石原延啓 ブログ
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カナダ大使館高松宮記念ギャラリー「旅する版画:イヌイットの版画のはじまりと日本」展のパネルディスカッションを聞きに行く。
50年ほど前にカナダの北極地方にある小さなコミュニティー、ケープドーセットに日本の伝統的な版画技術が初めて持ち込まれ、今も尚、現地の版画工房では質の高い作品が制作し続けれられている。
パネルディスカッションはカナダ文明博物館のキュレーターや研究者、工房で働くイヌイットの職人等の間で主にテクニカルな話題が中心となり進行した。
最後の質疑応答では神話を含むコミュニティーの物語を版画という手段で人々に伝える重要性についてイヌイットの職人さんに尋ねてみた。
答えは想像した通り経済的なことが一番重要という。近代以降の北米大陸に住むネイティブたちのしんどい状況は私なりに理解しているので神秘的な答えを期待していた訳でない。そして「お金が重要」という答えやあまりに素朴な彼らの佇まい、展覧会作品のイメージから感じ取れるものは多かった。

かつてカナダ政府の職員が日本の伝統的版画技法を共に持ち帰った棟方志功などの作品とイヌイットの版画に観られる神話的なイメージには技術的な共通性以上に日本人とイヌイットの同じモンゴリアンとしての原始的な自然観の共通性が強く感じられた。
現代日本人が忘れてしまったイメージ。自然界の精霊みたいなものがまだまだそこら辺りにうようよいた頃のイメージ。
あまりに現実的な「経済的理由」を答えとして述べたイヌイットの職人さんたちを観ていると、逆にそんな幽霊みたいなものが彼らのコミュニティーには身近にごくあたりまえのように生き延びているのではないかと思った。


「旅する版画:イヌイットの版画のはじまりと日本」カナダ大使館高円宮記念ギャラリー
2011年1月21日(金) ~ 3月15日(火)
http://www.canadainternational.gc.ca/japan-japon/events-evenements/gallery-20101116-galerie.aspx?lang=jpn

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たまたま宮沢賢治に関するテキストを読んでいたら興味深い記述あり。

「春と修羅」の中で賢治は「わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です(あらゆる透明の幽霊の複合体)」と書いている。
日本語における「私」の特徴に関連してベアリー・サンダースという人は、「私」の複数形で「私たち」を表現するユーラシア北部や東南アジアの少数の言語における「私たち」が、祖先崇拝の信仰を基盤として「死者」を含んだ概念としていることに注意を喚起している。
賢治が「わたくしといふ現象」を仮像と呼び、「あらゆる透明の幽霊の複合体」として説明したのは、「私」という日本語の古層に横たわる心性を洞察したものだろう。

天才の感受性は恐ろしい。絶えず死者のまなざしにさらせれていたという賢治14歳時の短歌、
 うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむ青きものあり
この「青」のイメージが怖い。


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年末に路上の安売りで買ったDVD「第9地区」を観る。
韓国滞在中にイスラエル人アーティストのヨハイのビデオ作品が件の映画のイメージに似ているね、という話題になり「ノブも観た方が良いよ」と勧められて気になっていたもの。
移民してきた宇宙人に対しても人種問題(?)が存在するという新しい観点からのストーリーで笑える。
10年位前の宇宙戦争映画「スターシップトゥルーパーズ」が宇宙人相手のネオコンの話ならば、こちらはリベラル?
いずれにせよ日本人にはない発想の映画。面白かったです。


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画商さんに誘われてオペラシティの曽根裕展のオープニングへ。
曽根さんは近しいところで共通の友人が何人かいて、その逸話は何度も聞いていたけれど今回初めてお目にかかることが出来た。
いやはや聞きしに勝る大変なパワーを持った人で、踏ん張って立たないと仰け反ってしまいそうなくらいの圧力。無茶苦茶面白い人だけれど緊張した~。
展覧会もまた大変なパワーを感じた。
曽根さんの作品の持つ「力」というのは何なんだろう?
感想を聞かれたので、とにかく「強い」ですねーと私。
会場で体験した空気は今までに観たことがないものなのだと言うと
「そう、誰も作ったことがないものを作れないのに、アーティストという職業を選んでしまったら、、、それは辛いよねえ」と曽根さん。
厳しい。
曽根さんには自分が作るべくして作った作品には当然世界の共通言語で語られ得る力があるのだという確信があるのだろう。それは多分修羅場を何度もくぐらなければ得られないものだろうし、彼の作品の持つ「力」の根源はそこにあると思う。
曽根さんは自分は詩人であると言う。メキシコでポエムという言葉は北欧ではコンセプトと同義なんだよと言っていたが、ここまで走り続けてやっと、好きに語る言葉がそのまま人々に大切な意味を持つようなところまで来たということだろうか。
いずれにせよ世界に対して日本を代表する数少ないアーティストの一人であることは間違いないだろう。

曽根さんは、1月にこの展覧会をやっておけば、これが今年日本で数々催されるであろう現代美術の展覧会のメジャメントになる、そしてそのまま日本を去るのさと冗談半分に言っていたがなかなか興味深い発言だ。
欧米人のアート関係者は観たことも聞いたこともない新しいアイディアを尊重するのに対して、日本人はまだまだ分からないものを拒絶する傾向があるように思う。
この展覧会は本当の意味で欧米の価値観の中で揉まれ生き残ってきた作家による本物の「アート」に触れる格好の機会であると思う。
先日読んだエルメスに於ける展覧会の曽根さんのテキストではないけれど、自分がどうしてもやりたいことをやり切る,そんなシンプルなことの厳しさ、難しさ。
そしてその結果その作品から感じられるアートの本当の楽しさ。
とても元気づけられる展覧会でした。

曽根裕展 Perfect Moment 東京オペラシティーギャラリー
http://www.operacity.jp/ag/exh126/

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初詣  




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というわけで明けましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
今年は白洲さんじゃないけれど2009年の暮れに体験した春日大社の若宮祭りのような体験を作品に反映すべく、コアな日本の神様を探求したいなあと思っていたら、早々に親父と兄貴に便乗して鶴ケ丘八幡宮へ初詣することができた。
久々に観る大銀杏も何とか根付いたらしく、分断された二つの大株ともに小枝が吹いていた。
(もっとも一方は幹に残った栄養を吸って芽吹いた可能性も捨てきれず、未だ予断を許さぬらしいけれども。)
宮司さんにもお話を伺う機会があり、その中で中国の大学で講演された時の逸話が興味深かった。
日本では生前に善行悪行をしたに関わらず亡くなればチャラで皆神様になって祭られるという非常にアバウトな習慣があるのに対し、中国では生きている時の行いが死後も九十九代祟る、という話を聞かされたらしい。
例として南宋の時代に金と和平を結んだ時の宰相・秦檜(しんかい)は異民族に国を売ったとして、その死後彼とその妻の銅像にむち打ったり唾を吐きかけたりする習慣が残った(写真参照)。そして驚くべきことに今なおその風習は残るとのこと。秦檜が死んだのが1155年だからおよそ800年!もの間延々と唾を吐きかける中国の人々の気持ちを我々はどうやって理解できるだろうか?
それだけ背景にある歴史や風習が違うもの同士だが隣人としてうまくやっていかねばならないね、~というお話なのだが、さておき本年も我が国にとっては引き続き大変な状況が続くであろうことは間違いなかろう。

まずリサーチと昔の別冊太陽やら芸術新潮やらを引っ張りだしてきて「さてどの神様からあたろうか、、」とほくそ笑んでいるのだけれども、尊敬する「独立自尊」福澤諭吉が若かりし頃に「裏の鎮守の祠からご神体を持ち出して小便をかけてやったけれども何ともなかった」なんてのを読むとはやる気が少し治まる。(今、これまた昔読んだ「福翁自伝」を読んでいるので。。)
ともあれ神社に参拝して二礼二拍一礼するのは気持ちがすっきりする。新年ともなればなおさらだ。
結局神様があってもなくても独立自尊、己の心持ち次第ということか。


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