パンダ イン・マイ・ライフ

ようこそ panda in my lifeの部屋へ。
音楽と本、そしてちょっとグルメなナチュラルエッセイ

漱石 3 倫敦塔他

2022-02-27 | book
夏目漱石が明治38年から39年にかけて「吾輩は猫である」を連載していた頃に発表した短編の数々。岩波文庫では「倫敦塔 幻影の盾 他五編」(昭和5年1930年1刷)として7編を収録している。2017年平成29年12月第45冊だ。

「倫敦塔」38年1月 
漱石が留学していたイギリスでの話。牢獄でもあり、王宮でもあった倫敦塔。
「カーライル博物館」38年1月 
イギリスで漱石が教わっていたカーライルの想い出
騎士道ものの「幻影の盾」38年4月、
「琴のそら音」38年5月 
友人から日露戦争でなくなった夫のもとに現れた妻の話を聞き、インフルエンザにかかった許嫁のもとを訪れる
「一夜」38年9月
1人の女性と2人の男性の一夜の物語
騎士道ものの「薤露行」38年11月
「趣味の遺伝」39年1月 
日露戦争の凱旋行進が新橋であった。そこに戦死した浩一の面影を見る。墓に参るとそこに一人の女性がいた。
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漱石 2 吾輩は猫である

2022-02-20 | book
大正5年1916の漱石の絶筆「明暗」の前の作品、大正4年1915年の「道草」を読んだので、今度は長編「吾輩は猫である」にチャレンジした。「猫」は、知人の高浜虚子の俳誌「ホトトギス」に明治38年1905年1月号から翌年8号まで10回にわたり、掲載された漱石の処女作。1867年生まれの漱石が38歳の時、イギリス留学から帰国(在英中に正岡子規が亡くなる)し、東京で高校と大学の講師をしながら、小説家としての一歩を踏み出した作品だ。「坊ちゃん」は同じく「ホトトギス」に翌明治39年1907年4月に一挙掲載された。
漱石の没後100年を記念し、朝日新聞に漱石の作品を日々掲載していた。猫はその最後の登場となり、2016年平成28年4月から翌年の3月まで224回わたり掲載された。

夜、寝る前に毎日読んだ。日々掲載されているので、毎日、声を出して読んでいますという投書もあった。猫を主人公に、切れとリズムの良い会話と、西洋や禅、論語などあふれ出る教養、個性的な登場人物が魅力だ。

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進むべき俳句の道

2022-02-13 | book
1874年〈明治7年〉に生まれ- 1959年〈昭和34〉に亡くなる俳人の高浜虚子は、大正7年1918年6月に「進むべき俳句の道」を出す。大正7年といえば、100年も前になる。虚子の45歳の時だ。

虚子は、主宰の俳誌「ホトトギス」の「雑詠」欄を武器に「ホトトギス」の黄金期を築く。この「雑詠」欄の選句をもとに、個々の俳人の作家論を、虚子は大正4年から6年まで「ホトトギス」に「進むべき俳句の道」を掲載し、単行本として世に送った。同じく大正7年4月に古典俳句の鑑賞と啓もう書ともいうべき本書「俳句はかく解しかく味わう」を出す。つまりこの大正7年は、過去と現在から俳句の今を提唱した時期にあたる。

掲載された雑詠は、明治41年1908年から翌42年の1年間、そして、明治45年(大正元年)から大正4年までの約3年間にわたるものだ。この間の3年間は虚子曰、「まったく俳句界から手を引いて、三猿主義を決め込んでいた」「小説に熱中することができたのは初めの2年間であった」という。
背景には、明治35年1902年は虚子の先輩、正岡子規が35歳で亡くなる。翌年、子規と虚子と同郷の俳人、河東碧梧桐は、子規の芭蕉軽視の考えを俳句形式の破壊まで進めた「新傾向俳句」を打ち出す。当時、俳句より小説に勢力を傾けていた虚子は、碧梧桐の動きに危機感を感じ、大正2年1913、俳壇に復帰する。

虚子はこの4年にわたる雑詠選から、それぞれの俳人の進むべき道を示す。
まず、「緒言」。虚子は「雑詠は虚子が選をするものであるから、虚子趣味以外のものは容れぬのであるという人があるかもしれない」「その作家にはそれぞれの特色があり、一団としてはある一つの方向に進みきったものともいえるが、その中にある分子分子は各々異なった本来の性質をもってそれぞれ歩数を異にしている」「諸君の進みきった道は諸君の進むべき道である」と。
そして、「ホトトギスの雑詠の線をするのは。虚子趣味を推し進めようとするものではない」「諸君をして諸君の道を開拓せしめようとするのである」と。

次の「主観的の句」では、子規の時代を客観描写の時代といい、この客観描写では物足りなくなり、今日、主観句が台頭しているという。具体のホトトギスの雑詠30句をを挙げ、解説を試みる。そして注意すべき点として4つ挙げる。一つは主観の真実なるべきこと、2つには客観写生をおろそかにしないこと。自己の価値ある主幹は、価値ある客観を俟って初めてその真価を発揮すべきであると。3つには素朴とか荘重とかいう言葉を忘れてはならぬ。4つ目は叙する事項は単純であって深い味わいを蔵している句が一番好ましい。俳句は言葉の少ないものであるから、そこを利用してきわめて簡単なことを叙して、しかも裏面には複雑なことを込めることが肝要である。

そして総勢32人の投句者を論じる。俳句解説はもちろん、人となりも述べる。著述者としての虚子のすごさだ。

最後の「結論」で、17文字と季題趣味を2大約束として守れといい、この時代の主観的という句の傾向を子規の客観主義を進めたものとするが、「客観の写生」とう一大事をわすれるなと伝えて終わる。

解説の俳人、岸本尚毅は、虚子の詠み手としてのすごさとともに、読み手としてすごさを指摘し、今日まで、こんなにすごい読み手は出ていないと指摘する。ましてや、虚子は、ホトトギスに寄せる市井の俳人たちを取り上げ、その思考過程を本として刊行し、オープンにしているというのだ。俳句は詠み手と詠み手で成り立つ文学だとする。岸本は、俳句を読むことは詠むこと以上におもしろいとも。また、よき読み手となるには先行する優れた読み手に学ぶのがよいと。

令和3年2021年9月15日に99歳で亡くなった俳人の深見けん二は、晩年、この「進むべき俳句の道」を読み返しては、新しい発見があると言っていたという。けん二は、19歳で虚子に師事した。代表句は「人はみななにかにはげみ初桜」。63歳の時の句だ。100歳を前に、「顕著に現れる日本の四季の中で、心つまり日々の生活が、俳句によって詩として表現できる実感は、何よりも俳句の恩恵であり、百寿を間近にした今でも心の安らぎである」。



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白梅咲く

2022-02-07 | life
畑の梅が咲いた。白梅だ。まだ、一輪、2輪だ。
暦の上では、立春。でも日本全国、冬の気圧配置だ。

近づけば向きあちこちや梅の花 三橋敏雄

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漱石 1 道草

2022-02-06 | book
夏目漱石の「道草」を読んだ。102の章からなる。1915年大正4に掲載された新聞小説。
漱石は大政奉還の1867年に生まれる。翌1868年は江戸が東京となり、元号が明治となった。大学の学友、正岡子規も67年生まれだ。
漱石は道草が掲載された翌年、1916年大正5年の12月に49歳で亡くなる。この年の5月に「明暗」が新聞掲載されたが、12月で絶筆となった。

自伝的小説ともいわれ、ヒステリー気味の妻の諍いと、親族からの金の無心に追われる作家の日常を描いた。36歳という設定、学校での教鞭と作家の活動などから「吾輩は猫である」執筆の頃だともいわれている。

まだ江戸の名残の濃い、明治時代の兄弟や妻、妻の父、養子に出されていたころの養父母など、漱石の家族関係が下地となり、そこに借金の無心という共通項が一つの軸。夫婦関係というもう一つの軸が貫く。
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