理者の努力の積み重なった建築であることも確かなことなのだ。これほど皆の思いのこもった建築があるだろうか。

今回の受賞はうれしい。社会に、県に、この建築の位置付けと存続の大切なことを伝えるのに大きな力になる。願わくばさらに近美が大賞に選ばれんことを・・・・

<写真 本館外観>



大地の声 ユッスー・ンドゥール

2006-08-10 09:08:14 | 日々・音楽・BOOK

舞台の袖からプレーヤーが思い思いに出てくる。ギターの弦が弾きだし、ババカル・フェイがパーカッションを叩いた瞬間、これだ、これを聴きにきたんだと思った。リズムに身体が包み込まれる。一歩遅れて登場したユッスー・ンドゥールがマイクを手に取った。大地の声だ。

<東京の夏>音楽祭2006年のテーマは「大地の歌・街角の音楽」。
プログラムにいいことが書いてある。
西洋のクラシック音楽は、王侯貴族のサロンの中で生まれ選ばれた人の音楽だったが、その時代でも広場や街角で暮らしの中の喜びや悲しみを唄う音楽があり、一方自然に根ざして生きる人には大地の歌があった。それらの音楽は現代社会に生きる僕たちにも伝わってくるというのだ。こだわるのではないが僕の建築家意識に通じる。

僕はユッスー・ンドゥールを知らなかった。うちに来て新聞を見ていた娘に「ユッスー・ンドゥールのライブに行かない?」と誘われ「セネガルのスーパースター/大地の声」という新聞の案内を見るまで。
チラシにもポスターにも使われている歌っている彼の姿と、何より『大地の声』というキャプションに魅かれた。即座に`行く行く`と答えた。

田園都市線の三軒茶屋で降り、こじんまりしたイタリアンの店を見つけて娘とパスタを食べる。生ビールで乾杯してロックやアフリカ音楽を語る。準備ができた。会場は昭和女子大学の人見講堂だ。

ユッスーは1957年セネガルの首都ダカールに生まれた西アフリカのウォロフ族の出身。世襲音楽家「グリオ」の家系に生まれ育ったという。82年に音楽の仲間たちと`スーパー・エトワール・ドゥ・ダカール`を結成した。
国際スターになったがユニセフの親善大使、財団を設立してマラリア撲滅運動を展開するなど音楽を通じて社会と取り組んでいるという。それが現代のグリオなのだ。

娘に聞いていなかったらおやっと思ったかもしれない。声が高い。写真を見てイメージしていた姿は恰幅のある叔父さんだったが、現れたユッスーは、精悍で引き締まった肢体でスーパー・エトワール・ドゥ・ダカールを率いるというより一員として一緒に音楽を楽しむ。それを会場に分かち与える。
アフリカの音楽はJAZZの原点ともいわれるが、ユッスーの音楽はアフリカの大地そのものだ。電気楽器を使っていて音のバランスが少し気になるが、底に響き続ける低音と、信じられないような手わざと切れのあるパーカッションのリズム感、それにのった伸びのあるユッスー・ンドゥールの歌声が満席の会場に響き渡る。

身体が動き出す。思いがけず年配の多い聴衆が、自然に立ち上がってしまう。娘も勿論。
アサン・チャムの名人芸とも言っていいトーキング・ドラムのリズム感と手と指技に身体が浮き上がるが、それをさりげなくにこやかに叩く彼の風貌そのものが、彼らの音楽のベースにある人への暖かい眼差しなのだ。

ふと、`スーパー・エトワール・ドゥ・ダカール`の一メンバーだと感じていたユッスーからオーラが漂っているような気がしてきた。彼自身がいう神から授かった声は「グリオ」つまり「語り部・吟遊詩人」として与えられたものなのだ。
スタンディングして踊っている人々の中で目を閉じて耳を澄ますと、澄んだ声量のある彼の声は彼の心の叫び、しかし静かなのだ。だから胸にしみこんでくる。
僕たちは東京でセネガルの音楽を聴くが、この歌声とリズムは多分東京の空を越えてアフリカの大地を覆いつくすのだろう。音楽も語るのだ。人間と大地の素晴らしさを。

自宅で世界地図を開いた。アフリカの左側、サハラ砂漠の南の共和国。首都ダカールはパリ・ダカールラリーの終着点だ。
ユッスーはダカールに自分のスタジオXIPPIをつくった。ヨーロッパに行かなくても好きな時間にレコーディングができ、アーティストをプロデュースする場所でもある。生まれた場所にこだわるのだ。セネガルを愛しその素晴らしさを伝えたい、それは多分世界を愛することになるのだ。
娘のIポットにユッスーの歌声が入っている。ヘッドホーンで眼をつぶりながら聴く。おそらく終生訪れることがないだろうアフリカへの想いが僕にも芽生えてきた。


生きること(7)よく遊ぶ・皆お友達

2006-08-05 12:54:12 | 生きること

2歳になった6月3日、弟が生まれてから4ヶ月近くたった。
「此頃は雨の降らないかぎりは外に出て遊ぶ。始めのうちは家のまはりだけで遊んでいたが、此頃は相当遠くまで行く。今日も、姿が見えないのでずいぶん心配して探したところ、ひょっこり来たのでどこへ行っていたのか聞いたら、学校へ行ったとのこと(杉並第六小学校だ)、近くではあるが一人であぶない。又よく此頃は外から泣いて帰って来る。近くの子どもに泣かされるらしい。学校へ行く前の五つ六つ位の子どもが泣かすらしい。」
癪に障るが出て行っても大人気ないと母は書く。泣かされたときの甘酸っぱい思いがチラッとよみがえる。

『お友達の移りかはり』の項の翌7月の記述。母の字だ。
「此頃朝から外に出て遊ぶので、近所の子どもは皆お友達。子どもたちは皆年上だ。紘一郎の玩具で遊びたくて `紘ちゃん遊びましょう` と云って来るが、玩具のほうに一生懸命になって結局紘一郎はそっちのけにされている。
中でも仲良しは、元吉さんのマサミちゃん(12月生まれの四才)同じくらいなので、同じようなことをしてよく遊ぶ。お隣の子供ともよく遊ぶ。
時々「イヤーン」という紘一郎の声がお隣から聞こえてくる。」

「イヤーン」とは言わないが、まるで今の僕を見ているようだ。本当に僕は遊ぶことが好きだった。いやいや好きだ。現在形。勉強をした記憶がない。そうなのだ、今でも。これではいけないとトライしてみたりするがなかなか!
小学生の頃は学校ではドッジボール。うちではチャンバラ、といっても細い棒のフェンシング風。それに母が布で作ってくれたグローブを持っての野球三昧。男子が12人しかいない僕のクラスメートはよく僕のうちに集まったものだ。何故だろう。キット母が優しいので来やすかったのだろう。

小学生時代を過ごした僕のうちは、熊本県天草郡下田村,宮本という所にあった。
天草灘と下津深江川が眼下に見える小高い丘の上だった。野母半島が遥かに見える。夜になると漁火が水平線上にならぶ。空一杯の星、降るような天の川。真っ暗だから見事に見えるのだ。
海は北側にありうちの南側には小さな平地があり陽が一杯だった。前が急傾斜になって小川が流れ、池崎さんちが小川の傍に建っていた。そこで旧暦の正月が来ると真っ暗なうちから餅つきをしたんだっけ。搗きあがる頃には空が明るくなってくる。
こちら側の目の前には頂上まで段々畑の山があった。今でもあの段々畑はあるのだろうか!

でもぼくの家は、孟宗竹を半分に裂いて組み合わせる竹屋根で雨漏りが絶えず、壁は小舞竹に押し込んだ下塗り土の剥き出し。親子4人の部屋は4畳半で小さな囲炉裏があった。天井がなかった。蛇が梁からポトンと落ちたりした。ムカデもいた。考えるとゾッとする。

引っ越した昭和21年の暮れ、まだ電気もなくカーバイトのランプだった。カーバイトの臭いと音がよみがえる。電気がないから星空が凄かったのだろう。
ずいぶん後になって知ったのだが、僕たちの村は「からゆきさん」の郷で、これ以上ないほどの貧しい村だったのだ。傘は無く、雨が降ると擦り切れた毛布をかぶって学校に行った。皆そうだったから僕は特にうちが貧乏とも思わず天真爛漫だった。子供なりの屈折はあったのだろうが、母の苦労など気にもしなかったのだ。

ところで2歳になったばかりなのに近くとはいえ一人で学校に遊びに行くとは!母が心配するのも当たりまえだ。
『絵のようなもの』という欄にブーブーの絵が貼ってある。
「クレヨンがみんなおれたのばかりなので、新しいのを買いあたえたところ喜んで、ブーブーと書いたのが下の絵」。

馬橋のぼくの家の前を車が走っていたとは思えない。庭の写真はなく、頭のどこかに家の前の道路で遊んでいた記憶があるのだ。
ロウ石で字のようなものを書いていて、女子学生にこの児字を書いているとびっくりされたことも何処かにあるのだ。ほめられたのだ。だんだん確かな記憶のような気がしてくる。道に落書きをしたということは舗装されていたのだ。さーて!
落書きには、バスや船に汽車、それに時節柄か飛行機の絵が多いが、自動車も沢山書き散らしてある。子供は乗り物が好きだからね・・・