石原延啓 ブログ

seeking deer man

nobuhiro ishihara blog 

twitterに登録しました

2010-07-22 15:09:23 | Weblog


先日ブログのアクセスが増えたのは、たまたま友人がtwitterに私のブログをリンクして、彼のフォロワーが覗いてみたというのが原因らしい。よく考えたらタコのパウロをパウルに書き換えただけでアクセスが増える訳ないか。
社会についていけてない自分にあきれます。

twitterってのはどういうものなのか知らなかったのだけれども、友人に誘われたのを機会に他の友人たちの分も含めて覗いてみた。
有名人のつぶやきをフォローするのは分かりやすいけれども一般の人はどのように使っているのだろう?
つぶやきでは短文だけれども、フォローする人される人が増えると画面上には複数の情報が氾濫することになる。それ等を取捨選択しながらコミュニケーションを続ける(あるいはそれっきり)のだろうけれども、ある程度話題を共有している人たち同士や普段忙しくて会う事の少ない者同士が気軽に通信するのには便利なんだろうな。

以前に能のナラティブについて調べていた頃に勧められた谷崎潤一郎の「芦刈」を今読み始めたのだけれど、冒頭に主人公が古典「増鏡」などの記述をたよりに後鳥羽上皇に思いを馳せながらその別荘のあった京都近郊を歩く。
鎌倉幕府にたてついて承久の乱を起こした、あの後鳥羽上皇ですよ!
ほとんど中学高校の日本史の授業の世界だけれど、一昔の日本人はそんな昔にあった人物や出来事に親近感、臨場感を持ち合わせていたものなのだろうか?
松岡正剛が「日本流」の中で、昔の日本の教養人たちは万葉集とか古今和歌集とか限られた数冊の古典から引用を繰り返しながら無限の世界観、宇宙観を紡いでいた、みたいなことを書いていた覚えがあるけれども、対して現代日本人はどうであろうか?
確かに情報は横へ横へと無限に広がりをみせてはいるけれども、それは大部分表層的なもので深いところに井戸を掘って行くような行為とは別物だろう。

人々を支配し、また人々が頼っていた旧いシステムから解放され、個人が個人として本当に独立する方法を探求している時代をモダンとするならば、同時に今、人々は深いところで結びつくことのできる新しい「何か」を模索しているとも言える。
それにしても「アバター」のように髪の毛をピッと樹木のどこかに差し込めば惑星全体と繋がってしまうっていうのは解決方法としてはイージー過ぎるよなあ。