石原延啓 ブログ
seeking deer man

nobuhiro ishihara blog 
 





4/28
ウィーンから日本への帰国直前にレジデンスの階下のギャラリースペースに壁画を描く小さなプロジェクトが決まった。
チェコから戻り作業を終えると、ヤンが「せっかくノブが描いてくれたのだから、身内で簡単に食事でもするかあ」と言って帰国前日にパーティーをセッティングしてくれた。

そもそもは、偶然パーティーで会ったデビッドを通してfea - forum experimentelle architekturのディレクター・ヤン・タボール教授を紹介され、お互いの仕事について話し合いの機会を作ろうといいながら結局帰国10日前にミーティングが実現した。建築の研究者であり数々の展覧会をキュレーションしてきたヤンは共産主義下のチェコからオーストリアに移民したハートのあるおっちゃんだ。

ヤン達は第二次世界大戦後、政治が建築に与えた影響をリサーチしていて、いずれ展覧会にするために世界各国の資料を集めている。
日本についても調べているので意見を聞かせてよということで、まずざっと選んだ写真を見せてもらう。やはり主に安保闘争や学生運動の写真が中心だったけれども、映画のスチール写真も含まれている。現代劇の黒沢映画中心に溝口、小津の作品がパラパラある。



その中では「ヒロシマ・モナムール」(Hiroshima, mon amour)という未見の日仏合作映画が目についた。被爆地広島を舞台に第二次世界大戦により心に傷をもつ日仏の男女が織りなすドラマを描いた日仏合作映画らしいのだが、当時の街の風景や市民の姿が多く映し出されているらしく興味深い。)

ここで右翼の代表格である三島由起夫の写真が多く含まれているので理由を質問してみた。
ヤンは英語がほとんど出来ないのでデビッドを通してコミュニケーションしていたのだが、どうもカフカの評論「反抗的人間」における共産主義批判と三島の姿勢との間の関連性などに興味を持っているようだった。なるほどチェコ出身の人だからね。

私の方は相変わらず鹿男について話す。
原始の神話の中では神も人も動物も相互に変身可能で対等な関係であったこと。ウィーン滞在にあたってキリスト教やハプスブルグ家についてリサーチしてきたが、実際に目にしたのはその下に潜む自然に密接した土着的な精神性などなど。
結果、突然にインスティテューションの展示スペースに何か描いてよ、となった次第。折しも木製の住宅建築のリサーチ(上記の政治と建築のプロジェクトとは別)が進行中で、コンセプトとしても違和感がなかったからかもしれない。過去の展示物はそのままに、展覧会の度にギャラリースペースを作品やらリサーチで埋めていき、スペース自体をコラージュで覆い尽くすというコンセプトらしい。その先駆けになるのは光栄だ。

当日は身内だけのささやかなディナーのはずが、いつのまにか「HOLZBAUEN(木の家)」という展覧会のオープニングになっていてビックリ。そういえば昼間にヤンがごそごそ机を動かしたり、釘うったりしてたわ。メインの建築家はチェコ在住で不在だったが、別の壁画を描いたアーティストや建築写真のコーディネーターなどグループ展の参加者の他、MQのディレクター・ウォルダーさんやらSecessionのディレクターまで来ていて慌てた。ヤンはウィーンでとても顔が広い人だという話は本当だった。

滞在中に出来た友人たちも来てくれて嬉しかった。ネイサン、シギータ、フーベルト夫妻、エリザベス、アンナ、デービッド、マルチナ、大変お世話になりました。たまたまフランスから来ていたスカルも顔を出してくれた。皆さんありがとうございました!

パーティー後、写真を撮りに階下へ降りるとヤンが仕事をしていた。最後はヤンには親戚の叔父さんのような親密な感情を抱くようになっていたのでハグして別れる。いつでも戻ってこいとほおをつねられた感触が忘れられない。

パッキングは徹夜だったけれど、本当に充実したウィーン滞在でした。


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4/26
翌朝起きてみると天気は快晴、部屋からは隣接した教会のゴシック建築が見える。
シャワーを浴びてからキッチンへ降りてゆくとレンカがオムレツを作ってくれた。
改めて家の中を案内してもらうと、アンティークやカントリー調の家具をモダンにアレンジしていて格好良い。レンカのペインティングもあちらこちらに飾ってある。抽象表現主義的なセンスの良い美しい作品だ。
庭に出るとヤンがキュレーションしたコンテンポラリーアートの作品が旧い井戸や壁の合間あちらこちらに設置されていた。何でもヤンの長年の友人であるフランツ・ウェストのお弟子さん筋の若手アーティストたちの作品らしい。
ウェストの青とエメラルド色のチェアの作品もあった。



その後、村にふらりと出て行く。
ちょっと見で人口100前後でしょう。レストランが1軒だけある。
実はバブレク夫妻も改築移住後、数年の間バーを経営していたらしい。
内装を見せてもらったが、厨房もしっかりしているし繁盛していたというのもうなずける。但し、ウィーンを始め周辺の村々からも人が通う人気の居酒屋を経営するのはなかなか大変なことらしく、数年前に二度目の引退をして今は悠々自適、夫婦でアート作品をつくりながら静かに暮らしている。
村はゆっくり見て回るのに2~30分程のおおきさ。オレンジ色のレンガ屋根や道路修理の人に会ったけれども、怪訝そうに私を見る。
まあ、何でこんなところに東洋人がいるのだろう?と当の私も不思議に思う位だから、彼らにとっては殊更だろう。



農場脇の緩やかな坂を上りきると広々とした平原に出る。
四方を緑のフィールドに囲まれた私は、その時何とも言えない不安定な気持ちになった。
身の危険を感じるとかいう類いのものではなく、自分と繋がる全てのものと切り離されてしまったような不安。
しかし意外に自由とはこういった状態をさすのではなからろうか。
エイヤっと自分にエンジンをかければどこにでも行くことが出来るのだろうけれど。などとつらつら考える。

バブレク邸に戻ると庭ではヤンが丸まるとしたお腹を突き出して上半身裸で畑を耕していた。昼食後なぜだか昼寝を勧められると本当に1時間ほど寝てしまう。
目を覚ますと雨が降っていて、彼らの友人のアーティストが遊びにきていた。
彼女は車で30分ほどオーストリアに戻った小さな村にある本当のお城に住んでいた。オーストリアのアート事情って一体どーしえこんなに恵まれているの?

ヤンも私も夕方にはウィーンで用事があるのでバブレク邸を失礼する。
バブレクさん夫妻は息子さんが日本人女性と結婚して東京在住ということもあり、やたらに親日家だ。甥っ子が遊びにきたみたいに扱ってくれて嬉しかった。
お土産にオタカが作ったパンプキンジンジャージャムを頂く。



ヤンが気を利かせてくれて帰り道にローマ遺跡が残る旧い村巡りをしてくれた。
途中、何でも無い畑の中に何個も東西冷戦下のトーチカの残骸を見る。
そして今では誰もいなくて素通りできる国境も20年程前まで延々と有刺鉄線が張り巡らされていたのだ。
帰りの車中、ヨーロッパの人々が経験した歴史、そしてその影響を受けた彼らの心中に思いを巡らせた。私の心の中に何か暗く重たいものが宿る。そうしたものを一つ一つ克服していくのが我々人類の進歩なのかなと思う。


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帰国後バタバタしていてblogの更新がペースダウン。
既に遠くなってしまったウィーンへと時間を戻してみると~

4/25
帰国直前10日前に、突然小さなプロジェクトが決まる。
レジデンスで滞在しているMQ内同じqualtier21の建物の1階下の建築のインスティテューションForum Experimentelle Architektur のギャラリースペースの壁に鹿男を描くことになった。
ウィーン滞在も残り数日、世界遺産のシェーンブルン宮殿見学から戻り、さすがにそろそろ仕上げてしまおうと作業しているところへディレクターのヤンがやって来た。
既に作業をするために鍵を貸してくれるくらい信頼してくれていたのだが、これからチェコへ行くけれど一緒に来るかい?と誘われる。
え~チェコ?どれくらいかかるの?と尋ねると車で2~3時間とのこと。オーストリアとの国境にある小さな村Stalkyの友人宅に部屋と畑を借りていて一泊する予定。帰国前でやることは多けれど、一生のうちで二度と行く機会のない場所だろうと思い即断。
ヤンは60代半ば過ぎ、チェコ出身のファンキーな太ったじいちゃんなのだが、俺はゲイじゃないよと笑う。なるほど、確かにこちらではそういう注意も必要か。

パッキングしている間にヤンが車をピックアップして、いざ出陣。
ヤンはほとんど英語が出来ないので車中ではお互いそれなりに気を使ったが、慣れてしまえばどうにかなるもので、なかなか楽しいドライブだった。
ウィーン郊外へ出るのは3回目だけれども、相変わらずオーストリアの田舎の風景は美しい。昔イタリアを旅した時に列車の車窓から見た風景とはまた違う。
延々と広がる畑に再々キジやらウサギやら鹿を見る。
緩やかな登りが続いている気がしていたら、ある場所でぱったりワイナリーのエリアが終わる。気候と土壌が変わったのだろうか。
さらに30分ほど走ると誰もいない国境を越えた。
国境を越えた途端に道路の舗装が悪くなり樹木が増え、私たちは目的地Stalkyに着いた。
暗がりでよく見えないけれども大きな家だ。
Baburek夫妻が温かい笑顔で迎えてくれる。チェコビールで乾杯(美味い!)
サーモン、サラミ、チーズとパン、それにナイフを渡されて自分で切りながら食べるのは欧州流のおもてなしか。変わった形のボトルに入った地ワインも美味。
暖炉に当たりながらチェコ語での会話を聞いている。
ここは何処?私はだあれ?
なぜ私は今こうしてこの異国の見知らぬ親切な老夫婦の家にいてもてなしを受け、のんびりと酒を飲んでいるのだろうかと不思議な感覚に襲われる。



コロンブスが新大陸を発見した年に建てられた(!)修道院を改築した家と聞いてビックリ。
あとで写真を見せてもらったら、粗大ゴミの不法投棄場所になっていて廃墟同然だったものを買い取って丁寧に直したらしい。
ご主人のOtakarは引退する前はスキーのブランド・チロリア(懐かしい、、、)のデザイナーだったとのこと。
奥さんのLenkaはアーティストなのでセンスが良くて、改築後の家はインテリアの雑誌にも掲載されていた。
格好良いゲストルームに泊めてもらって多謝多謝。
(つづく)

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今回のウィーンのレジデンスは、ある程度まとっまった期間ヨーロッパに滞在する、私にとっては初めての経験だった。
渡航するにあたって予備知識としてハプスブルグ家を中心としたヨーロッパの歴史とキリスト教について軽く資料を読んでおいた。
しかしあちらで約二ヶ月暮らしてみて感じたのは、そういった「世界史」の教科書で学ぶような事象の下を脈々と流れる精霊たち、より根源的な人々と「自然」との関係性のようなものだったように思う。
それは時にはあっけないくらいオープンに、そしてまた時には一旦隠された後に複雑な形で表に現れてくる。
今ならばヨーゼフ・ボイスの野兎の死骸やフェルトを使ったパフォーマンスは感覚的に良く理解出来る。
ヨーロッパは劇的に寒かった冬から春になる。ぶわっと草花樹々が芽を吹く。
丁度クリスマスの時期が死の世界を暗示させる冬の始まりに位置しているように、復活祭は正に「生」の復活である春に位置する。一見キリスト教のイベントのようで、それは正に生活とリンクしている訳だ。
そんな当たり前のことも、住んでみて初めて体感出来た。
オーストリアの人たちは春の楽しみ方、自然の楽しみ方を良く知っている。食べものなどは日本よりもより季節の移ろいに密接しているように思う。自分で果実や野草を摘んで自家製ジャムやハーブティーを作る習慣を見聞きするにつけ、「魔女」的な気配を感じずにはいられない。

また色々と見聞きすることで、モダニズムが起る過程や19世紀末から20世紀初頭にかけての人類の壮大なる実験(コミュニズムやファシズム)など、それ等がぶわっと起った理由も理解できたような気がする。
そして私たちはその延長線上を生きている。
帝国主義の流れに巻き込まれ、鎖国から明治維新を経て嫌をなしに世界デビューを果たした我が日本。
ヨーロッパについて学ぶことはすなわち日本について学ぶことでもある。
数日前に既に四月初めに来日していたエドガーと会う。
つらつらとウィーン滞在の感想を話しながら話題は日本へ。昨今の政治経済の混乱や街の風景に話が及ぶ。
彼は親日家だけに鋭い意見を言う。また、ヨーロッパ人だからその視点は新鮮に感じられる。
日本人は個人の個性ではなくヒエラルキー(そしてそれによって社会が如何に機能するか)をまず尊重する、と彼は言う。そして第二次大戦の敗北により、ヒエラルキーの一番上にアメリカが添えられてしまった、という訳だ。私たち日本人は「西洋」の価値観ではなく「アメリカ」の価値観(特に良くない部分)に多大なる影響を受けたということを欧州に来てみて痛感した。

ローマにルーカスのオープニングを訪ねた時、たまたまイタリア在住の日本人アーティストと知り合い、翌日彼の展覧会のオープニングに立ち寄る。結局エドガーも私もアーティスト本人には声をかけず、足早に去ってしまった訳だが、その時のエドガーの一言が印象深い。
「西洋に暮らす90%の日本人はrudeであることが西洋的だと勘違いしている。」
彼のドローイング中に旧約聖書の一文が英語で殴り書きされていた。
エドガー曰く「何故ローマにいて英語なの?日本語でも良い。しかも彼の英語は間違っていた」というのが件のセリフに繋がるのだが、それはさておき、私たち日本人はもう一度自分たちの特性を見直して、堂々と自分たちの「やり方」で主張していっても良いのではと思った次第です。例え「曖昧」「良く分からん」「ずるい」とか言われてもね。



前置きがやたら長くなっていまいましたが、
4/25
世界遺産シェーンブルン宮殿へ行く。ここはマリア・テレジア女帝が整備した夏期の離宮らしく少年少女時代のモーツアルトとマリー・アントワネットのエピソードが有名らしい。
まず驚かされるのはその大きさ、とにかくデカい。
入場者制限をしているので30分待った後に音声ガイドを借りて王宮を散策。
市内の王宮はフランツ・ヨーゼフ帝とエリザベート皇后色が強かったけれども、こちらはそれに加えてマリア・テレジアおっかさん女帝の色合いも濃い。
印象深かったのが中国や中東の細密がを使った壁の装飾。時の権力者の収集能力は凄いです。
どこでもシシィことエリザベート皇后の人気が高いようだけれども、美人ということだけで、個人的にはあまり魅力を感じる女性ではないかな。
やはり旦那の真面目君、最後の皇帝フランツ・ヨーゼフは大した人だったと思うし、大変な不幸に続けて直面しながらも謹直であり続けた彼の内なる葛藤は大変なものであっただろうと想像するだけで恐れ入る。
ここで私が一番興味を惹かれたのがナポレオン2世。
英雄の1世はもちろん日本の幕末史にもからんでくる3世は知っていても、2世についての知識はなかった。
稀代の英雄とハプスブルグの青い血を引く若者は将来を嘱望される(恐れられる)なかなかの人物だったらしいのだが、惜しくも21歳で夭折した。ハンサムな彼のデスマスク(結核によりやせ細っていたはいたが、、)も展示されていた。
実はこのナポレオンジュニアとシシィの敵役、姑のゾフィ大公妃(フランツ・ヨーゼフ帝の母親でなかなかの美人)との間にロマンスが噂されていたらしい。私はワイドショー的にこちらの方にそそられます。



王宮とその後のグロリエッテ見学でくたくた。グロリエッテは庭の中にある丘(!)の上にある見晴し台の建物で王宮から徒歩20分(!!)もはや迷宮庭園をさまよい歩く気力は残っておりませなんだ。名物のアップルパイを食べて帰りました。
新緑が萌え萌えで思い出深い一日。さすがは世界遺産。

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そんなこんなでオーストリアから日本に帰国しました。
帰国した4/30当日から幼稚園帰りの長男を連れて公園でサッカー、縄跳び、自転車の練習。翌日からは連休に入って湯河原でタケノコ掘り、船橋のアンデルセン公園、逗子の実家で貝拾いと家族サービスの日々。眠たくても子供に起こされてしまい時差ボケする暇もなく1週間が過ぎてしまった。
あの石畳の街を闊歩していたのはいつの日の出来事だったのか?ウィーンでの二ヶ月の日々がまるで一夜の夢のように感じられてしまう。
今回のレジデンス滞在中は特別なオブリゲーションもなく、のほほんと思索(or 試作)にふけっておりましたが、帰国1週間前に突然小さなプロジェクトが入り、一泊チェコに行ったり荷造りやらもあって帰国前日にオープニングを終えて慌ただしく帰国するに至った次第。
追ってオーストリア滞在終盤のまとめをアップしておこうと思います。

写真は4歳の息子と掘ったタケノコ。竹林が急斜面にあって結構ワイルドな体験でした。親父の方が楽しんじゃったかも。

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