パンダ イン・マイ・ライフ

ようこそ panda in my lifeの部屋へ。
音楽と本、そしてちょっとグルメなナチュラルエッセイ

どもる体

2019-03-31 | book
身体論を研究している伊藤亜紗の「どもる体」を読んだ。2018年6月発刊。

「しゃべる」と言う動作を普段何気なく行っている。しかし、この言葉がしっくりと出ない人がいる。吃音、どもる状態を筆者は「体のコントロールが外れた状態」であるとした。吃音には2つのパターンがあり、連続して出る、バグル状態と、言葉が出ない状態、フリーズする状態の2つだと。これらは自分の思い通りにならない状態だ。これは困る。自分のものであって自分のものではないのだから。

吃音の持ち主は意外と多い。田中角栄、マリリン。モンローを始め、文学者にも多い。統計的には吃音は100人に1人の障害と言われている。しかし、工夫によってどもりを回避しているひともいると思われ、実数は多いのでは。幼少期は20人に一人がどもりを抱えているが3年たつと7割がどもらなくなる。日本は吃音治療大国だった。

吃音障害は、症状の個人差が非常に大きい。治療方法も原因がわからない。過去には発語・呼吸器、利き手矯正、心理的原因説あり。

内容は、どもる体を分析、連発と難発を当事者にも聞きながら分析、難発回避の言い換え、コントロール手法のノると乗っとられる

どもるということは、発声器官のモーフィング(形を変えていくこと)に関係している。
一語だとどもらない。言葉を一語ずつ切るとどもらない。言いにくいパターンは変動する。
連発は、タガが外れた状態。難発は、言おうとしても言えない、緊張して体が受け付けなくなる。
独りごとだとどもらない。
吃音は予兆がある。来る来るっていう感じ。言い換えは、左へ右へ避けられる。そこで余裕が持てる。
歌うときはどもらないのはリズムの力。人前で話すのにどもらないのは演技の力。しかし、ノリ続けることはできない。
えーっと、うーんで波づくり。手や上体の動きの随伴運動もあり。
私の体を私でないものに奪われる苦痛と不安がある。そこで、原稿を読むのではなく、話の枠組み、話の流れだけを作り、考えながら話す。余地を残すことの大切さ。
連発を現象として眺め、コントロールしようという意識から脱し、乗っ取られている状態から決別する人もいる。
吃音と付き合うことは、体が異質なものを自分の一部にしていくプロセスだ。吃音という謎と共にいきるということ。体のおもしろさがある。

吃音という症状や付き合い方は人それぞれ。これといったタイプはない。多くの吃音者へのインタビューを通し、吃音は謎だと断じ、吃音と体がどう付き合うかを身体論を基軸に解説した一冊。
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良寛 3/3

2019-03-24 | book
水上が紹介している漢詩。「定本 良寛全集」の1巻「詩集」では、補遺の年代未詳731にある。

縦読恒沙書 不如持一句
有人若相聞 如実知自心

縦(たとい)い恒沙(ごうしゃ)の書を読むとも 一句を持するに如(し)かず
人有りて若(も)し相(あい)問わば 如実に自心を知れと

たとえガンジス河の砂の数ほどある書物を読み終えたとしても、真の一句を持つことには及ばない。もし、人が来て、その一句は何かと聞いたら、わたしは即座に答えよう。「ありのままの自分のこころを知る事だ」と

良寛は、難しい話もせず、経も偉い人の話もせず、ありのままの自分の姿を見せ、越後の民衆に仏道の大事を教えた。

この国上山の生活で、富裕層に着物、食べもの、酒、薬などを247通、32家に無心しているという。霞を食べては生きていけない。

文化13年、良寛が59歳の時に、国上山を下り、ふもとの乙子(おとご)神社の草庵へ移る。この10余年の後、良寛69歳の時に国上から3里南の三島郡和島村島崎(今の長岡市)の木村元右衛門という人に引き取られた。その70歳の時に、古志郡福島(今の長岡市福島町)に住む貞心尼という30歳の女性と出会う。貞心は福島から島崎へ通う。70歳と30歳の交流は歌となって残っている。天保2年1月6日に、弟、貞心尼、木村家の人々に看取られて、木村家の離れで亡くなる。74歳。

水上は、晩年の良寛のすがすがしさと対照的な一休の晩年を比べる。

グーグルマップを見ると、出雲崎町に円明院、光照寺。倉敷市玉島に、玉島港の北西、円通寺公園と円通寺がある。国上山(くがみやま:出雲崎の北、海岸沿いに長岡市と新潟市の間の燕市)、真言宗国上寺(こくじょうじ)へ上る途中にある「五合庵」、国上山を下りたふもとの乙子(おとご)神社、お墓のある木村家の近くの隆泉寺がある。隆泉寺は、浄土真宗で木村家が信奉していた。

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良寛 2/3

2019-03-21 | book
故郷を出て16年後、38歳、越後に帰った良寛は、家にも寺にも帰らず、出雲崎の浜辺(「定本 良寛全集」によると郷本(ごうもと出雲崎の北、新潟県長岡市寺泊)に身をひそめ、村々を転々とした乞食坊主姿だったという。この間、父は京都で自殺、母も逝去してしまう。
町民からは昼行燈、代官からは愚直ものといわれた、名家の惣領息子が、弟が継ぎ、没落した家がある故郷に帰ってくる心根を水上は不思議がる。弟や光照寺との関係はどうだったのか。また、円通寺を出てからのことは、思い測ることでしかできない。良寛の詩には、禅門の醜さへの嘆きがあるという。乞食を、到達した悟りという人もいるが、水上は、当時の物欲への執着、寺院の腐敗などを背景にした反抗・抵抗の現れという。しかし、この地に働く人々からはどう映ったか。水上は、乞食三昧の生活こそ、良寛の心の痛みの連続ではなかったかという。
ここで紹介する詩。「終日望烟村 展転乞食之」(「定本良寛全集第1巻詩集 2006年10月初版 2008年10月7版「草堂詩集 天巻194」、「空盂(くうう)」(「定本良寛全集第1巻「良寛尊者詩集406」、「昨日出城肆 乞食西又東 肩痩知嚢重 衣単覚霜濃 旧友何許去 新知希相逢 行倒行楽地 松柏叫晩風」(「定本良寛全集第1巻「草堂集貫華18」。194だ。さらに

水上が紹介する良寛の「草堂集」。最も愛唱するという「落髪僧伽(らくはつそうぎゃ)」(「定本 良寛全集第1巻「草堂詩集 地巻」281」だ。さらに、同280「唱導詞(しょうどうのうた)にもふれ、良寛は、この国の禅門の汚れた姿に絶望していたことがはっきりとわかるという。
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良寛は文化2年、47歳の時に五合庵(ごごうあん)という100年たった無住の庵に住む。分水町国上山(くがみやま:出雲崎の北、海岸沿いに長岡市と新潟市の間の燕市)にあり、真言宗国上寺(こくじょうじ)へ上る途中にある。水上は「五合庵」という詩を紹介している。「定本良寛全集第1巻」の「良寛尊者詩集387」だ。「策策五合庵 実如懸磬然 戸外杉千株 壁上偈数篇 釜中時有塵 甑裏更烟無 唯有東村叟 頻叩月下門」。
(ここで良寛は、多くの漢詩和歌書をのこしている)
雪深い越後の地。その中で生きていく。雪の中では庵で耐え、雪が解ければ、托鉢し、子どもと遊び、庵へ去っていく。自ら大愚といった良寛の禅的生涯の高所がわかる。特に、この地は商家が少なく、農家の地であった。農民と知識人である僧の付き合いは深まる。一方で、教団僧への怒りもあったと言う。厳しい生活の中。民衆は皆働き、生産している。しかるに仏門の僧は何もしないばかりか悟りもしない。善良なばあさんをたぶらかし、世渡りばかり考えていると。
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良寛 1/3

2019-03-17 | book
2018年11月29日、樹木希林の新聞記事に良寛の2句があった。「うらを見せおもてを見せてちるもみじ」「散る桜 残る桜も 散る桜」だ。良寛の句は108句。「定本良寛全集第3巻書簡集 法華転・法華讃 2007年3月初版 2008年10月4版」を見た。

前句81。貞心尼に付き添われ臨終の床で読んだ辞世の句。紅葉が裏を見せ表を見せてひらひらと散るように、私も喜びと悲しみ、長所と短所など、さまざまな裏と表の人生を世間にさらけ出しながら、死んでいくことだ。

後句24.桜の花びらがしきりに散っている。だが木の枝には、まだかなりの花がついている。しかしそれも、やがては散ってしまう。桜の花びらは、まことにはかないものだ。

水上勉の「良寛」を読んだ。昭和49年に雑誌連載された。図書館で全集第18巻を借りた。昭和52年4月刊行。(写真は、中公文庫の水上勉「良寛」だ。昭和59年4月発刊、昭和58年1月から12月まで雑誌発表に加筆訂正)

良寛は、1758宝暦8年、越後の出雲崎、佐渡を結ぶ唯一の港。そこの庄屋、神官の山本家橘屋の長男に生まれる。幼名を栄蔵。1775安永4年、18歳で遁世し、近くの尼瀬(あまぜ)の光照寺の和尚の徒弟となり、剃髪して良寛と号した。田沼意次の時代と文化文政時代と呼応する。
詩歌、書道などを能くし、74歳、1831天保2年に島崎村(新潟県長岡市)能登屋で没した。

和歌、漢詩は多く残した。俳句もある。しかし、その生涯は詳らかではない。

良寛は、庄屋の長男。家督を継ぐ身だったのにもかかわらず、出家し、寺に入る。庄屋同士の確執と実家の没落、父の死、栄蔵の性格など、栄えた港町出雲崎を時代の背景とともに語る。

実家の檀家は、出雲崎の真言宗円明院だが、光照寺は曹洞宗であった1779安永8年、光照寺に西国備中玉島円通寺の国仙和尚が滞留する。その国仙が玉島へ帰るのに、良寛は弟子として随行する。22歳の時だ。しかし、倉敷市玉島の円通寺に国仙、良寛の資料はないという。うららかな瀬戸内の町で、良寛は12年の修行の歳月を過ごす。ここで良寛は変わったと水上はいう。
この国仙の死をきっかけに良寛は円通寺を出て、放浪の旅に出る。




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孤独な噴水 吉村 昭 52

2019-03-10 | 吉村 昭
初の長編小説「孤独な噴水」 吉村 昭

常見耕二は21歳。おもちゃ工場で働いている。
凶暴な父や、障がいを持つ姉、夜間高校へ通う弟。ガード下の一間のアパートで暮らしながら、ボクシングジムへ通い、この生活からの脱却を夢見ている。

恋人の強奪や病に倒れた母親の登場。ジムのファイトマネー問題や、さまざまな理由で挫折し拳闘の世界を去る先輩たちなど。戦歴を重ね、夢の実現に一歩一歩近づく一方で、襲い掛かる難題。

この「孤独な噴水」は、昭和39年(1964)、吉村昭が37歳の時の作品。次の長編は昭和41年(1966)の「戦艦武蔵」である。若さ溢れる文体が読み手をぐいぐいと引っ張る。また、このころよく見ていたというボクシング界を、綿密な取材できちんと構築するあたりはさすが。

この頃の吉村は、1959年、62年と4回の芥川賞にノミネートされながら、受賞を逃し、次兄の営む繊維会社に勤めていたという。そこで、出版社から初めての長編小説のお誘いがあり、半年で書き上げた作品。
平成7年(1995)に文庫化するにあたり、あとがきの中で吉村は、若かりし頃のこの作風を、衒気(げんき)と表現し、自分をよく見せかけようとする気持ちがあり、気恥ずかしさを覚えたと表している。

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真空管アンプ LUX 

2019-03-03 | audio
音楽雑誌「Stereo」は、これまで、さまざまなオーデオの楽しみを提供してくれている。

2012年1月号では,ラックスマンのアンプLXA-OT1。2012年の月刊誌『ステレオ』8月号では、デンマークの手作りブランド「スキャンピーク」10センチのスピーカーユニット(組み合わせ用)がペア。そして、2012年8月発売の「STEREO」編の「スピーカー工作の基本&実例集」では、この10センチスピーカーで作れるキット。そして、2014年ステレオ1月号では、ラックスマンのアンプLXA-OT3。これらは今でも台所や脱衣場などで、短時間だが居心地のよい空間を提供してくれている。

そして、今回は、2019年1月の「ontomo mook Stereo編」で、「朗音 真空管アンプの愉悦」の付録でラックスマンの真空管アンプが付いているという。定価16,200円。早速、購入した。


キットを組み立てる。基盤はすでに製作されていて、行うのは、真空管をはめるのと、ドライバーでねじ止めを行い、組み立てるという、いたってシンプルな工程でした。






底面



早速、真空管ハイブリッド・プリメインアンプLXV-OT7を聞く。気に入ったのは、フロントパネルのガラスだ。

真空管のほのかなオレンジ色の明かりが見え、基盤のラックスマンのLのロゴも見える。心憎いデザイン。また、楽しみな時間がいただける。

ついでに、ontomo shopで無垢材のウッドケースを注文した。商売上手です。

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