<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

脇道に逸れるわたしの随筆

2016年12月04日 10時14分30秒 | Weblog

1)随筆は筆に随うもののようだ。だから筆の進むあとに随っていれば自ずといい作品になるはずである。筆は指が握っているだけ。倒れないようにしているだけ。筆は天啓を得て滑り始める。

2)天が人間に示すのが天啓、天の啓示である。天が人を導いてくれる。筆のなすところではなく、この位置に人がしゃしゃり出てくると、あっさりとはいかなくなる。味が濃くなってしまう。これ見よがしになってしまう。「どうだ、俺の方がうまいだろう」を主張する麹菌が発酵して臭くなる。

3)筆に天の啓示が降りて来るまで待つ。じっと待つ。降りて来るまではじっとして待つ。するとやがてしてするすると降りて来るのを感じる。「おお、やっとおいでなさったようだ」と実感がする。すると寝ていた筆が立つ。動き始める。

4)さぶろうの場合はそれを肩に感じる。クレヨン水彩で仏画を描こうとするときである。天の意思はさぶろうの肩がお好きらしい。それが腕に下り手首に進み指に力が籠もる。天には天を流れている潮流のようなものがあって、それにこちらの波動が触れるとそこで接触渦が生まれて、その直下で引き込み線が通るのかもしれない。

5)天地宇宙にはもともとエネルギーが満ち満ちているのだ。凄まじいほどのエネルギーなのだ。大空を何処まで登って行っても変わりはない。地下を何処まで下りて行っても同じだ。そのエネルギーはそこそこで満を持しているので、これにぶつかるとすぐにも弾けて、一挙に活動を開始するのだ。

6)エネルギーには意識があって、意図があって、意向があって、そのどれもが役立ちたくてたまらないらしい。エネルギーはそれでますます膨張する。嬉しくってそわそわ浮き浮きし出す。両手でしっかり捕まえておかないと擦り抜けていってもう見つからないということも起きる。

7)筆がそれを追いかける。作品がそれに従う。文ができる。絵が出来る。彫刻ができる。建築がそそり立つ。都会が誕生する。都会に音楽が響き出す。哲学が歩き出す。宗教が塔を建てる。

8)そうだった、随筆の話だった。すぐに脇道へ逸れてしまう。注意が散漫なのだ。元に戻そう。あっさりしたものが随筆だった。高菜の一夜漬けはあっさりしている。あんまりあっさりしているから、醤油をまぶさねばならない。これを白ご飯にのせるだけで食が進む。随筆もこうでなくちゃならない。

9)エネルギーが満ちている。これはいい。これをわざわざ自己所有することはないはずだ。自己所有して自己の自慢することもなさそうだ。所有したところで元を質していけばそれは天地宇宙のエネルギーなのだ。それを信じない? 信じないと言っても、毎秒毎秒吸って吐いているではないか。空気は宇宙のエネルギーである。

10)吸って吐いている呼吸だけではないのだ。ありとあらゆるものがそうなのだ。宇宙エネルギーの配信、配慮、配当なのだ。それを掬い取って形にしようとするのが芸術だが、絵でも文でも音楽でも彫刻でも、わざわざそうすることもないのだ。そこにそれを見て、静かにそこにそれを聴いていればすむことなのだ。

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