日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

ぶらり歩きの京都(13) 気に入った京都タワーで描いてもらった似顔絵

2010-08-25 15:06:56 | 建築・風景

僕の顔を描いた似顔絵がある。似ているような、似ていないような!
ぽつんと真ん中に帽子をかぶった顔があって、バックの左手に五重塔、右には黄色でさっと塗った(刷毛で刷いたといったほうがよさそう)山並みにのなかに、「大」の字を白く塗り残して京都旅の記念になっている絵だ。タワーの展望台で、似顔絵の絵描きさんに描いてもらった。

京都にくるといやでも目に入る「京都タワー」。山田守が1964年に建て、景観論争が湧き上がった問題作である。「古都に似合わない」というだけでなく、古都の景観を壊している、僕もそう思った。しかし其のタワーも既に建ってから46年にもなる。夜になるとイルミネーションによって浮かび上がり、それはそれでなんともいえない美しさ。

誰かがどこかに書いていた。京都の人だ。
『京都タワーなんて、と否定をしていたが、いつの間にか、乗っていた新幹線が京都駅に近づき光り輝いている京都タワーが見えると「ああ京都に帰ってきた」とホッとするようになった・・』と。
其の京都タワーに上ったことがなかった。ぶらり歩きの京都の最後にのぼってみた。

このタワーは、技術の塊だ。9階建てのビルの上に建てるような塔はどこにもない。前例がないのだ。ビルの構造強度の問題もある。足元を細くして、軽くしないと乗せられない。そこで鋼板によるモノコック工法(専門的には「応力外被構造」という)によって軽量化を図り、展望台は細くてカーブをつけた鉄骨で組み立て、アルミによるカーテンウォールにガラスを組み込んだ。

断面詳細図を見ると其の組み立て方と微妙なバランスに惚れ惚れとする。とはいえ、擬宝珠を屋根の頂点に乗せた武道館(1964・そうかこの建築と同い年だ)とともに、山田守の問題作という位置付けは、何年経っても変わらない。
僕は展望台からの京都の風景を見るよりも、建築の大胆な収まりや細かいディテールに目が行った。
そして穏やかな笑顔の似顔を書く絵描きさんと目が合った。そしてさっと描いてくれた水彩の似顔絵。勢いがありどこかに品のある(モデルが僕だから?)筆さばき。すっかり気に入った。

<ああ!やっと「ぶらり歩きの京都」が終わった。お付き合いくださってありがとう>


ぶらり歩きの京都(12)京都会館を撮ることと、許せない指揮者井上道義氏の一言・でも何故?

2010-08-19 18:06:50 | 建築・風景

どこかに書いた記憶があるのだが、撮りにくい建築ってのがある。
建築しか撮らないと宣言している写真家でもあり建築評論家(と言いたい)でもある下村純一さんは、アアルトの建築を撮るのは厄介だと嘆く。建築の正面、ここだという見せ場(つまり撮り場)がないというのだ。言い換えれば何処を撮っても其のどれもがアアルトだともいえる。

僕は何度も「京都会館」(前川國男1960年)を撮っている。だがこれが`京都会館だ`という1枚の写真がない。何処をとっても前川國男だが、どの写真も「撮れた!」とはどうしてもいえないのだ。
DOCOMOMO100選展の時の、清水襄さんの撮ったポスターに使った写真がある。ピロティを抜けた中庭(広場)の一画に、わが子を遊ばせる親とその子を小さく取り込んだ、ポスターの大きさを考えて4×5で撮った写真だ。前川國男の望んだ人がいる中庭を見事に捉えていて流石だと思った。
しかしこの写真はサムネイル的には使いにくい。家族が点になってしまうからだ。するとこの建築の核心を捉えたとはいえなくなってしまう。

難しいなあと、細見美術館を出て、そんなことを考えながらカメラを持って京都会館の二条通から中庭に入るピロティあたりを歩いた。開館50周年記念の様々なイベントが行われていて、この日も大勢の人が開館を待って並んでいた。其の人並みを観ながらこの建築はやはり世田谷区の庁舎に似ていると思った。

前面道路から建物を後退させ敷地内通路にしてピロティに人を引き込みそして中庭に導く。世田谷区庁舎は区民会館が1959年、第一庁舎が1960年に完成しているので京都会館と同い年だ。この会館をDOCOMOMO100選に選定するときに、20選に選定した上野の「東京文化会館」(1961年)と何処が違うのかと選定についての大論争になり、なかなか決着がつかなかった。研究者同士の価値観の闘いだと思ったものだ。

コンクリート打ち放しの庇の形態が似ており、竣工年も1年しか違わない。しかし、同じく建て替え論議の起きている世田谷区の担当部長などと意見を交わすために久し振りに庁舎を訪ねて感じたのは、この庁舎の設計コンセプトは京都会館と同じだということだった。「東京文化会館」とは明らかに違う。

それはともかく今回は撮れたかというと撮れない。情けナや!
しかしとも思った。僕の視るこの建築外部空間の魅力(価値?)は、、世田谷と同じく大通りに添った敷地内通路とピロティ、そして中庭。そのどこにも人がいる。中庭というネーミングになっているが庭の一方は東山の山に対応して開いている。それをどう撮ればいいのか。
ふと考えた。人の眼は一瞬にして其の全容を捉える。しかしレンズはその画角でしか捉え得ない。建築を切り撮る撮影者の感性と技術の問題になるのかもしれない。だから僕は写真家の存在が気になるのだ。撮れたのか!

さてこの「京都会館」も「世田谷区庁舎」も建て替え論議の渦中だ。
京都会館は開館50年を祝して、オープン時のプログラム(ベートーベンの第9合唱など)によって祝典コンサートが行われた。
京都工芸繊維大学の松隈洋教授から憤懣やる方ないと電話をもらった。京都会館の50周年を祝う祝典コンサートで京都市交響楽団の嘗て音楽監督を務め今回棒を振った井上道義氏の考えられないコメントについてだ。自分のコトバなのか言わされたのか!

松隈さんは「京都会館」の存続を検討する市の委員会に唯一建築の専門家として参加していて状況を良くご存知なのだ。
このコンサートのことは松隈さんが「建築ジャーナル」誌に`モダニズム建築のメッセージ`というタイトルで連載している2010年6月号の一節に記されている。氏の許可を得たので其の概要を記載する。
「井上氏は、演奏を終え、マイクを手にして語り始めた。・・何を語るのか、会場は静まり返った。・・50年前と同じ舞台で歌い終えた白髪の合唱団員の喜びの表情を背に、ベートーベンも作風を変え過去を壊しながら9つの交響曲を作曲した。京都会館も50年ですよね。もう壊してもいいんじゃないですか」。

ぶらり歩きの京都(11)稲垣兄弟展を見て細見美術館でまどろむ贅沢

2010-08-14 20:07:05 | 建築・風景

京都国立近代美術館(槇文彦の設計1986)に立ち寄り、気になっていた「稲垣仲静・稔次郎兄弟展」を観る。
Chusei(仲静)の描いた妖艶で凄みのある「太夫」の前で足が竦んだが、京都市立絵画専門学校在学中に幾つも描いた自画像の表現力にも驚いた。己を視る眼の厳しさに打たれたと言い換えてもいい。
25歳で早世したこの兄を尊敬していた弟のToshijiro(稔次郎)は、ことある毎に「兄貴と二人展をしたい。兄貴には負けへんで」と語っていたという。その稔次郎(1902-1963)は、型絵染めで人間国宝になったが「負けへんで」という其の一言に、失った兄を終生敬った弟の心情が伝わってきた。

大学生らしい一団と、其の教師らしい穏やかだけどものつくりの風貌を漂わせる男性がいた。学生さんたちですか?と問いかけた。そうなんですよ、東京から連れてきたのだという。僕たちが東京から来たのだと聞いてそれは凄いと驚いている教授に、いや桂など見たりして、気になっていた稲垣兄弟展をちょっと覘いてみたんですよなどと言葉を交わした。染色の先生なのだ。
さて僕が魅かれて買い求めた一筆箋の絵は、仲静の鉛筆で克明に書かれた「猫」である。

娘の次のお目当て「細見美術館」(設計大江匡1998)の中庭で、三人で軽食を取ったあと、コーヒーを飲みながら時折うつらうつらとまどろんで、二人が展示を楽しんでくるのを待った。ちょっとくたびれたので。
このまどろみがなんだか贅沢をしているようで楽しかった。

ここの売店で購入したのは、仏壇にあげる細くて赤い和蝋燭と青磁の小さな蝋燭立てだ。


8月9日の夏と原風景、ひしゃげた長崎駅の鉄骨

2010-08-09 23:53:39 | 建築・風景

65年前の8月9日午前11時2分、長崎浦上に投下された原爆。平和記念式典をテレビで見ながら僕はその1年後の長崎駅を思い出していた。屋根がなくひしゃげた鉄骨が建っていた。晴天だった。(僕の頭の中にはその姿が焼きついているのだが、1年も其の状態を放置するものなのだろうか。幻なのだろうか?)

昭和21年の1月1日、父がフィリピン(モンタルバン)で戦死したと長崎の祖父から電報があり、其の夏、父を亡くした家族は長崎の実家に引き取られた。1年生だった僕は疎開先の千葉県柏町(いまは柏市)の小学校から勝山小学校に転校し、其の年の暮れ熊本県天草郡の下田村北に更に転居する。
諏訪神社のある小山にさえぎられて実家は無事だったが、屋根の瓦の一部にケロイドがあった。それを知ったのは、家族から離れて長崎中学に入学した6年後である。
学徒動員によって爆心地から200メートルの工場にいた叔母は鉄骨の下敷きなって動けず、救い出されたのだと聞いたのは一昨年の春、一緒に原爆資料館を訪ねたときのことだ。被災してから63年が経っていた。

つい最近寄稿した一文が掲載された青森の建築雑誌「アーハウス」を送った従兄弟から読んだよと電話があり、ふと漏らした叔母の一言を伝えると、叔母と仲のいい従兄弟は聞いたことがなかったと愕然としていた。

僕の書いたのは「神代雄一郎の津軽十三」。
僕の原風景、貧しかった終戦直後の「下田村北」、天草市にはなったものの200人いた生徒が三十数人になって複式学級を余儀なくされている下田北小学校の現在に触れながら、母校明大の神代雄一郎教授のデザインサーベイ(フィールドワーク・調査)「津軽十三」の60年代と現在(いま)の姿を重ね合わせながら紹介し、論考したのだ。

8月15日が廻ってくる度に、僕は生きてきた70年間を振り返らざるを得ない。日常生活のどこかに天草の原風景が巣食っているのを実感する。そして年毎に其の一週間前のひしゃげた長崎駅の鉄骨姿の8月9日が重くなる。
中学1年生だった長崎の1年間の記憶が覆いかぶさってくるのだ。

美空ひばりの「とんぼ返り道中」やジェームス・スチュワートの「ウインチスター銃73」も観たが、引率されて行った「小鹿物語」と共に連れて行かれた(多少あやふやだが)「ドイツ零年」「真空時代」「きけわだつみの声」。今考えると中一の子供にこのハードな映画を見せてもいいのかと思うが、其の時代の長崎の先生方の戦争に対する想いがいまはよくわかる。
娘は旅に出ており、妻君とお墓参りをしてきた今日8月9日、暦の上では立秋を過ぎた暑い夏の1日が過ぎてゆく。

ぶらり歩きの京都(10)並河靖之七宝記念館と植治の庭 

2010-08-07 13:52:22 | 建築・風景

地下鉄東西線東山駅の近くにある「並河靖之七宝記念館」は、娘のお目当ての美術館だ。
並河靖之は1845年京都に生まれ、金属のボディ(胎という)に金や銀による線を貼り付け、其の線と線の間に七宝を施す技法で繊細でありながら華やかな作品を生み出し、欧米で絶大な人気を博した明治、大正時代に活躍した七宝家である。

我が娘(こ)が、この分野の美術品に興味を持ち、骨董店で手に入れた七宝を大切に持っているのだと聞いて驚いた。旅は発見、とはいえこのぶらり歩きでの発見は・・・・
小路に面した京町屋の格子戸を開ける。狭い展示室に人技とは思えない並河靖之の作品が誇らしげに展示されている。ふっと吐息がでた。

庭に出ておやっ!と思いもらったリーフレットに目を向けた。そして何の予備知識がなくて訪れたこの記念館の建物が、登録文化財になっていて、其の庭が京都市指定名勝に指定されており、さらにその作庭が`植治`(七代目小川治兵衛)だと知って驚いた。そして読み解いていくと、七宝の研磨のために引いた池の水は、植治が琵琶湖疏水を用いた初めての例なのだという。

南禅寺の境内を横切るレンガ造の水路橋や岡崎公園を廻る水路も琵琶湖疏水、そして疏水は鴨川に繋がる。京都のダイナミックな街の構成に改めて眼を見張るが、そこに植治がいた。
六本木国際文化会館の庭・岩崎家邸宅は戦災で焼け落ちたものの残った野趣に富んだ庭園、それに熱海の岩崎別邸(陽和洞・非公開)の海を見せるための芝生による現代風の庭も植治の作庭、京都のこの並河靖之旧邸の庭は、舟形の大きな鞍馬石を刻み込んだ一文字手水鉢を、深く掘り下げた庭に乗り出させ、疏水による池に座敷を張り出させるなど作為に跳んでいて、その多彩な作庭手法に`植治`という庭師は何者ぞ!と改めて好奇心が刺激された。

植治の庭は植治の作意なのか、つくらせた者の趣意なのか!
近くに山形有朋の別荘「無鄰庵」(むりんあん・庵には草冠が必要だがpcに文字がない)がある。時間を組めなくて見ることができなかったが、その作庭も植治だという。
次の京都の旅は庭旅?植治の作意も興味深いが、修学院離宮の作意を感じる庭とコラボレートしているのどかな田園風景(庭といっていいのか!)を改めて観たくなった。
千年の都京都は懐が深い。



ぶらり歩きの京都(9) 旧京都西陣電話局と楽美術館

2010-08-01 15:27:18 | 建築・風景

逓信省の技師岩本禄の設計した「旧京都西陣電話局」(1921)を見ながら、この建築をモダニズムの中でどう位置付けるのかと首を捻った。京都の建築歴史学者の推薦によってDOCOMOMOに選定されているのだ。

シンプルな円柱の上の半円形のレリーフの中に並べられた三つの裸婦のトルソ、右手の階段室の上部には獅子孔が張り付いている。なぜか見る機会がなかったのだが、写真や資料を見ていて気になっていた。何故モダニズム? 
撮影もしておきたい。今回の旅の目的の一つでもあった。場所は油小路通中立売下ル。数多くの近現代建築が存在している京都の町並みの中でもこの外壁は異彩を放っているが、建築としてのバランスが見事で魅力的だ。

岩本禄はこの建築を建てた翌1922年になくなった。29歳だった。しかし分離派に異を唱え、建築家は「精神的な遊戯を持たなくてはいけない」という其の志は、吉田鉄郎や山田守などに受け継がれてゆき、10年後に建てられたモダニズム建築を語るときに欠かせない「東京中央郵便局」(1931・吉田鉄郎)へと昇華されてゆくのだ。近年モダニズム建築への懐疑が(否定するという論調に近い)、それも著名な建築家によって取りざたされることが多いが、改めて其の豊穣な世界を見詰め直して欲しいと僕は願う。

さて、なんと楽美術館はここから30メートル、これには驚いた。何度も訪ねたことがあるのに西陣電話局がこんなに近くにあることに気がつかなかった。

「楽歴代展」。長次郎から当代までの代表作が展示されている。興味が惹かれたのは、先代の覚入と当代(15代)吉左衛門の赤楽茶碗。展示された当代の作品が焼貫茶碗ではなく、赤楽だったからだ。そして展示された楽家の系譜をみて、先代が第二次大戦のなかで楽家存亡を懸けて闘ったことが読み取れ、楽家が単に世襲制度にこだわって引き継がれてきたのではなく、秀でた人材を取り込んで継承されてきたことに改めて感じるものがあった。当代の、「赤楽で歴代と対峙する」其の志が凄いとも思った。

考えながら表に出て歩き始め、アッと一瞬戸惑った。当代が向かいの家から出てきたのだ。ふっと頭を下げてすれ違い、当代もそっと頭を下げる、ああ京都だと思ったものだ。

<写真 旧京都西陣電話局 道が狭くて引きが取れず 逆光、そして電線だらけ、撮るのが難しい>