ダックのパパママストア

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桜 有志21名

2018-11-03 12:38:06 | 社会

加治川堤防10里の、桜並木は日本ーと、かつて言われていた。

ソメイヨシノの桜並木が日本一なら、それは世界―に違いないと、何故?大人は世界一と言わぬのかと、幼少の頃思ったものだった。

まぁ~その間をとって東洋一とか、世界一と書かれた文面もあるにはあるのですが、どれが正しいの?世界一と言わぬのは、礼節を重んじる地域住民の謙虚さなのだろうか。

小学生の時の遠足でも訪れたが、花見時には桜の樹木の枝が、堤防沿いに大きくしなり、咲いた花々が土手下に着きそうなしだれ具合で、見事な花のトンネルの中を歩いた思い出が有る。

亡き父の残した「想い出の加治川の桜写真集」のアルバムを見れば、主に写真は白黒だが、戦前から33年間の刻まれた一時が記されている。

 

昭和16年4月20日加治川本流(水門付近)            昭和35年4月23日長畑付近

放浪の画家・山下清が1957年制作の記録映画のロケで加治川を訪れている。この写真は、スケッチブック片手の姿だが、ほかにも我が家には桜満開の土手を舟下りしている写真や、ラジオのインタビューに答える姿がアルバムに残されている。

  

一度目にした風景は頭に焼きついて細部まで覚えているという山下だが、加治川の桜は彼にどう映ったのだろう。

父が昭和49年に、一冊のアルバムに編集すと記されたページには、

大正四年、大正天皇の御大典記念として植樹された加治川の桜も、昭和四十一年七月、同四十二年七月の大水害により堤防が切れ、堤防上の植樹は土手を弱めるとの見解のもとに樹齢六十年の桜も、昭和四十三年から全部切り倒された。

植えた当初は堤防補強の為との事で植えたものと思うが、時代が変わると考えも変わる。

紫雲寺橋より下流の桜は(三〇〇本位)都合上残されたが、昭和四十九年五月以降に加治川河口迄の桜も全部切倒した。

加治川の桜と云えば日本中はおろか世界にも知られて居ったのだが誠に惜しいものだ。その替りとして内の倉ダムサイドに新しく桜を植えたが、西暦二〇〇〇年頃が見頃だろう。

附記 写真は旧加治川を主として撮影したとある。

また、別のページには、撮影の時は二分咲き位であったが、此の桜も四月三十日から切り始め、五月には全部切倒される。
約三〇〇本ある桜も約六〇年余の歴史を閉じると、写真との合間に記されていた。

日本人が桜の花を見てホッとして、日本人だと云うアイデンティティを思い出すのは、時としてその風土を桜が語ってくれるからなのだろう。

桜並木の復元を望む声が多く、平成元年に国の「桜づつみモデル事業」として認定を受け、桜並木の復元も進み、その思いを後世に伝えるべく同期が今、加治川を愛する会の会長を務めている。

加治川を愛する会も出来て今年で20周年。記念植樹際にミスインターナショナル日本代表もお迎えして記念式典もこの春あったようだが、植樹やら毎年クリーン作戦、ウォークラリー、花まつりなどが開催され、加治川と共に生きるとご尽力頂いている。

その創立20周年記念植樹に際し、「桜の里親」のお誘いが同期の幹事役に有り、なんとかせねばのお誘いを受け、それじゃーと云う事で、俺も々々と予定以上に人数が集まり、「新発田高校18回卒業有志21名」が里親になり、先週土曜日に、県、市の協力のもと、植栽環境の整備された米子桜橋の堤の、植樹式に12名が参加して参りました。

同期の中には、会長夫婦はじめ、夫婦で「桜の里親」になられている方々もいて、この話を知らなかった同期が、店に来れば「次の植樹の時には夫婦で申しこんだら」と話している。

植樹式の時、会長が言っていたが、この場所は潮風が有り、まだ雑木林は切れないが一番風の当たる端の所に会長夫婦の記念樹が植えられ、我々はネームプレートを掛け端から4番目。

この日は、NPO法人「日本里山の森林を育む会」が主体となって、新規に15本、枯れたり、生育不全に8本、計23本を植えました。

  

早速、幹事役が写真を同封して、有志21名に送れば、東京に居る御仁から、「高校生の時、加治川で応援歌の練習をした事が懐かしく、古稀を記念しての植樹は良い思い出になります。植樹御苦労さまでした。」とメールが届いたと言っていました。

今年の秋の褒章で、同期が一人選ばれている。叙勲の二人と来年は、この桜の花が咲いた頃にでも、みんなで一献如何ですかな。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
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