死んだら、一日はどうなるだろう。生きているときにだけ、この一日というのがあるのかもしれない。死んだらないのかもしれない。朝が来て昼になってそれが夜になる。そういうことはもう起こらなくなるのかもしれない。辺り一面ただのっぺらぼうで、目鼻立ちはないのかもしれない。
いま僕は生きている。だったらどうすればいい? 僕はそれを考えている。考えたって答は出ないだろう。死があってはじめて生があるのに、僕はまだ死の重みをシーソーの向こうに座らせていない。だから生が沈んでいるのだ。
じゃ、死がシーソーの向こう側に座をしめたらどうなる? 死の重量が重ければ重いだけ僕の生は大空の位置に近くなるだろう。そしてその高い位置から見渡せるようになるだろう。いまはどうも視界が狭い。見渡せていない。なんにも見えていない。
死んだら、死んだ僕のところへ朝が来るだろうか。昼が来るだろうか。寄るが来るだろうか。来ないかも知れない。どの一つも。するとどうなる? 僕は逆算する。するとどうなる? 僕に朝が来ている。昼が来ている。夜が来ている。来ないはずのものがみんな来ている、ということになる。
価値は断然上がる。死が訪れて来ていないのだから、しかし、これはみな仮想である。仮定である。そうなんじゃないかなあという類推でしかない。死んだ途端にしかし、今度は生がなくなってしまうとすれば、どうなる? やっぱりシーソーはできないのだろうか。