ダックのパパママストア

商店街に有る、パパママストア。
  何を売る店? 今日は、何をお探しですか....? 商店街で起こる色々なこと。

秋の風

2022-09-27 16:20:11 | 社会

秋分の日には、地域の地蔵尊のご供養会があり、参拝いして参りました。

久々に町内役員が集まる会合でしたが、「残れる人達で一献いかがですかナ?」のお声もあったのですが、昨年に引き続きコロナ禍のため懇親会とは行かず、折詰をお持ち帰り頂きました。

草木が紅く染まる季節がやって来たか、夜の訪れが早くなってきましたね。

秋分の日の前日、近くに住む同期が顔おを出す。大動脈瘤の手術で入院すると云う。ビックリしたが明日の28日が手術日。どの位の入院になるのか定かではないが、丁度お茶飲みに来ていた、昔から彼を知る御仁と経緯の話しを聞く。

小学生の時、教科書を風呂敷に包み、二人で週2回、近くに住む先生のご自宅に通った事がある。彼が向かいに来る時は、国語・算数の教科書で、私が向かいに行くときは、理科・社会の教科書を持ち、圧倒的に国語・算数の教科書の時が多かったですネ。

 日曜日の午前中は色々買い物があり、昼すぎには、米の精米に出かけたのだが、あいにく機械の整備点検中で、3時頃までかかると云う。

「出なおす?」と家内に聞けば、すぐ近くの五十公野公園でライブをやっているから行って見ようと言う。

前にも何度か聴いた事があり、じゃ~行って見るかと公園の中の森林館へ。

今日は天気も良く館内ではなく、森林館の外に椅子を並べての野外コンサートだ。

時間も過ぎ、行った時はコンサートの休憩中で、高齢者が9割以上で満席状態。

地元のベンチャーズや、来夢(ライム)の合同演奏で、昭和歌謡・演歌・オールティーズ・ベンチャーズを

演奏しているバンドで、昔懐かしい曲を楽しみにしている方々が集まられる。

普段館内の演奏の時は、コーヒーを頂き楽しんでいたが、今回は残念だが、演奏者の姿がよく見えない長椅子に座り、山本リンダ・弘田三枝子の歌などを楽しんできました。

すると隣家の私たちより年上のご夫婦もやって来た。「ヨウ~!」「ヨウ~!」と挨拶。

私の歳、前後のロートルが、若き日を思い出しここまで来る?

入院する人、元気な人、色々ですな。

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ラジオ深夜便

2022-09-17 15:37:28 | Modern Jazz

8月の地元新聞に「甦る!日本のJAZZ&ポップス180選」こんなタイトルの全面広告が、新聞紙面を賑わす。

色々な演奏者の写真が載っていて、秋満義孝、松本英彦、横内章次、北村英治、前田憲男、三保敬太郎、南里文雄など々。最初に目にとまったのは、テナーサックス奏者の松本英彦の写真。

JAZZに興味を持ち始めた学生の頃、色々なJAZZ喫茶に通うようになり、生演奏は、新宿のピットインへ行き、コーヒー一杯で生演奏を楽しんでいましたネ。

当時は喫茶店のコーヒー一杯が、たしか80~90円位で、ピットインでも、一杯が250円位だったか、今となっては定かではないが、別段コンサート料を払うとかと云うことでもなく、コーヒーを飲みながら、生演奏を楽しんだそんな時代でございました。

そんなに度々行ける身分ではありませんが、あそこに〇〇バンドが出演していると聞けば、そこのJAZZ喫茶を訪ねもしましたが、何度か聴いた事のある所はピットインで、〇〇トリオ・〇〇カルテット・〇〇クインテットの演奏で、それも松本英彦のカルテットを、一番よく聴いていて、テナーサックスの音色に感激していましたネ。

ジャズに目覚めたのはラジオ放送からで、何だこの曲はと、ビックリ胸騒ぎしたのが始まりだった。

愛すべき「あの頃のジャズ」に心が満たされる。(新潟日報をご購読のあなたへ。)

「青春時代へタイムスリップできる」「思わず涙ぐんでしまう」-圧倒的にカッコ良く、それでいて胸に沁みる懐かしさにあふれた“日本のジャズ”。若きあの頃、夢中になった私たちにとって、まさに大切な宝物です。

今回ご紹介するのは、NHKの名ラジオ番組『ラジオ深夜便』より、日本人ジャズメンの名演全180曲を集大成したCDコレクションです。リスナー気分を楽しめるアンカー4名のやさしい語りと、リラックスタイムにふさわしい楽曲の数々。聴くだけで胸が高鳴ったり、心が安らいだり・・日本のジャズにときめく夢のひと時を、ぜひ本全集でご堪能ください。

全面広告を見れば、懐かしいい思いがこみ上げてくる。買おうか、買うまいか?

価格を見れば、愛蔵版CD全10巻。鑑賞ガイド、収納ケース付き・31,680円とある。

二十歳の頃、のめり込んだジャズだが、半分以上は聴いた事のない曲で、私の知るその数年前の曲を探る事に成る。

発売元がユーキャンで、まだアマゾンとか、楽天とかの通販が育つ前、父もユーキャンをよく利用していましたね。戦時の記録図鑑とか書籍、ビデオのシリーズ物とか、ユーキャンの企画物がよく送られて来た事を覚えています。

父が亡くなった後、5~6年もユーキャンから色々な企画のパンフレットが何度も自宅に届いていて、歳を考えたら分かりそうなものだがと、思ったものでしたが..。迷っている私を見た家内が、「自分の誕生日プレゼントだと思って買ったら?」と。

ついに私もユーキャンのターゲットに。

CDが届き、風呂に浸かりながら、昨日聴いたのは第3巻目のCDで、松本英彦の演奏は第7巻目、そこそこ分かる曲もあるのだが、順番に聴いていて、日頃のリラックスタイムにピッタリと言うよりも、少しは、このところのボケ防止の刺激にはなるのだろう。

 

 

 

 

 

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沖縄は何処へ

2022-09-09 11:36:16 | 沖縄の真実

「本土並み復帰」を叫んでいた「沖縄県祖国復帰協議会」が、米国との返還協定が見え始めた時、もっと言ってやれと云うことか、自衛隊断固反対、米軍基地を全て撤去する復帰にするのだと、「即時無条件返還要求」行動を行うことを、今までの範疇を越え決定するのです。

日米安保のある日本に復帰すると、「本土並みに」日米安保が沖縄に適用されて基地が残る復帰になるため断固防止をするというのです。

この時から復帰協の運動の実態は「安保闘争」となっていったのです。

今、沖縄問題で最も理解困難で誤解しやすいのが、十数年前表面化してきた「琉球独立工作」です。実は、沖縄県民の全く知らぬところで、沖縄県民を先住民族とする国連勧告が出されてきました。2008年に最初の勧告が出されて以来、見事に隠ぺいされ続けながら、繰り返し4回(2018年8月時点)も勧告が出されています。

これらの勧告が出される背景には一体何があるのでしょうか。

国連では、先住民族の土地の権利を保護しなければならないというルールがあります。沖縄県民を先住民族として認定させたい勢力の目的は、沖縄の米軍基地問題を国際的人種差別問題に巧妙にすり替えて、国連が認めている先住民族の土地の権利により米軍基地を撤去させることなのです。

更に、資源の権利の保護も謳われているので、尖閣諸島海域の油田やレアメタルの権利も特別に保護しなければならなくなります。

現在、沖縄の米軍基地撤去運動は、「安保闘争」から国連と沖縄の歴史を利用した「反差別闘争」にシフトしたのです。そして、その守りには、「日米安保賛成の世論」だけでなく、「沖縄県民は古来から日本人だ!」という国際発信も必要な時代に切り替わっているのです。

しかし、残念なことに、日本政府も言論界も「沖縄はいつから日本なのか」について明確に回答できる、共通した歴史観を持ち合わせていないのです。

そこへ最重要戦略地域と見ている、大陸からの思想が突いて来るのです。毛沢東政権の時、「中国人民は日本人民の偉大なる愛国闘争を断固支持する」というタイトルで、米国に対して基地や武装部隊の撤退要求・沖縄の領土返還要求・日米安全保障条約の廃止、等々。すべてこれは日本人民の意志と願望を反映している。日本の英雄の皆様に敬意を表明しますとある。

しかし「琉球は中国の族地であり、琉球人民はすなわち中国人民である」から始まり、当時も今も沖縄県民が見たら激怒する内容ですが「琉球革命同志会」が、中国復帰運動への支援要請文を送り、いくつかの省市参議会がこれに呼応していて、今は、「第一列島線」「第二列島線」という中国人民解放軍の海軍による近代化計画の概念を打ち出しています。そこに沖縄が含まれているのです。

沖縄県知事選の投票が今月11日に行われます。沖縄は、これから如何進むのか?

最後に、仲村覚氏の著の中から、下記をご紹介。

 

沖縄県祖国復帰運動の舞台裏とは?

 昭和四十六年(1971)六月十七日、日本と米国は沖縄返還協定に調印しました。沖縄はついに異民族支配から二十七年ぶりに解放されることが決まったのです。あとは日米両国の議会で協定の批准を待つのみとなっていました。

ところが、祖国復帰協議会は、米軍基地が残った形での復帰は受け入れられないとして、返還協定粉砕という過激なスローガンを掲げ、ゼネラル・ストライキを繰り返す激しい反対運動を始め、その運動が安保闘争モードに豹変していたのです。

当時はベトナム戦争真っ最中です。また、朝鮮戦争も休戦中でありいつ再び勃発するかわからない状態でした。さらには当時の中華人民共和国は核兵器の開発がほぼ完成しつつあり、自由主義陣営にとっては新たなる軍事的脅威が現れていたのです。そのような中で、沖縄から米軍基地を追いだし、自衛隊の配備も阻止して沖縄を丸裸にしようというのが祖国復帰協議会の復帰運動の実態だったのです。

国会では同年の国政参加選挙で参議院議員に当選した祖国復帰協議会委員長の喜屋武 真栄(きやんしんえい)氏が与野党の議員に返還協定の批准に反対するように言い回っていました。そのため国会では、「沖縄県民が望まないのなら無理して強行採決する必要は無い」という空気が蔓延(まんえん)していたのです。

では、運動に参加している県民は、本当に沖縄が復帰しなくて良いと思っていたのかというと、そうではなく、復帰すること自体は既に決まっているものであり、復帰の条件をよくするための運動だと思って参加していたのです。つまり、祖国復帰協議会や地元マスコミに、ほとんどの県民が騙されていたことを意味します。

そのような中、沖縄返還交渉のやり直しは不可能であり、今のチャンスを除いて沖縄の復帰はありえない。このままでは子どもたちがどこの国の人間だかわからないような人に育ってしまうと、復帰の危機を悟った教職員五名が沖縄教職員会を脱退し、「沖縄返還協定貫徹実行委員会」を立ち上げました。

十月三十一日に与儀公園で一〇〇〇名の大会を開くと、十一月三日には代表団八名で上京し、国会や政府に「沖縄県民の本心は全員が復帰を望んでいる」と涙ながらに早期批准を要請しました。その結果、十一月十七日には自民党が沖縄返還協定を強行採決で批准することとなります。

昭和三十五年(1,960)から沖縄の祖国復帰の大衆運動の中心的役割を担ったのは「沖縄県祖国復帰協議会」ですが、実はその目的は日米安保破棄であり、彼らによって県民全体が安保闘争に巻き込まれ、復帰の実現が危うくなったところを、国会に本当の沖縄県民の声を伝え、祖国復帰を貫徹させたのが、「沖縄返還協定貫徹実行委員会」だったのです。

 

 

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沖縄の真実 Ⅲ

2022-09-02 14:35:39 | 沖縄の真実

朝の連ドラで、沖縄に生まれ育った兄妹たち家族の、歩みを見つめる物語が、日本語で放送されている。色々話題に成る沖縄の事をもう少し探ってみようと云う事から、今回は、仲村 覚氏の著書に、語り継ぎたい沖縄戦・祖国復帰の真実の項目の中から、下記を御紹介。

「米軍統治下の沖縄における学校教育とは?」

 沖縄を永久基地として使いたい米軍は、沖縄の学校教育やラジオ放送はできれば英語、それがだめなら琉球語で、日本語は避けたいと考えていました。

そのため、終戦直後の収容所時代においては、言語教育はどうなるのか不安が広がっていました。そのような時、諮詢(しじゅん)委員会文教部長の山城篤男(やましろあつお)が「言語教育はどこまでも標準語(日本語)で行け」と指示を出したのです。それは取りも直さず『日本人としての教育を断行せよ』ということであり、闇夜の中の一条の光だったのです。

軍政府情報教育部は、沖縄民政府文化部芸術課長の川平 朝申(かひらちょうしん)に琉球語で放送するように圧力をかけましたが、川平は次のように反論しました。

「琉球語は日本語である。一般的に今日の琉球語は日本語の地方語であり、日本語放送のNHKでは放送用語を普通語といい、放送言語として統一している。演劇や娯楽番組では地方語を用いているが、それはあくまで娯楽番組のみ用いられているのである。

琉球語という言語だけを使用すると聴衆者を制限することになり、おそらく首里、那覇近郊の三十才以上の人間しか理解できない。しかも琉球語で科学、芸術、学芸の表現は極めて困難で、放送は老人層の具にしかならないだろう。ラジオ放送は全県民に聴取できるようにしてこそ、その使命は果たされるのです」

講和条約の締結がちかづき、米軍統治が続く見通しが見えてきた沖縄では、占領軍の言葉である英語を使用言語にしたほうが、沖縄の未来は開けてくるのではないかという声もあがってきました。しかし、昭和二十六年(1951)四月二十八日沖縄群島議会議事に以下の議事録が残されています。

宮城久栄君  第十八条四号(沖縄群島教育基本条例)に日常生活に必要な国語とありますが、小さいことですが、講和条約後、万一米国の信託統治になった場合の国語は何を指すのですか、英語か日本語か?

文教部長(屋良朝苗君)   現在の言葉を指しているつもりであります。我々の標準語をさしております。我々の標準語といっているもの即ち日本語をさしているのであります。

宮城久栄君  帰属がどう決まってもいつまでも日本語を国語としますか。

文教部長  帰属如何かかわらず、私はそう思っております。この言葉を通して沖縄の文化建設をしていくのが妥当と思います。(以上)

このように、当時の沖縄のリーダーが日本人としてのアイデンティティを守ったことにより、米軍統治下の沖縄の学校教育、テレビ・ラジオの放送は日本語で行われたのです。

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