時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

​今では考えられない旅のひとコマ

2020年07月31日 | 午後のティールーム


アンジェ城城門          Photo:yk
(端末入力不具合のため、2020/07/31修正加筆)

アンジェ城城壁          Photo:yk


発行されたばかりの美術誌を見ていると、巻頭に「いつか行ける日のためにとてつもない絵」という特集があり、その最初に「超巨大タピストリー《アンジェの黙示録》という記事が掲載されているのが目に止まった。実はこの作品があるフランス西部の城郭都市アンジェ Angers は2度も訪れていた。

「いつか行ける日のために:とてつもない絵」『芸術新潮』2020年8月



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NB.
この驚くべきタピストリーは、1373年から10年をかけて制作され、完成当時オリジナルは7枚、高さ6m、長さ133m(107.5mが現存)もあったとされる。アンジェはフランス屈指の城郭都市としてのイメージが強い。中心となるアンジェ城は3世紀の終わり、ガロ・ロマン時代から城塞都市として存在したが、1232~1240年頃にSaint Louis (聖王ルイ9世)が大規模な工事を実施、3m の壁の厚みを持つ17の円筒形で、延長952m、面積25,000平方メートル を占める城郭として整備された。見るからにとりつくところがなく、難攻不落の要塞風に見える。16世紀終わり頃、ヘンリ3世の時にさらに強固な城郭に改築された。堅固な城塞の中身は、見事な庭園もあり、美しく整備されていた。
城内には15-16世紀時代のタピストリーのコレクションが多数あり、とりわけ『黙示録のギャラリー』は中世期最大の作品として今日まで継承されている。
『黙示録のタペストリー』(フランス語”Tenture de l’Apocalypse ”あるいは英語の” Apocalypse Tapestry ”)は、アンジュー公ルイ1世の命で描かれたヨハネの黙示録をテーマにしたタペストリーで、1370年代、フランドルの画家ヤン・ボンドル(”Jan Bondol”)が描いた絵を、織師ニコラス・バタイユ(”Nicolas Bataille”)が多数の織工を使って1373年から1377年、そして1382年までかけてタペストリーに編まれたと推定されている。
タペストリーは幅約6メートル、高さ約24メートル。六つの部分に分けられ、90の異なる場面から成っていた。1480年、最後のアンジュー公となったルネが死の直前アンジェ大聖堂に寄贈し、以後同聖堂で保管されていたが、18世紀末、フランス革命によって略奪、破壊され、タペストリーも切り刻まれて多くが失われた。その後1848年、散逸していたタペストリーが集められ、1870年、大聖堂に戻される。1954年には城内に移され、1910年にはかつての司教館はタペストリー・ミュージアムに改築され、大幅な修復作業を経て、現在は城内で展示されている。2016年より劣化修復作業が進められてきた。

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筆者の記憶に新しいのは、1997年3月、この地に所在する歴史の長い西部カトリック大学 Université Catholique de l’Ouestと、ブログ筆者が勤務していた大学との学術交流の締結のために、代表者として赴いた時であった。協定の調印や地元紙記者などのインタビューが滞りなく終わった翌日、大学の関係者が案内してくれたのが、アンジェ城内のタピストリー博物館に展示されている『黙示録のタピストリー』であった。すべてが損傷されることなく展示されれば、高さ6m近く、全長140m近い驚嘆すべき一大作品である。14世紀アンジュ公のルイ1世がスポンサーとなり、パリで制作されたといわれている。

2度目の対面であったが、改めてその巨大さと費やされた労力、年月に目を奪われた。長年風雪に耐え、革命期にはオレンジの木の保護などに使われたらしい。今日では保存のために展示室内の気温、照明、湿度などが適切に維持されるように配慮されている(一部は金庫などに保存されている)。さすがに一部には年月の経過による退色、歴史の過程における粗雑な取り扱いによる劣化などは避けがたいものの、全体としてその偉容を十分とどめている。最初に接した時、その巨大さと迫力に唖然とし、圧倒された。

乗り違えた飛行機
実はアンジェへたどり着くまでの旅が通常ではなかった。協定の調印式の日程に合わせて、航空券などの手配を大学出入りの旅行代理店に依頼していたのだが、それまでの仕事が山積して極めて忙しく、出発当日に旅券、航空券など一式を秘書から受け取って文字通り飛行機に飛び乗った。それまでかなり頻繁に空の旅をしていたので、空港で航空券を受け取ることなどもあり、あまり考えることなくそのまま機内に入り着席していた。

飛行機が離陸してしばらくして、ふと妙なことに気づいた。目にする客室乗務員 CAの多くは日本人だったが、しばらくして、赤い制服の乗務員がいるのに気がついた。そればかりでなく機内アナウンスが日本語、ドイツ語、英語で行われていた。離陸後どうも変だと気づき、手元の航空券を見ると、なんと全日空とオーストリア航空の共同運行便だった。しかも成田、パリの直行便を依頼してあったとすっかり思い込んでいたのが誤りで、成田→ウイーン→パリという便だった。今さら乗り換えるわけにも行かず、そのままウイーンの空港で3~4時間を過ごし、パリに行き、翌朝急行列車でアンジェに向かい、滞りなく学術協定調印式などの仕事を済ませた。帰国後判明したのだが、旅行代理店の手違いによる発券ミスだった。その後は航空券の記載にかなり注意するようになった。


アンジェには不思議な縁があり、1970年代パリに滞在していた頃、現地に赴任していた友人と今はほとんど見ることはないシトロエン2CV(「ドゥ・シ・ヴォ」と呼ばれていた)を駆って出かけたことがあった。日本に赴任しているカトリック司祭の家族を訪ねることがひとつの目的だった。仕事を終わってから空いていると思った夜中に運転し、朝方にアンジェに着く予定だった。しかし、混雑するハイウエイを避けたこともあって、照明の薄暗い田舎道を走っているうちに二人とも眠くなり、ついに路肩に車を止めて3~4時間仮眠をとり、朝方にやっとアンジュに到着したことがあった。あの筒状の黒々とした異様な城塞が朝靄の中に浮かび出てきたことを思い出す。タピストリーにも圧倒されたが、作品の詳細についての知識が十分整っていなかった。

おおらかだった時代
航空券にまつわる出来事は、これまで数々経験してきた。時に想像外のことも起きる。そのひとつ、1967年ニューヨークからパリへ飛んだ時であった。パリ到着後、判明したことはその後ロンドン経由で羽田(成田は開港していなかった)へ向かう便が、なんと羽田→ロンドンと逆向きに発券されていたのだった。およそ考えられないミスであった。PC処理が十分に発達していない時代であったとはいえ、お粗末な事務処理であった。大変恐縮した航空会社は、ロンドンでの高級ホテルと上限の記載なしの食事券を手配してくれ、貧乏学生だった筆者は思いがけずロンドン滞在のボーナスをもらい、大変得をしたような思いをしたことがあった。

この頃は航空機の旅をする人は、未だ比較的稀であったこともあり、航空機のスケジュールが規定を超えて遅れたりすると、適切な便も少なかったこともあり、次の便までのホテル宿泊、食事の手配などを準備してくれた。航空会社の小型バックなどのアメニティ・グッズや免税の酒・たばこ類をお土産に頼まれたことはしばしばだった。

当時はロンドン、東京間は直行便がなく、モスクワ(シェレメチェボ空港)経由か南回りであった。東京・ニューヨーク間もアンカレッジかホノルル経由であった。今昔の感ひとしおである。

さて、『アンジェの黙示録』についても、さらに書くべきことはあるのだが、すでに冗文が長くなってしまった。時が許せば、記すことにしたい。






台湾李登輝元総統のご逝去を知った。人生とは不思議なもので、筆者とは一世代以上離れているが、若き日同じキャンパスの上で偶然出会い、短い時間ながらもお話を伺ったことがあった。謹んで心からの哀悼の意を表したい。

コメント
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