酷熱の日、暑さしのぎを兼ねて映画を見に行く。かねてから見たいと思っていた作品である。題名は『イミテーション・ゲーム』。これだけでは、作品の内容は推測しがたい。話題になってから時間も経ち、多分、空いているだろうと、やや高をくくって出かけた。ところが、予想が外れる。切符売り場には長い列が出来ており、なんとか入れた館内もかなり混んでいた。単なる暑さしのぎの客ばかりではないことはすぐに分かった。この難しい?映画を見たいと思っている人たちが多数いることに気づいた。さすがIT時代、情報の伝達の速さに驚くとともに、こうした水準の高い作品への知的好奇心の集中は喜ばしいことである
映画は、「エニグマ」とイギリス人天才数学者の公私にわたる秘密を描いた作品だ。2015年アカデミー賞脚色賞を受賞している。そのほかでも、ゴールデングローブ賞で5部門ノミネートなどを受賞しているようだ。「エニグマ」とは、1920年代初期にドイツで開発された暗号機械のことであり、第二次世界大戦中ドイツ軍や枢軸国軍に幅広く使用された。
ある思い出
映画の筋書きは他にまかせるとして、この映画の背景には、かなり以前からさまざまな興味を抱いていた。記せばきりがないのだが、ひとつはイギリス人のパズル好きとのつながりだ。発端はもう半世紀前にさかのぼる。当時、旅の途上で滞在していたロンドンのホテルのカフェで、たまたま隣に座って新聞を読んでいた自分よりはかなり年配に見えたご婦人から、これ分かりますかと聞かれたことがあった。彼女の手にした新聞に掲載されていたクロスワードパズルのある項目だった。多分、日本か中国に関連するキーであり、彼女はそこで苦労していたようだ。なんのキーであったかは、まったく覚えていないが、なんとか答えられたようだ。彼女は大変喜んで、お茶をご馳走してくれた。
小さな出来事であったが、この時の印象は強く、それ以後多少注意していると、イギリス人がこのゲームをことのほか好んでいることに気づいた。後年、ケンブリッジに滞在するようになってからは、さらに強く感じるようになった。隣家の奥さんも大変なクロスワード好きなようで、暖かな日の昼下がりなどに、バックヤードでクロスワードを解いているのをしばしば見かけたことがあった。
天才はひとりで走る時、最も早く走る
映画の主人公となるのは、アラン・チューリング(Alan Mathison Turing, 1912-1954)なる実在の人物である。スマートフォン時代の今、コンピューターの淵源をたどると、アメリカのENIACを思い浮かべてしまいがちだが、実はイギリスにあった。チューリングは第二次世界大戦中、解読不能とドイツ軍が考えていた暗号に、驚異的な頭脳で対抗し、戦争終結とコンピュータ開発に貢献した。最近、日本の外交上の暗号はアメリカ側に筒抜けとかいう話が新聞種になっていたが、実際どうなっているのかと思ってしまう。
ドイツ軍のエニグマ設定の可能性の数は文字通り天文学的数字であり、その全設定を 試すには、10人のティームが毎日24時間かけても2000万年を要し、しかもドイツ軍は毎日午前零時に設定を変えてしまうとされていた。画面に登場する暗号解読器は見るからに時代がかっていて、これで対抗できるのかと思わせるが、チューリングという天才の頭脳は機械を上回る速度で回転していたようだ。この希有な天才チューリングには他人の速度に合わせて仕事をしていることは耐えがたかった。
「天才はひとりで走る時最も早く走る」といったのは、確か経済学者シュンペーターであったと思うが、世界一の数学者をもって自負するチューリングも、グループ作業は苦手であり、日常行動はかなりエクセントリックでもある。要するに、同僚の思考ペースでは遅すぎるのだ。結局、グループでの作業ではいらいらして、マイペース、自己中心的になる。こうした天才を抱えているメンバーも、それが分からず衝突する。
厳しい天才の人生
実際、チューリングにはいわゆる世渡り上手はなく、波風立たない生活は難しかった。 彼にはその生涯で普通の家庭生活は訪れなかったらしい。チューリングはインド生まれと記した文献もあるようだが、実際には両親は上流階級であり、父親は当時イギリス領であったインド帝国に赴任していた高等文官だった。母親の妊娠とともに、子供の将来を考えてイギリスに帰国、ロンドンで出生している。しかし、両親はイギリスとインドを往復する生活を続けたため、アランと兄のジョンはイギリスにいる友人に預けられていた。それにもかかわらず、幼少期から数学、科学などに抜群の才能を見せたという。
その後、チューリングは「天才」とはこういうものか、と思わせるような人知の限りとも思えるような高度な才能を発揮した。この映画を少し深く理解して楽しむには、第二次大戦の「エニグマ」問題の重要性、イギリス社会の実態などについて、ある程度下調べなどをして見た方が一段と興味深いかもしれない。 それは、チューリングの個人的問題についてもいえる。
この天才には、当時の社会環境において、絶対に彼自身だけに秘めておかねばない秘密があった(チューリングは当時社会的に表ざたにはなしえなかったゲイであったらしい)。1954年6月7日に、しばしば「白雪姫と林檎の話」に暗喩されるような形で、世を去っている。この問題の展開と顛末については、後年2009年ゴードン・ブラウン首相が政府として正式な謝罪を表明、2013年末にはエリザベス女王の名で正式恩赦が発効した。さらに最近では2012年にキャメロン首相が、チューリングの功績を称える声明を発表したことも知られている。映画の題名『イミテーション・ゲーム』の謎(パズル)は解けただろうか。
★この映画でアラン・チューリングを演じるのは、人気男優ベネディクト・カンバーバッチ Benedict Cumberbatch, そして女性の数学者でクロスワード・パズルの天才といわれたジョーン・クラークを演じるのは、キーラ・ナイトレイ Keira Knightley (『ベッカムに恋して』(2002) で映画批評家協会賞英国新人賞受賞)。さらに、チェスの英国チャンピオンとなったヒュー・アレグザンダーをマシュー・グート Matthew Goode が演じている。こうした主要配役の教育歴を見ると、子役の時からTVドラマや映画に出演(キーラ・ナイトレイ)しているか、著名な大学で演劇を専攻していることが分かり、俳優の世界も幼児からの教育や高学歴化が必要なのかと考えさせられる。