徒然なか話

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上熊本駅ものがたり

2013-12-19 16:47:25 | 熊本
 今朝の熊日新聞にJR高架化工事のため、現在仮駅舎で営業している上熊本駅の新駅舎が再来年の3月に完成予定という記事が掲載されていた。仮駅舎になってからもう何年経ったろうか。駅前を通る度に、いったいいつになったら駅らしい姿になるんだろうと思っていた。上熊本駅はわが家から最寄りの駅で子供の頃からなじみ深く、これまでこのブログにも上熊本駅関連の記事を何度も載せて来た。その中からいくつかを編集して再掲してみた。

▼新・上熊本駅のデザイン(2011.7.1)


 九州新幹線全線開業に伴う在来線(熊本~上熊本間)の高架化のために解体され、現在、仮駅舎となっているJR鹿児島本線・上熊本駅駅舎の新しいデザイン素案が県から発表された。また県では、この案に対する県民の意見を反映するため、パブリックコメントを行うという。


解体される前の旧駅舎


▼文豪ゆかりの駅(2013.4.20)
 上熊本駅は、明治29年(1896)、第五高等中学校に赴任した夏目漱石が降り立った駅として知られており、駅前には漱石の像も建てられている。また、その5年前に赴任した漱石の前任者ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、上熊本駅を舞台にした短編小説「停車場にて」を物している。さらに、明治40年(1907)には、漱石に倣ったのか、与謝野寛が、まだ学生だった太田正雄、北原白秋、平野万里、吉井勇の4人を引き連れて降り立っている。
 明治41年(1908)2月、漱石は、九州日日新聞(現在の熊本日日新聞)のインタビューに答えて熊本の印象を語っているが、その中で上熊本駅に降り立った日のことを次のように語っている。

 私は7、8年前松山の中学から熊本の五高に転任する際に汽車で上熊本の停車場に着いて下りて見ると、まず第一に驚いたのは停車場前の道幅の広いことでした。そうしてあの広い坂を腕車(人力車)で登り尽くして京町を突き抜けて坪井に下りようという新坂にさしかかると、豁然として眼下に展開する一面の市街を見下ろしてまた驚いた。そしていい所に来たと思った。あれから眺めると、家ばかりな市街の尽くるあたりから、眼を射る白川の一筋が、限りなき春の色を漲らした田圃を不規則に貫いて、遥か向うの蒼暗き中に封じ込まれている。それに薄紫色の山が遠く見えて、その山々を阿蘇の煙が遠慮なく這い回っているという絶景、実に美観だと思った。それから阿蘇街道(豊後街道)の黒髪村の友人の宅に着いて、そこでしばらく厄介になって熊本を見物した。

夏目漱石内坪井旧居パンフレットより


▼俳諧の巨人、西山宗因ゆかりの寺跡(2010.7.30)
 明治24年(1891)に九州鉄道が熊本まで開通した時、上熊本駅から坪井方面へ馬車を通すために新坂と呼ばれる道路が新設された。上熊本駅から新坂を登り始めると、寄り添うように古い小さな坂道がある。この坂は釈将寺坂と呼ばれ、その昔、この坂の上に釈将寺という天台宗のお寺があったことからこの名が付けられたという。この釈将寺は、俳人・松尾芭蕉をして「俳諧の中興開山」と言わしめた談林派俳諧の祖、西山宗因が幼い頃、初めて和歌や連歌に触れ、俳人連歌師への道を歩き始めたお寺である。この附近は武家屋敷が守りを固めた所でもあった。


釈将寺坂


▼進駐軍の引き揚げ(2008.7.4)
 昭和30年7月某日、上熊本駅ホームで別れを惜しむ米兵とオンリーさんたちの様子だ。進駐米軍の撤収が始まり、熊本からも米兵たちが帰国して行った。僕の家の近くにオンリーさんと住んでいたGIも帰って行った。暑い夏の夕方、上熊本駅の線路脇の有刺鉄線を張り巡らした立て杭越しに僕はそれを眺めていた。幼いながらも何かが変わっていくのを感じていた。53年前の出来事だ。



▼映画「霧の旗」の舞台(2010.1.19)
 松本清張のサスペンス小説「霧の旗」を「男はつらいよ」シリーズなどで知られる山田洋次監督が昭和40年(1965)に映画化した。珍しくサスペンスに取り組んだ山田監督は、いつもの作品のようなコミカルな要素は一切なく、ヒロイン役の倍賞千恵子も、あの“さくら”さん的な明るさはカケラも見せずに、この復讐に燃える女を演じた。原作では事件が発生した町は明確には表現されていないが、山田監督は舞台を熊本に設定した。発端となる殺人事件が起きるのは寺原町で、ヒロインが夜行列車で東京へ向かうのは上熊本駅である。



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