時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

絵の裏が面白いラ・トゥール(3):才能を発掘した人々

2018年11月05日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 

今日のヴィック=シュル=セイユ遠望


才能を誰が見出したのか
ラ・トゥールの父親ジャンはヴィックのパン屋だった。当時の状況からすれば、長男あるいは次男が家業を継ぐものと思われていた。パン屋は決して裕福な収入のある職業ではないが、誰にとっても必要な職業だった。ジャンはかなり商才にもたけ、ヴィックの町でも良く知られた人物だった。しかし、息子のジョルジュが画家になりたいと言い出した時には、困惑したはずである。彼は息子の画家としての才能を評価することはできなかった。それでは誰が未だ少年であったジョルジュの天賦の才に気づいたのだろうか。

その点に関する史料の類は何も発見されていない。わずかに、ジャックの手になるものではないかと考えられるデッサンが3枚残っている。しかし、サインも年記もなく、年とった男や若い女性を描いたデッサンの髭や髪の毛の描写が、後年のラ・トゥールの油彩画に示される繊細な筆致に似ていること、使われている紙の産地がヴィックに近い所であること、などから同じ画家の作品ではないかと推定されることだけである。

ジョルジュがヴィックに生まれたことを示す洗礼記録がある。1593年3月14日、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの洗礼記録が残っている。その後、長い史料上の空白があり、次に現れるのは1616年10月20日、ヴィックで友人の娘の洗礼代父を務めたという記録が残っている。ジョルジュは23歳であった。それまでの23年間、この若者はどこで何をしていたのだろうか。美術史家、研究者たちはエキサイトし、未発見の記録を求めて、ロレーヌの文書館や教会に残る埃にまみれた古文書の探索に没入した。いくつかの新しい発見もあった。その状況はこうした人々のエッセイやヴィデオに残っている。1613年、パリで親方になっていたとの短い記録も発見されているが、それを立証する記録は未発見である。ブログ筆者はこれまで世界の美術史家が未だ指摘していないひとつの推理を提示している。少なくもこの遍歴時代には、ジョルジュは短期のイタリア旅行を試みたかもしれないが、工房に入るなどの画業修業はしていないという推理である。その要点はブログにも簡単に記したことがある。

この空白期における興味ふかい問題のひとつは、ジョルジュの秘めたる才能を誰が最初に見出したのだろうかという点である。ロレーヌの小さな町のパン屋の息子の画才の芽生えに気づき、それを育てる上で力となったのは誰だろうか。父親である息子の隠れた画才に気づくだけの能力があったとは到底思えない。この点もブログ筆者はひとつの仮説を持っているが、今日はこのくらいにしておきたい。


続く

コメント
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