<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

放蕩を尽くした滝水も冬には涸れる。

2023年12月12日 17時31分42秒 | Weblog

放蕩を尽くしし滝の涸れにけり

大串 章

水が涸れるのは冬。冬場になるにつれて水量が減って来る。五月6月、7月8月、あれほど荒野を駆け巡って放蕩を尽くした大滝も、時が廻って来て、かっての勢いを失って、やがて山奥で静まりかえる。雪が降る。氷柱が下がる。

なら、やはり、放蕩を尽くせるときには放蕩を尽くしておくべきだ。常軌を逸しておくべきだ。跳ねっ返りをしておくべきだ。・・・などと思う、放蕩もできなかったくせに。

この句の真骨頂は「放蕩」を「滝水」に掛け合わせ所にあるようだ。情景がこれで鮮明となった。

作者は1937年(昭和12年)佐賀県嬉野市生まれ。2017年より俳人協会会長。NHKの「俳句春秋」の選者を務めた。

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ラストに、ギブアップがある。

2023年12月12日 17時21分30秒 | Weblog

ふふんふん。ああだこうだと考える。考えるとそれが迷路になる。迷いが深くなる。

解決が見出せないなら、ギブアップがある。

きっと最後は、此に助けてもらうことになりそうだ。

ラストにギブアップがある。

これで判断徘徊停止になれる。無抵抗になれる。よかったと思う。

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これで終わりではないのだ。

2023年12月12日 17時00分21秒 | Weblog

病気になることは悪いことばかりではない。

病気は、人生を静かにおごそかに閉じていくためにスローダウンをして行く役割も担っていてくれている。

そういう役割を帯びている病気を、発達を遂げた近代現代医療がことごとく治癒してくれるものだから、苦しい悲しい下り坂がいきおい長く長くなってしまう。そういうところもあるようだ。

病気はあんがい大慈悲心の発露であるかもしれないのだが、われわれにはそれがそうとは受け取れない。

痛み苦しみから逃れるためには、すぐもも病院に駆け込まねばならない。高度に発達した医療の世話を受けねばならなくなる。

人が、だんだんだんだん死ななくなっている。死は、疫病神扱いされて、遠くへ遠くへ追いやられてしまう傾向にあるが、疫病神ではあるまい。

老病死は、大慈悲心の具体化行動であるかもしれないのだが、それをわれわれは拒否し続けている。そういうところがある。

われわれは命の旅をしている。永遠の命の、永遠の旅をしている。一つの旅を終えてまた次の旅をスタートさせる。一つの旅が長くなると、次の旅の出発がそれだけ遅れてしまう。ということもありそうだ。

これで終わりではないのだ。一つの旅で命が完成を見ることはないのだ。幾つも幾つもの旅を遍歴しながら、われわれの生命はしだいしだいに輝きを増して行くのだ。

なかなか元気にならない。体力が回復しない。苦しい。もういい、と言いたくなっている。

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慚愧と歓喜が入れ混じる。

2023年12月12日 16時26分14秒 | Weblog

邪見憍慢悪衆生 じゃけんきょうまんなくしゅじょう

信楽受持甚以難 しんぎょうじゅじじんになん

難中之難無過斯 なんちゅうしなんむかし

浄土真宗経典「正信偈」より

邪見憍慢の悪衆生が 信楽して受持することは甚だ以て難し 難中の難にして 斯(これ)に過ぎたるは無し。

邪見のわたし、憍慢のわたし、悪衆生のわたしが、阿弥陀仏の説かれている真実の信心に辿り着いて、これをしっかり受け止めて、安らいだ暮らしを続けるということは、甚だ難しいことである。世の中にたんとある難事の中でも、信楽信心を得ることは、もっとも難しいことである。だが、念仏がこれを超えさせてくれる。すすすっと超えさせてくれる。

わたしが今日は、難事を百千万超えて、超えさせられて、念仏を唱えている。信楽に至らしめられている。

それでもわたしは邪見の悪衆生、憍慢の悪衆生である。そこまでしてもらっても、なおなおなお悪衆生のままの暮らしだ。

慚愧と歓喜が入れ混じる。歓喜と慚愧が混じり合う。

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お昼はコンビのサンドイッチ。

2023年12月12日 15時55分43秒 | Weblog

いちにち、大地を明るく耀かすほどの光は、射さなかった。曇っていた。午後4時の気温は15・6℃。寒く感じられる。

用が見つかって、佐賀市まで出掛けていった。

お昼は、コンビニのサンドイッチを買って食べた。5分割されていたが、そのうちの2分割は残してしまった。どうも食欲が戻らない。

咳止め薬は飲んでいるのに、咳が出る。咳が出ると胸が痛む。しょげる。なかなか厄介だ。

午後3時ごろには帰宅した。畑に出て、椅子に座って、寒さにめげずつんつんしている小葱を、片手に握られる分だけ摘んだ。これで気分が落ち着いた。

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煩悩のわたしの声が、仏の名を名指しして、呼んでいる。

2023年12月12日 11時29分11秒 | Weblog

雨は止んでいるものの、あいかわらず曇り。曇り空。冴えない。

み仏のみ名をとなふる我が声は わがこえなれどとうとかりけり  

甲斐和里子

阿弥陀仏とわたしが、わたしの声の中で、溶けて合体してしまうのである。あり得ないことが有り得てしまうのである。尊い。これは尊い。どうしようもなく尊い。わたしの声までが尊くなっている。

ツムラの漢方薬、麦門冬湯29を飲んだ。3g。まだ咳が出る。忘れかけていると、出る。ごほごほと出る。

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いつかどっかで会ってみたいな。

2023年12月12日 10時47分02秒 | Weblog

星見えぬ目となりたれど嘆くまい何時も心に映るオリオン

吉野ヶ里町 田中章子さん

これは12月9日付け、佐賀新聞読者文芸短歌欄に掲載された入選の作品。

高校時代の同級生がさっき我が家に遣って来た。そして彼女のことが話題になった。作者田中章子さんも、われらの同級生らしい。知らなかった。ときおり入選されてる方らしい。僕はなんでも疎い。一読して、いい作品だなあと思った。

目が悪くなられたのだろうか? 夜空の星が見えないだけなのだろうか? ともあれ、老いたら視力が落ちる。がくんと落ちる。

それを「嘆くまい」で切り返して、すっきりしておられるようだ。目が見えない分、こころにオリオンが映っている。映っているオリオンの美しい光。永遠を手に入れている目を持つ人になっていれば、安らげるだろう。

いつかどこかで会ってみたいな。高校時代3年間を同じ校舎で過ごしているから、仲間といえば仲間。あれから60年が過ぎ去っているのだが。

 

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黒い上等靴下を履いて旅を続けました。

2023年12月12日 06時52分17秒 | Weblog

旅行中の4日間とも、いただいた上等の黒い靴下を履いて旅をしました。有り難うございました。薬用効果ありで、履き心地満点でした。少々日が経ちましたが、お礼を申し上げます。

わたしの左足は麻痺の足。足指が動かせません。親指と次の指が癒着して痛んでいましたが、この靴下を履いて改善しました。

コメント (2)
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