<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

今日の我が推理

2016年07月20日 18時57分01秒 | Weblog

「捨、これ道場なり。憎愛断ずるが故に」      「維摩経」第4章より

さぶろうは今日はここを考えてみる。しかし、さぶろうの把握は間違いだらけかも知れない。

「捨てる」の反語は「拾う」である。

拾い得てすでにたっぷりあるからその後に得たものは捨てていいものばかりである。

仏陀は「大いなる放棄を成し終えた者」とも呼ばれている。

だから「捨てること」「放棄すること」は仏教の道場では必修科目なのである。

道場の修行では「得る実践」が根本のように思われるが、「捨てること」なのだ。

ここには十分あるのだ。具わっているのだ。すでにすっかり具備されているのだ。

それが見えないので、細かいものを掻き集めてきてそれをあたかもこの世の最高の宝物のように大事にしているのだ。

それが憎愛となって、煩瑣な煩悩を逞しくしているのだ。

憎愛は着ぶくれをするばかりだ。

己が眼で見ての憎愛である。気に入ったものには愛着を覚えるが、そうでないものには憎悪を覚える。

しかしこの憎愛は絶対的ではない。己の色眼鏡にそう見えたに過ぎないものである。

だから、憎愛の憎も愛も二つとも我が方の色眼鏡を通したものであって、己の主観を出ない。

そればかりか、それが己に災いを起こすのである。意のままになる得失と思うとなおさら欲望が掻き立てられるのである。出口のない執着になるのである。煩悩が深くなるのである。

憎愛の二つとも断絶させたところに涅槃寂静が出現するのだ。寂滅滅し已(おわ)ったところに大いなる安らぎが生まれて来るのだ。

憎愛に限らない。われわれの思考は好悪、美醜、正邪、優劣、大小、増減など比較相対という道具に拠らないでは生まれ得ない。片方だけでは思考が出来ないのである。判断が覚束ないのである。

「捨」も「断」も主観の放棄、色眼鏡不使用ということである。すでに「在るもの」を「ないもの」と見立てて出発すると、われわれはあれこれ手に入れることに邁進することになる。

はじめに真理ありき。はじめに調和ありき。はじめに完成ありき。はじめに仏智見ありき。はじめに仏国土ありき。はじめに涅槃ありき。

われわれはその出発点を出発した者だったが、それに疑いを掛けるようになったのである。そして己の主観、人間の色眼鏡を頼みにするようになったのである。

ここまでを推理してみました。完成された仏の国に降り立ったわたしであった。この事実を疑った代償は、いまや雑多の付属品を巻き付けて雪達磨式に膨らんでいるのかもしれない。

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コンビニ笊蕎麦がうまいなあ

2016年07月20日 18時33分28秒 | Weblog

コンビニの笊蕎麦がうまいなあ。300円ちょっと。暑い日に熱い食事はどうも苦手だ。車の運転席で開いて(開くまでが面倒だけど)、つるつるつると啜る。一人黙して。麺汁に浸した麺は楽々と喉元を通り過ぎて行く。あっという間だ。ランチタイムは10分ほどで終わる。野菜なし。ここがちょっと物足りないけど。で、すぐに次の目的地へ向けて出発する。手軽だ。このところ、この通り、笊蕎麦ですますことが多くなった。

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これには耐えていい

2016年07月20日 15時01分08秒 | Weblog

これには耐えていい。

これくらいのことには耐えられる。

ここは仏陀の世界である。

仏陀のいます世界である。

仏陀のダンマが行き届いた世界である。

その中で起こっていることは、わたしにも耐えられる。

耐えていいことだから、耐えていいのである。

 

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ここで釣り合いが取れてくるのだ

2016年07月20日 14時09分59秒 | Weblog

祈りは祈る人と祈る対象との2者の間のことに限られる。仏教の話に持ち込むなら、祈りの庭にはわたしと仏陀の二人しかいない。二人が相対しているだけである。駆け引きはなし。祈ったから、だから、それから先になにがしの利益が欲しいというのではない。二人が相対し得たというところで完了をしているのである。その代わりといっちゃなんだかおかしくなりそうだが、祈る人、わたしはここでは仏陀と等身大になれるのである。いや、そういう扱いをしてもらえるのである。ほかのどんなものも加入・介在してはいないのだから、仏陀の写し絵になれるのである。そういう不可思議が成立するのである。祈る人はそれ以上を欲しがるわけがないではないか。「唯仏与仏」とは「ただ仏と仏のみ」という世界である。(「与」の字は「といっしょ」の義)仏でなければ仏が見えてこない、という世界である。仏でないものは仏が見えないし、理解も出来ないのである。その世界に、祈る人が仏として仏に向き合える、そこが祈りの場である。もちろん、これを可能にしたのは仏の側の慈悲である。仏の差し向けた功徳である。仏が実現した神力の加護のためである。祈りの庭では、だから、祈る人は、一時的だが、「唯仏与仏」のもう一方の仏に成っているのである。ほかのどんなものもここへは侵入・加担・介在ができない、というのはこのためなのである。

わたしには見えていないが、仏さまには見えている。そういう真如界・法界・仏界がある。嬉しいではないか。わたしが見ているのがすべて100%虚偽の世界であったとしても、仏さまがそうではない世界を見ておられる。ということは、仏さましか見えないがそういう世界がわたしの隣に着実に存在しているということである。どんなに儚い世界をわたしが生きていても、これで釣り合いが取れてくるのである。大きな揺るぎのない安心が得られるのである。この発見は極めて感激的感動的であるので、これを「悟り」と呼んだりするのだろうと思う。

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工夫工夫で暑さが敵味方に分かれる

2016年07月20日 13時35分14秒 | Weblog

暑いなあ。でもこれは僕一人に限ったことではない。誰もがそうなのだ。人間だけに限ったことでもない。獣も、虫も、鳥も魚も暑いのである。それだけではない。山も海も水も風も暑いのである。それをどうするか。思い思いに工夫を凝らしているはずだ。僕のように冷房の中に引き籠もっているわけにはいかないとして、いつもの通りの活動をしているグループもいるはずだ。いや、むしろそのグループがダントツに多いだろう。それを思うと後ろめたくなる。すまない気持ちになる。昨日は早朝からサイクリングをしてみようと息巻いたがなんのその。いざとなったらその勇気は湧かなかった。明日に延期で落着してしまった。だらしない男だ、まったく。蝉が鳴いている。暑いのをものともせずに。いや、少しは生活の不都合を感じているかも知れないが、そんなことなどおくびにも出してはいない。これを当然と受け止めているはずである。みーんみーんみーんみーん、庭の桜の大木の辺りで鳴いている。トマトは日照りに応えて真っ赤に熟れている。軒端の洗濯物は熱風に吹かれてすっかり乾いてしまった。それですました顔だ。暑さは、これをどう工夫するかで敵になったり味方になったりしているようだ。

 

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弟の初盆が近い

2016年07月20日 09時59分42秒 | Weblog

今夏は弟の初盆である。さっき鹿の子ユリを手折って弟の家に持って行った。仏壇に飾ってもらうためである。別に弟がその花をことさら好きだったわけではないが、夏の庭を彩っているものを弟にも見せたい気持ちになった。この頃何かと死んだ弟のことが思い起こされる。どうして兄よりも先に身罷ったのであろうかと思う。そしてそんなに早く他界するのなら、もう少し優しく対すべきだったと悔やまれる。冷淡をしたこともある。申し出を無視したこともある。意地悪に及んだこともないではない。その一つ一つが愛情不十分に思われて悔やまれる。死んでしまってからそれを言う。どうにもならないではないか。後悔というのは充てにならない。仮構になったから、ああもしたかったこうもしてやるべきだったと反省するが、そのどれも虚偽である。いなくなったら、どうにでも言えるのである。そこではすっと弟思いの兄にもなれるのである。事実ではないのである。だから欺瞞である。嘘つきである。頼ってきた弟に親切をしなかったこともあった。そういうことがこの初盆になって思われてくる。昨年の10月末に死去したから死後9ヶ月を過ぎたところだ。弟はもう次のステップへ進んでいるだろうか。明るいところ楽しいところ清らかなところへ進んでいてほしいと思う。弟は僧侶の資格を取っていたし、それだけ仏教にも造詣が深かった。よく二人で仏の教えについてあれこれ議論をした。会うと結局はその議論に終始した。彼の方が仏さまの教えの海の深さがうんと深かった。死後こそは教えの実践の庭であるから、彼は軽快に実践に回っているはずである。そういうふうに彼の明るい死後というものを明るく思い描いていたい。

 

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生きている者が生きている音を聞いた

2016年07月20日 02時37分39秒 | Weblog

およそ2時間を走り抜けて海を見に行った。わざわざ夏を見に行った。松林が樹海を作り、白浜まで続いていた。松林の間からぎらぎらと光る昼間の海を見た。波打ち際に波が打ち寄せ打ち返していた。しばらく音を聞いた。生きている者が生きている音を聞いて、ものを思った。白浜は熱く焼けていた。足が砂に沈んだ。たしかに夏を見た。近くで泳いでいる人を見かけなかったが、遠くの沖合に小さくヨットが走って、絵を描くように白い雲が天空の高いところまで元気と痛快と、健康と隆盛をふくらませていた。乾いた海風が頬を撫でた。

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指の平で触れてみる

2016年07月20日 02時32分56秒 | Weblog

両の手の腕に、入り組んだ路地のように毛細血管が張り巡らされて、赤々とした血液が流れている。ぷくりぷくり太く浮き立っている。老いた証拠だ。これがないと、しかし、さぶろうは一日たりと生き延びることはできなかった。その一日を積み上げて積み上げて今日を迎えている。寝ているときも起きているときも、歩いているときもやすんでいるときも、外に出て汗水垂らしているときも内に籠もってものを考えているときも、いずれのときも、怠りがない。真夜中、指の平でそれに触れてみる。

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