パンダ イン・マイ・ライフ

ようこそ panda in my lifeの部屋へ。
音楽と本、そしてちょっとグルメなナチュラルエッセイ

今だから「方丈記」 5 蜂飼「光文社」

2019-11-24 | book
近年古典新訳文庫を出版している光文社。2018年9月に詩人で作家、1974年、昭和49年生まれの蜂飼 耳が訳した「方丈記」を紹介する。

方丈記の味わい深さと面白さを現代語訳で伝える。なので構成はまず、現代語訳が来る。そして、蜂飼のエッセイ、そして原典だ。平安京や京都の図版、方丈の庵の想像図や年譜も。京都の関係図は山脈がきれいに出ているので見やすい。あくまでも方丈記の世界に触れてもらうことが第一義。

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蓮如 五帖御文

2019-11-23 | book
蓮如の御文の中で、孫の円如が選び、5帖に編集したのが80通の帖内御文。その大意と本文、現代語訳の3つで表したのが「現代の聖典 蓮如 五帖御文」だ。1993年平成5年5月1刷。手元には2015年へ平成27年3月第11刷がある。平成10年、1998年平成10年の蓮如没後500年を機に出された。

1帖から4帖までは年月日順に配置され、5帖は年月日不詳のものを収録している。1帖15通、2帖15通、3帖13通、4帖15通、5帖22通からなる。1帖1通が1471年57歳に書かれ、1475年61歳の3帖10通まで、越前吉崎(福井県)で書かれている。そして、吉崎を去り、若狭小浜から丹波、摂津、そして河内の出口へ。3帖11通から4帖4通まで、1475年61歳から1477年63歳まで。4帖5通から4帖9通まで、1482年68歳から1492年78歳を山城山科で。4帖10通から15通まで、1497年83歳1498年84歳を大阪石山で記載している。

43歳までの部屋住みの苦労、下積みの研鑽を経て、一気に花咲、手紙を片手にわかりやすく、証拠として残る活動をした蓮如。息の長い蓮如の功徳が偲ばれる。

本文は漢字とかなで表され、漢字にはカナが付されている。巻末には蓮如の年表、御文の記載年も。
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蓮如文集

2019-11-17 | book
浄土真宗の中興の祖、第8代門主の蓮如が、書いた手紙を真宗大谷派では御文(おふみ)、浄土真宗本願寺派では御文章(ごぶんしょう)という。
この蓮如は、1400年代の室町時代を生きた。1415~1499年だ。1443年、義政が将軍に。1467年に応仁の乱。1488年が加賀の一向一揆。

日本の歴史学者で、日本中世宗教史が専門の笠原一男(1916年6月2日 - 2006年8月19日)が、校注した「蓮如文集」は、父に続いて、2004年、平成16年、その年の年末に亡くなった叔父の葬式に、年明け早々出かける途中に、上野に立ち寄り購入した。1985年1刷で、手元にある本は2003年第11刷だ。

蓮如の孫の円如が選び、5帖に編集したのが80通の帖内御文。笠原は、帖内御文のうち、40通、140通を超える帖外御文の中で38通の計78通を選んだ。1461年蓮如47歳から、亡くなる1年前の1498年蓮如84歳までの御文と年不明、年月不明を収録している。

笠原は、御文を「御文の中に蓮如の全思想が込められている。真宗の開祖親鸞の教学は、この御文に集結されている。浄土教の神髄がこの御文に象徴されている。蓮如は自信をもって真宗教学は御文よって完成されたといっている」という。また、蓮如は、御文を「形をみれば法然、詞(ことば)を聞けば、弥陀の直説」といい、「御文を聞いて真宗の教えが理解できないものは、前世の宿善がない人だ」といい、「聖教は意味の取り違いがあり、理解できないところもあるが、御文の意味の取り違いはあり得ない」とも。であるから、この御文で京・田舎、すべての門徒の教化は何の心配もなく進めることができた。笠原は「蓮如の御文は、愚かなものにたやすく、即座に、真宗の教えを理解させるためのものであった」という。

そのために、蓮如が、43歳までの部屋住み時代に蓄積した、費やした、親鸞教学を理解し、選び、表現する努力は生半可なものではなかった。
その頃、寂れ切った、京の大谷本願寺。その日の食にも欠くどん底の日々の中、蓮如は、この御文で活発な布教活動を行う。京都を中心とした近江、北陸、近畿の諸国である。

ゆっくりと声に出して読んでみる。漢字には必要に応じてフリガナがふってあり、単語には脚注もある。多くの単語の意味が記載され、真宗の意を今に伝える。浄土真宗のいわれ、「略して真宗と云うべし」と延暦2年、1490年、蓮如76歳の帖外御文(60)にあるなど興味深い。
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正岡子規の世界

2019-11-10 | book
令和元年の一つの出会いが、正岡子規だ。

正岡子規といえば、俳句。としか漠然と印象のない私にとって、家にあった子規の本は、岩波文庫の創刊70年記念の特装版、1997年、平成9年、2月の第1刷の「子規句集」のみだった。そんな子規の本「病牀六尺」が、令和元年10月の新聞書評で紹介されていた。

題名の通り、病床にあった子規が、座ることもできなくなり、布団の中から、見たこと、聞いたこと、食べたこと、考えたことを、ただただ、文章にしていく。解説者は、子規の功績を、短歌・俳句の改革者、文学としての領域に位置付けたのだが、近代文学史の視点から子規の功績は、この「写生文」の発見と完成にあったともいう。

「病牀六尺」が図書館にあったので、借りた。まず、解説を読む。新聞に掲載された随筆集。晩年も晩年、死の2日前までの記事127個である。子規は、明治元年1868年の前年1865年10月に生まれた。つまり満年齢が、元号と一致する。亡くなったのが、明治35年(1902)9月19日。誕生月の前月なので34歳だった。

文体は、難しい。しかし、その自由で赤裸々な内容に惹かれた。

調べれば、岩波文庫に子規の随筆もあり、岩波新書にもある。つい先年、2015年、平成27年は生誕150年だった。

子規の世界を読み進むことにした。


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プラモの世界(11)徳川家康

2019-11-04 | life
童友社のプラモ。「徳川家康の兜・鎧・大袖付」だ。「南蛮鉢歯朶(シダ)の鎧」とある。


確かに、現在久能山東照宮に納められている甲冑が、重要文化財「伊予札黒糸威胴丸具足(歯朶具足)」といわれるものがある。兜の前に立てる前立(まえたて)が植物のシダの葉の形であることから「歯朶具足」とも呼ばれている。家康が天下分け目の決戦、関ヶ原の戦いと豊臣家を滅ぼした大坂の陣に携行し、見事勝利を収めたことから徳川家"吉祥の具足"として、大切にされてきた特別なものだといわれている。しかし、童友社のプラモはこれと異なる。義家、義経と同様の金型で兜、袖や胴、モモを覆う草摺とし、兜の前立てを歯朶の葉の形にしたものだ。


南北朝から室町期は、山城が多く築かれ、局地戦や城攻めが主となる。馬上での動きとは異なり、足の動きが自由で軽便な胴丸が採用される。そして、戦国時代になると、個人戦から集団戦へと移り、武器も特に槍が主要となり、さらに鉄砲の出番となる。小型化といった実用性重視の流れだ。


さらに江戸初期には鉄砲の進化により、鉄の地を厚くする改良が加えられる。江戸中期には、美術工芸品といった趣も出てくる。

童友社の甲冑シリーズで、織田信長や徳川家康、伊達正宗、直江兼続といったモデルは、兜は往時のものだが、胴や袖、モモを覆う草摺は平安鎌倉期の八幡太郎義家、義経などの型を使っているので、童友社ファンには不評だ。


その点、南北朝室町時代の春日大社所蔵国宝の「赤絲威竹に雀虎金物鎧」、そして兜の立物はいかがと思うが、安土桃山時代の東京国立博物館所蔵の「金小札色々威片肌脱二枚胴具足(伝加藤清正)」は、それなりに忠実に伝えており、さすが下町の技術の高さと言えよう。
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破船 吉村 昭 60

2019-11-03 | 吉村 昭
民俗の香り 「破船」 吉村 昭

3年の年季奉公が明ければ父が帰ってくる。小さな港町。17軒の極貧の村に暮らす9歳の伊作を通し人々の暮らしを描く。
鰯、蛸、烏賊、秋刀魚と季節の魚を採り、自然の恵みに暮らしの糧を得る村人。
常に死と隣り合わせの毎日の中で、冬、時化のとき夜行う塩焼きは穀物交換のための塩を得るため、海岸で火を焚く行事であった。しかし、一方、その火をめがけやって来る船を座礁させ、荷を奪い取る慶事「お船様」を待つ手段でもあった。
しかし、これが村を震撼とさせる凶事となる。
息を潜めるように慣習に固執し、共同体としての暮らしを営む人々。
私小説や随筆、歴史小説とは異なり、新境地を開拓した異色の民俗小説。昭和57年(1982)刊行。
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