<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

サイクリングは我がリハビリ手段である

2016年07月19日 10時54分30秒 | Weblog

自転車に乗っていない。サイクリングは我がリハビリ手段である。暑い。暑いと億劫だ。かんかん照りの外になんか出ていけない。お陰で足の筋肉がすっかり削げ落ちてしまった。それでなくても丸太の棒なのに、その棒から皮膚がたらりと垂れているまでになった。見るも無残だ。餓鬼道に落ちた痩せ爺とはこの男だ。異様に無様だ。外に出るには足に装具を着けなければならない。これも面倒だ。面倒がって装着しないと倒したときが一騒動。悶着が起きる。それをイメージすると外出の意気がすっかり萎えてしまう。でも、なんとかしないといけない。運動療法をしないと血糖値が上がってしまうことになる。するとうまいものが喰えないことになる。夏場の冷えたビール一滴口に出来ないことになる。快楽がこうしてじりじりじりと狭められていく。快楽なくしてなんの人生ぞや、などと託(かこ)ちたくなるではないか。打開の道は一つ。ともかく自転車に乗ることだ。朝の涼しい内に。日がまだ昇って来ないうちに。さあて、難題だ。怠け者のさぶろうにできるかどうか。

 

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大相撲は十両が断然面白い

2016年07月19日 10時30分41秒 | Weblog

いま大相撲が面白い。十両が俄然面白い。どうしてだ? 軽量級の力士があまた活躍しているからである。大関横綱の優勝争いなんて目じゃない。宇良がいる。里山がいる。石浦がいる。みな重心が低い。全身がバネになっている。きりきりしている。引かれても落ちない。捕まったら軽量は釣り上げられてしまうので、彼らはともかくめまぐるしく動き回る。なにより凄まじい闘志を沸き立たせて、どうみても分が悪そうな巨大な相手とがっぷり四つをも仕掛けてくる。もちろん潜って潜ってまわしを掴んで、土俵を丸く丸く逞しくさせて、堂々の向こう見ず、真剣勝負を見せてくれる。この向こう見ずというのがいい。これぞ相撲だと思わせる。平幕下位には北播磨がいる。相撲は勝ち負けが面白いのではない。向こう見ずの張り合いが面白いのである。満身意気込みのぶつかり合いの、淡泊でいいのである。さぶろうは、だから、テレビ観戦も上位陣残り3番は見ないことにしている。優勝のためにする相撲をよしとしない。

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イメージすることで完了する

2016年07月19日 09時34分53秒 | Weblog

イマジネーションとはなんとまあ便利なツールなんだろう。寝ていてできる。汗して働かないでもできる。貧乏をしていても豊かでいられる。愚者であってもたちどころに賢者にすり替わることができる。行かずして行き着いている。如意であって思いのままだ。奈良を旅した折、古いお寺でその如意輪観音さまと対峙した。さぶろうを意に介することなく観音さまは深い瞑想を出て来られることはなかった。残された方法は一つ、さぶろうが瞑想をして行き着くことであった。菩薩の瞑想の場に。そして行き着いたとイメージすることでそれは完了するのである。さぶろうは如意輪観音の出迎えを受けてにっこりした。

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儚さは美の極致である

2016年07月19日 09時17分00秒 | Weblog

おはよう。想像しているものは存在している。少なくともその想像の中には。想像を出て来ると、それはいきなり透明になって、存在していることが難しいと主張をし始めるけれども、でも、透明であっても存在はしているのである。色を伴うとわれわれはその存在を目にとめて確認が出来るのだが、それであっても唯単に色を確認できたと言うだけなのに。認識は欺瞞に弱い。

さぶろうは今日の想像の中に天女を思い描いている。彼が思い描いたから彼女の存在が自由になった訳なのだが、彼女と彼はたしかに相互扶助によってカップルになりえているのである。天女は薄物の軽装をしているので肌が透け透けでに透き通っている。かぐわしい香木の匂いが流れて来るので、さぶろうの鼻は嗅覚を刺激されてふくらんでいるが、それを相手に気取られないようにするのに一苦労しているようだ。

さぶろうは天女のかんばせをまっすぐに見詰めようとするのだが、放たれている光がまばゆくてまともには見られないのである。だから、タモリのように色眼鏡を掛けて見るしかない。そうすると天女の輪郭がそのおぼろげを幾分かは解いてくれるのである。

想像しているものはただちにそこで存在に切り替わることができる。これは魔術なのだろうか。魔術ほどに儚くはあるが、儚さこそがまた美の極致でもあるのだ。

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