新潟日報紙面の企画、連載記事の中から選ばれた「わが町 わが村」で取り上げられた、一、自治体から、一、エピソードに選ばれた新発田市を題材とした記事は、JRの白新線ではなく、新白線のお話し。
かつての赤谷線赤谷駅。ここから磐越西線白崎駅までの新線が計画された。
幻の新白線 ”赤字の壁”は厚かった
「あの線が出来ていれば・・・廃止は無かったかもしれんなあ」。1979年3月で新発田市役所を退職し、現在は紫雲寺町に住む山口成一さん(65)はこう嘆く。
“あの線”とは、赤谷線を延長して磐越西線白崎駅とを結ぶ「新白線」のことである。
64年5月、東京都千代田区衆議院第一会館で「新白線建設促進期成同盟会」の結成会が開かれた。同盟会は、新発田、津川、鹿瀬、三川の四市町村で組織し、事務局が同市企画課に置かれた。
「当時は全国で新線建設の要望が相次いだ。同盟会結成も運動をアピールするため、東京でやるのが流行していた」。こう話す山口さんは、同課の広報係長だった。「一流ホテルでやる県もあったが、こっちは金がなくて・・・」と山口さん。
新白線建設の運動は、実はもっと昔からあった。赤谷線開通前の24年、当時の赤谷村長の呼びかけで「赤谷線鉄道磐越西線白崎駅に延長期成同盟会」を創立。
「鉱山運行線が営業線に組み入られた暁には、ぜひ白崎まで延長してほしい」と陳情した。壁は厚く、同会は自然消滅の形をとっていた。運動が復活したのは63年、赤谷線中間駅設置が地元の陳情で成功してからだった。
新白線建設に最も熱心だったのは、三川村だった。同盟会の経費も、新発田市と同格の30%を負担し、村議会に独自の新白線促進特別委員会を作った。委員長の山口浩正元村議(66)は、「当時の三川村は、冬場は陸の孤島だった。
地元民は、赤谷駅まで一里半の道を歩き、新発田へ行ったもんです」と振り返る。
新産業都市に新潟地区も指定され、新潟東港がようやく建設されようという時代だった。その後背地構想を四市町村とも胸算用し、新発田市は「東蒲をわが商圏に」と思い三川村は「生活も便利になる。働き口も増える」と夢を膨らませた。
同盟会は一丸となって運動した。年二、三回のペースで上京、陳情を繰り返した。しかし、努力は報われなかった。「鉄道新線建設促進全国協議会」にも入会したが、東港建設はさっぱり進まなかった。
そして、68年、国鉄諮問委が初めて赤字線廃止を打ち出し、その中に赤谷線も入っていた。
せっかく盛り上がった運動も急速にしぼんでいった。 (1984・3・27)
白崎駅は1985年(昭和60年)3月14日三川駅に改称
半世紀以上も前からの想いが、今から35年前の新聞「わが町 わが村」で語られている。県内の各市町村の連載企画の中で、新発田市を題材とした内容がこの記事。新聞社刊行の“ふるさとの100年”の書籍に記されている。
さて、これからの時代どう進むのか。