<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

またもや渋柿を買ってきて干し柿作り

2016年12月03日 21時13分39秒 | Weblog

店に立ち寄ったら上等のでかい渋柿を見つけた。でかい。頗る上等だ。富士柿のように尖っている。1袋1600円。20個ほど入っている。これを2袋も買ってしまった。いい干し柿が作れそうだ。勘が働く。それで昼過ぎからは皮剥きにかかった。紐に結んで2階のベランダに吊した。根気を要した。やっと終わった。手が渋でねばねばつるつるする。これだったら、しかし、人様に喜んでもらえる出来上がりになれるだろう。しばらくは寒が強くなければならない。気温が高くなれば黴が生えてしまう。

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二つが列ばないと一つにもなれない

2016年12月03日 11時34分19秒 | Weblog

おんなのひとは/おとこのひとがいて/はじめて/おんなのひとになることができる/二つがならばないと/一つにもなれないのだ

おとこの僕は/おんなのひとがいて/はじめて/おとこの僕になることができるようだ/ふたつが列ばないと/一つにもなれないのだ

一つにもなれないのは/かなしい/とおんなのひとが言う/そこではじめて/彼がかなしくさみしくなるのだ/そうならないと/おんなのひとをほしがる気にも/ならないのだ

透き通ったスレート屋根の上に/昼の太陽が来ている/そこだけが赤く焼けている/僕は赤い眼をして/それを見ている/その向こうには冬の大空/だだっ広い冬の空

詩を書いてみました。即興の。

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光の外に出る

2016年12月03日 11時16分55秒 | Weblog

ベートーヴェンの歌曲を聴いても聴いてもさみしい。蓮如聖人の「御文章」に触れてもさみしい。山頭火の「春風の蓑虫」を口ずさんでもさみしい。もう耐えられない。外に出る。光の外に出る。さぶろうという男はこんなふうだ。魂に纏っているのが安物の破れ着なのだ。隙間風に煽られて冷やされる。猫の隣に行ってしばらく日向ぼっこをするか。

 

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春風の蓑虫:山頭火に親しむ

2016年12月03日 11時02分32秒 | Weblog

春風の蓑虫ひょいとのぞいた       種田山頭火

蓑虫:ミノガ科の蛾の幼虫。樹木の枝や葉を糸で綴ってその家の中に住む。家が雨の日に着る蓑に似ているのでこの名がある。蓑袋の中で蛹化(さなぎか)する。ついで成虫のミノガとなる。この蓑袋が丈夫に出来ているので昔はこれで財布などをこしらえた。「鬼の捨て子」「鬼の子」の異称がある。枯れ葉が落ちた冬の木の枝にぶら下がって風に揺れている。だが、滅多なことではこれを発見は出来ない。山頭火にはこれが見えていたことになる。

春風が吹いて来るということは外の気温がそれだけ温かくなってきているというときだ。漂泊の旅を続けている山頭火も着膨れから解放されていたことだろう。身も心も軽くなっている。木下に座っていただいてきた握り飯を食べようとしていた時だ。ひょいと蓑虫の頭を見つけたのである。「おい、お前も春を迎えているのか。俺もだぞ。なんだ、同じ仲間同志だったのか」彼はそんなふうに話しかけた。ぶらんとぶら下がったまま寒い冬を耐えた者に話しかけて遣った。こうしていのちを生きる者、そこに親しみを湧かせたのである。

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三世を貫き通しているいのちがある

2016年12月03日 10時50分34秒 | Weblog

いのちは三世を貫き通しているので、現在世、過去世、未来世というふうに小分轄はできないのである。すべてを引っくるめて一世なのである。われわれは現在ただいまの此処を生きているきりである。三世は三際とも言う。前世、現世、後世の三際があると説くが、仏法を生きている者には一世しかない。すべては仏陀に導かれている世であって、仏一世である。

次へ次へと続いて行くのである。切れ目がないのである。死という切れ目があるように思えて来るが切れ目はないのである。次の朝へ次の朝へと明るい朝が続いて行くのである。

これは田舎老爺の、しかし、たわごとである。

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一生過ぎやすし:御文章の一端を拝読する

2016年12月03日 10時01分45秒 | Weblog

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。さればいまだ万歳の人身を受けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。     ・・・蓮如聖人御文章中「白骨の章」より抜粋・・・

今朝のさぶろうは御文章を拝読した。其の中の一部分を、味わってみる。何処も此処も味わい深いが、そんなにたくさんは味わいきれない。ほんの少しで満腹する。魂の胃袋が小さいのだ。

浮生:もともとは漢語。「ふしょう」とも「ふせい」とも読む。無常にして憂きことの多い浮世のことだ。

生き辛い世を生きていくのがわれわれ人間の相である。すべてが儚(はかな)い。一幕一場のあっけない夢を見ているようである。しかも水に浮いている浮き草のようにして根拠がない。そして一期が来る。

一期:一生。一生涯。生まれてから死ぬまでの一括り。またその締め括りの臨終のその時をも指す。閑吟集には「一期は夢よ、ただ狂へ」とある。人は死ぬに及んで「一期の潅頂」をする。茶道にある「一期一会」は「一生」の意味で使われている。

一期が来れば遺体は燃やされて白骨となり灰となる。そしてやっと己の一生が幻(まぼろし)だったことが分かる。生まれてから死ぬまでずっと幻を生きていたことが分かる。

万歳の人身を生きることはできなかったのだが、この後がある。これで救われていくのだ。それを「後生の一大事」という。幻の冬の蛾の我が身が、仏の世界の真実身へと生まれ変わるのである。万歳を生きなくてよかったということも分かる。憂き世を離れて仏界の真実真如に出遭って行くのである。ここからが始まりだということに気がついて夢が覚める。ああ、よかったと思う。万歳を夢幻で過ごさずともすむのである。我が生きる根拠が見つかるのだ。そこに根を下ろすことができるのだ。

いのちは繋がっているのおである。三世を貫いているのである。真実に出遭う身は現世、過去世、未来世を一つの大きな道にしているのだ。幻の浮世、現世がここで価値を発揮することになる。それがあってこれがあったという事実に、われわれは驚嘆することになるのだ。

「無碍の一道」という語がある。無碍(むげ)とは、障碍(しょうがい)としないということである。浮世の幻ごとも障碍とはならないということである。それがあってこれがあって進んで行くのである。一本の道を仏陀へ仏陀へと近づいて行くのである。それをそうせしめるハタラキを念仏というので、「念仏は無碍の一道なり」としてある。

念仏は我をして無碍の一道を歩ましめる阿弥陀仏のハタラキ、エネルギーを我が身に受け取ることである。

今朝のさぶろうはそんなことこんなことを考えて落ち着いた。しかしこれはあくまでも自分流の解釈である。

一生過ぎ易し。もうすぐその一生がその最後の地点を過ぎて行く。真実身に変身して仏陀に遭うときが近い。

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外には元気活発な冬鳥

2016年12月03日 09時37分27秒 | Weblog

日が射してきた。そろそろ外に出てもいい。炬燵があたたかいとずっとここで過ごしていたくなるが、外には冬鳥が元気で飛び回り鳴いている。我が萎縮の小ささを冬鳥に笑われてしまいそうだ。ベートーヴェンの音楽が流れている。聞き耳を立てて静かに快楽を貪っているいるのも悪くないのだが。

 

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