<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

明日は濠干し 魚捕り

2016年10月15日 20時24分18秒 | Weblog

明日は我が聚落の濠干しである。夜明けを待って開始される。農業用の溜め池が濠になっている。濠は東西に分かれて二つある。どちらとも可成りの広さだ。中央はお宮への参道が通じていた。この濠の水は勢福寺城のあった城山(じょうやま)から流れて来ている。歴史的に要塞だったかもしれない。鮒や鯉が養殖されているので、2年を待って濠を干すと大型の魚が捕れるのである。これを聚落の男衆が捕獲して来る。もちろんこどもたちも参加する。大賑わいになる。公民館でこれを男衆が捌く。女衆がこれを料理する。鯉は洗いや鯉濃の味噌汁になり、鮒は煮物にされる。エビが沢山捕れるときにはエビの掻き揚げが作られる。餅を搗いて牡丹餅ができあがる。里芋を潰して「しろんたい」なる料理となる。聚落のみなが膳につく。酒盛りが始まる。今年は近くの西九州大学福祉科の学生さん方がボランテイアで参加することになっている。大勢の若い人を迎えてきっと酒盛りも盛会となるだろう。だが、残念なことに、わたしは川魚が苦手である。生臭くて箸が伸びていかない。だから、お皿に盛られた肴の竹輪、天麩羅、各種野菜料理しか食べられない。

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野葡萄が小さな実をつけていた

2016年10月15日 19時45分08秒 | Weblog

野葡萄が実をつけている。垣根に。小さい小さい葡萄だ。青い。熟して黒いのもある。小鳥が啄んで食べるには格好だろう。蔓草だから長く蔓を伸ばしている。繁茂しているから垣根の剪定をした。ツツジを取り巻いてしまっている野葡萄はこれを切り取ってしまった。葉っぱが葡萄酒を造る葡萄の葉にそっくりだっt。

 

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大人の童話「みみず」

2016年10月15日 16時00分32秒 | Weblog

大人の童話「みみず」

みみずは みずみずみずと鳴く お婆がそう言うが みみずは鳴かない 

土の中で鳴くのは これはオケラ みみずじゃない みみずは無駄口 叩かない

みみずくが みみずく ずくずくと鳴く 

だから「ずく」という呼び名もある

ふくろうに なっているときには ふうふくふうふく

みみずばれが こどもの腕を みみずみみずしながら 這っていく

でもそこに 赤いみみずがいるわけじゃない

みみず書きは 下手の書く文字 やだな こんなところに僕を登場させないでよ

みみずは みみの水飲み みみからみずを飲む みみからみずを出す 土の仙人 

今度見てて よおく見ててよ 今度見てて よおく見ててよ

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宇宙所有をしている燕氏に限って

2016年10月15日 15時01分15秒 | Weblog

宇宙所有をしている燕氏が、自己所有に拘るはずはありません。拘っているように見えているだけで、実は案外無頓着で、あっけらっかんとなさっているに違いありません。あの方は小さい場所がお好きではありません。いやいや、小さい場所をくさしているのではありません。もちろん彼はそこにも立ち寄ります。でもそこを安住、永住の地となさっているふうには見えません。彼は太っ腹。何処へでもすいすい出てしまわれます。放浪者です。というよりはみ出し者です。固定が苦手です。彼の住まいはどうしても広大な宇宙でなければなりません。自己所有を豊富にすればそれだけそこに後ろ髪を引かれてしまいます。だから彼は貧乏を装っておいでなのです。装っているというのは、こころまでが貧乏をなさっておられないということです。彼は豊かなのです。宇宙を所有している者は豊かなのです。放てば手に満ちます。放たなければいつまでもその手には一本の蘆の穂しか握っていられません。その手を握りしめずにいれば彼は宇宙全体を掌握できるのです。そこへ到達している燕氏が、自己という単一単体に執着するはずはありません。一即多、多即一。この理に精通すれば、むしろ一も多も同位置、同等になってしまいます。

さて、秋が次第次第に深まって来ました。燕氏はそろそろお引っ越しのときを迎えています。南の島へ、あたたかい南の島へ戻って行かれます。今朝、彼とその家族がもう一度わたしのところへ挨拶に来られました。彼とはこの夏、「所有」という概念について何度か話し合ったことがあったのです。それでその燕氏の人となりを知ってようやく尊敬を覚えるようになった矢先、彼は旅を決意されたようです。引き止めることはしません。何処かでまたお会いすることもありましょう。わたしは鳥ではありませんが、瞑想をすれば鳥になれます。彼と瞑想の中のわたしの鳥が、哲学談義をすることもあるかもしれません。

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自己所有と宇宙所有を天秤にぶら下げて遊んでいるさぶろう

2016年10月15日 10時30分12秒 | Weblog

ばかだなあ、さぶろうは。訳の分からないようなことを書いている。さっきブログに投稿したのを読み返してみてそう思う。

自己所有と宇宙所有を天秤にぶらさげて、その重さを量っているなんて、いよいよ暇だなあ。でもこの遊びは楽しいなあ。

遊んでばかりいるさぶろうという男。ほかにすることはないのかなあ。今日は秋晴れのいい天気。朝方20度を下回っていたのに、いまはもう24度になっている。

アネモネの球根を湿らせておいたから、これをあちらこちらに植え付けよう。埒も明かないことを書いているよりは、ましかもしれぬ。うんとましかもしれぬ。

だが、さぶろうは天秤を持っている。自己所有と宇宙所有を測り比べするだけの天秤だからそうとうに巨大でなければならぬ。

ということは? さぶろうがそれだけ巨大でなければならないと言うことになる。計算上は。でもさぶろうはちっちゃい。現実、とってもちっちゃい。

アネモネの種を手の平にのせるくらいの大きさである。そんなことはどうでもいいから、さあ、光の庭に下りて行こう。

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宇宙所有がだんぜん安楽

2016年10月15日 10時15分32秒 | Weblog

「ある」と「所有する」とは一致していない。「ある」ものでも自己所有できないものもある。自己所有できるものが、むしろ、わずかである。このわずかがわずかでいいのは、ちゃんとした理由がある。無駄だからである。自己所有してもなんにもならないからである。それで所有したという気持ちにはなるのだが、それを行使することが出来ない。だから宝の持ち腐れである。腐ってしまうものは自己管理しなくてもいいのである。自然に任せておいた方がいいのである。そっとしておくに限るのである。億万の富もこの種類である。たいがいは腐ってしまう。あるいは害を為してしまうことだってある。益に出来る人は相当に人格者でなければならない。自己所有をしないと所有欲が満たされないのでついついそうする欲望が高まるが、徒労である。宇宙所有が安楽である。空気だって風だって光だって水だって宇宙所有である、だから。空だって海だって星だって宇宙所有である、だから。この宇宙に「ある」ものは無限数である。無限大である。わたしにそれが見えていないだけであるが、「ある」ものはあるのである。それを思うと嬉しくって嬉しくってわたしは飛び跳ねたくなる。この世には「わたしが所有できるもの」しかないとすれば、それは限定された僅かなものだったはずである。わたしの自己所有を離れたところに無限数・無限大がある、それをひそかに想い見て嬉しさに辿り着くのである。そういえばこの自己放下、所有の放擲は、釈尊の悟りの内容だった。

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空に光の芸術作品

2016年10月15日 06時15分28秒 | Weblog

おはようございます、どなたさまも。室温18度。寒くなりました。障子戸を開けると空になっていて、その空に光が芸術作品を作って見せています。子象の帽子大の平べったい雲が仄かに赤く染まっていました。この美しさに泣けといっているようでした。言われるとおりに泣いていいと思いました。何故そうするのか、そんな理由理屈なんかなくてもいいようでした。夜明けになった仏界にわたしがいる、そしてそこで美しい雲を見ている、それを感じていれば十分のはず。子象の帽子はやがてわたしの視界から消えていきました。そのあとには長い筋雲が幾重にもあらわれ、青い空がそれを取り巻きました。秋の空になりました。わたしは泣き出す代わりに深々の深呼吸をしました。何度も。朝の山里は静かです。とっても静かです。ヒヨドリも百舌鳥も鳴いていません。

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