亡くなった親に代わってお墓参りをする、そんな年中行事が、あたり前のことと、自然と備わって来る。
前は朝早く、墓掃除の道具などを車に積んで、店の開店前に済ますと出かけていたが、今年は店を閉め、電車に揺られ菩提寺へ。
本堂に上がり、久々に住職、若住職にお会いし御盆礼を差し出し、阿弥陀如来仏を参拝する。
バケツに水を汲み、柄杓にタワシを持ち墓地を行けば、9時過ぎとはいえ、そこそこの混みあいである。
墓石のところどころから、お坊さんのあげるお経の声、おりんの音が聞こえて来る。
花を添え線香を挙げ今年はお坊さんにも参拝いただきその後、線香を手に御親戚の墓石に向かえば普段会わぬご親戚のご子息夫妻と挨拶を交わす。
行きは歩きたくないと家内に言われ、駅からバスで寺の近くまで来たが、帰りは何処何処寄って行こうと、寺町界隈の西堀通りの柳の下を歩くことになる。
日差しも強いが、並ぶ寺の門前を眺めれば、「人間は喜びと悲哀のために作られた」と有り、またある門前を眺めれば、「人の多くは善いことよりも悪いことに興味をもつものである」
何か平易でオヤッと思う言葉だが、その寺、寺の文面が面白い。某寺は、「うそ聞いて喜んで本当聞いて腹立てた」歩きながらだが、つい次の寺の門前には、何が書かれているか毎年の事だが興味が湧く。
こんなチョッとした事がらをお前たち、さとれヨと云う事か?
菩提とは、さとり、めざめを意味する梵語だそうだ。
つまりさとり、めざめのために建てられたお寺を、菩提寺といい、家族や親類、また縁の深かった人などが、どうかお釈迦さまのようにさとれますように、めざめられますように、こうした人々の切なる願いによって建てられたお寺が、菩提寺なのですとある。
帰りは、会津八一記念館と、今開催されている動物写真家、岩合光昭写真展 「こねこ」を見て参りました。
万歩計を見れば一万五千歩を越え、結構歩きましたナ。