中央図書館へ行けば、本棚がテープで封鎖され、本を手に取る事が出来ない。
受付に聞けば、資料に記載されている本がきちんとあるのか?返却されているか?蔵書の点検期間にあたり、今月の21~29日は、館は開いているが、各階の本棚が、点検の為休館扱いで、目の前の書籍は手にする事が出来ません。
なるほど年に一度のこんな点検があるのか。それも大事なことだろうが、点検が終了した本棚からでも解放は出来ないのか?30日の日は休館日で合わせて10日間、本を手に取る事が出来ないとは。もう少し市民への利便性を考えられないのかネ。
そう云えばあんな詩があったよナと、確かめようと図書館へ立ち寄ったのだが後日になる。
本を他の所で手に取れば、市民や当市にゆかりのある小学生以上の方の作品を掲載しています。毎年6月に作品を募集し10月に発刊していますと云うシールが裏表紙に貼られている地元の文芸誌に、詩のページがあり、K・H氏の作品が載っている。
『忘れ物』
またあいましたね
もう会えないものと
思っていたのに
もう
あれから何年経ったのだろう
春・夏・秋・冬
いろいろに
季節が移り変わって行く
もう忘れた
忘れたと思っていたことを
ふと思い出すことがある
時の重い扉を開き
心の痛みを
かきむしる
どうでもよかったこと
何も形をなさなかった
ものとして
ぽーんと
どこかの片隅に
置き去りにしているようだ
昔から知っている方の作品で、想いが何か通ずる所がある。
記憶の忘れ物みたいなことを書きたいと思って書きました。何かを思い出そうとしてもすぐには出てこない。でもそれはそれでよかったと納得する自分あると・・。
お互い同年代で、そう云う気持ちは、確かに響くものがある。
家内が「今日は何の日か分かる?」と私に聞いて来る。え~と1月の26日は・・なんだったっけ?
「お母さんの命日よ」。「仏壇にお参りしてきたら」。
あッ!そうか、そう云えば自宅には数日間行っていないナー。池のヒブナにエサをやり、空き家になった自宅の仏間に入り、線香を焚き、両手を合わせれば、おりんのやさしい音色が響く。
母が亡くなって今年で21年が経つ。
過ぎ行く歳と共に、仏壇に手を合わせれば、父、母に包まれ育てられていたのだろう。そんな思いが深まってくる。
それを、あたり前と思っていたのか、有り難いこととは思わなかったのか?
仏壇を前に、頭を下げる時を、自然と重ねれば重ねるほど、その忘れ物が想い出されて来るのです。