<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

死んだら死者に朝昼夜はあるのか

2016年10月13日 19時04分43秒 | Weblog

死んだら、一日はどうなるだろう。生きているときにだけ、この一日というのがあるのかもしれない。死んだらないのかもしれない。朝が来て昼になってそれが夜になる。そういうことはもう起こらなくなるのかもしれない。辺り一面ただのっぺらぼうで、目鼻立ちはないのかもしれない。

いま僕は生きている。だったらどうすればいい? 僕はそれを考えている。考えたって答は出ないだろう。死があってはじめて生があるのに、僕はまだ死の重みをシーソーの向こうに座らせていない。だから生が沈んでいるのだ。

じゃ、死がシーソーの向こう側に座をしめたらどうなる? 死の重量が重ければ重いだけ僕の生は大空の位置に近くなるだろう。そしてその高い位置から見渡せるようになるだろう。いまはどうも視界が狭い。見渡せていない。なんにも見えていない。

死んだら、死んだ僕のところへ朝が来るだろうか。昼が来るだろうか。寄るが来るだろうか。来ないかも知れない。どの一つも。するとどうなる? 僕は逆算する。するとどうなる? 僕に朝が来ている。昼が来ている。夜が来ている。来ないはずのものがみんな来ている、ということになる。

価値は断然上がる。死が訪れて来ていないのだから、しかし、これはみな仮想である。仮定である。そうなんじゃないかなあという類推でしかない。死んだ途端にしかし、今度は生がなくなってしまうとすれば、どうなる? やっぱりシーソーはできないのだろうか。

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笑いヨガに参加してみる

2016年10月13日 15時55分46秒 | Weblog

笑いヨガに参加してきた。10時から12時近くまで。がははがははと笑って来た。わたしという桶樽を縛っている箍(たが)がけろんけろんと外れた。よくもまああれだけ笑えたもんだ。笑った。腹を抱えて笑った。抱えていた腹の醤油樽から醤油が飛び出してしまった。

笑い飛ばしたのである。味噌も屎も笑い飛ばしてしまった。いままで我が腹中にあって頑固に固まっていた堅物が、まるで氷河がとけるように、とろりととろけて飛び出して行ってしまった。ざぶーんざぶーんと氷河が海中に投げ出されては水飛沫を上げた。じゃ、尋ねるが、なにをいままで大事そうにして固持していたのだろう? で、僕の何がこんなにあっけなく飛び出して行ってしまったのだろう? 大事大事にしていたお宝ものだったはずなのに、それがほんの湯水になってしまった。???の?になった。兎に角がははがははと笑った。軽くなった。魂の重さが軽くなった。これだけ軽くなれば、一気呵成に雲まで飛び上がって行けそうに思った。

次は21日の金曜に行く。次々に笑ったので、何をそんなに無邪気に笑ったのか、その何故さえも、何をしたから笑ったのかも、何が笑えることだったのかも、いやはや笑ったことさえも忘れてしまった。これでいい。また新規に笑えばいいんだから。

笑いヨガ。げたげたげた。がはがはがは。笑って放心する。こころを解き放つ。理論じゃなくてその実践、と見た。

事典を引いて調べてみるとヨガは瑜伽。ヨーガ。密教では行者の身口意(しんくい)のそれぞれのハタラキが仏と一致してしまう術。瑜伽宗は密教の異称。その源流はヒンズーにあるらしい。寂滅、ニルバーナ、禅。そのいずれも、揺れを元に戻す策、こころの平静を保つ工夫、忘我の三昧術であるらしい。

  

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ほのかな「ほ」の字だけで

2016年10月13日 09時23分57秒 | Weblog

葱坊主が付かないので年中食べられるというフカネギ白葱の苗を買って来た。2束。そのまま食べられそうなほど生長した苗である。15株ほどで350円だった。どんどん分蘖するらしい。それを牛糞を撒いた柔らかい土に、植えた。溝を深く掘って。昨夕、日が暮れるまでこの作業をした。水を最後に撒いて終わった。楽しんだ。これくらいで老いの一日をこうも楽しめるのである。

南の空に月が懸かっていた。淡い半月輪だった。若い頃に出遭ったことのあるあの人を彷彿とさせてくれた。ほのかな「ほ」の字だけで終わった人だった。

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