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親鸞の師、慈円

2024年04月18日 | 正しい絶望のすすめ

『親鸞に秘められた古寺・生涯の謎』(山折哲雄編者)からの転載です。

 

 

親鸞の師、慈円

 次は親鸞出家の師となった天台憎慈円である。

 慈円は摂政・関白を務めた藤原忠通の子で、久寿二年(1155)の生まれ。源平合戦期に政界の中枢に身を置いて摂政(1186~91)・関白(1191~96)を歴任し、かつ政界引退後は法然に深く帰依した九条兼実は、同母兄である。

 慈円は永万元年(1165)、十一歳のときに比叡山延暦寺に入り(入室)、覚快法親王(鳥羽天皇皇子)の弟子となる。仁安二年1167)に出家し、当初は道快と袮して密教を学んだ。養和元年(1181)に慈円と改名。建久三年(1192)、三十八歳のときに天台座主(延暦寺のトップ)に就任し、後鳥羽都連の優の護持僧となった。関白兼実の後押しもあったのだろう。この後にも、慈円は三度、天台座主に任じられており、晩年まで仏教界の重鎮として活躍し、政界にも影響力をもった。嘉禄元年(1225)に七十二歳で病没。歌人としても名高く、また歴史書『愚管抄』を著している。没後に慈鎮和尚の名を贈られている。

 つまり、摂関家出身の慈円は天台宗の本拠である比俶山延暦寺きっての高僧であり、九歳の親鴬はこの高僧を師として延暦寺に入り、修行僧となったのである。

 慈円が青蓮院の門主も務めてこれを大きく発展させたためか、現在は京都市東山区粟田囗に所在する青蓮院で親鸞は出家したといわれることが多い。しかし、『親鸞伝絵』には親鸞が連れて行かれた場所について慈円の「貴房(往房)」と記すのみで、そこが青蓮院であったと記しているわけではない。

 しかも、親鸞が出家した治承五年(1181)の時点では、青蓮院は、比叡山上の延暦寺東塔と、山下の三条白川(ほぼ青蓮院の現在地)の双方に所在していた。この時代には延暦寺の高僧は山下の住房に常住することが怛例化しつつあり、その影響で、山上のに青蓮院に付属するかたちで、山下にも青蓮院の坊舎(里坊)が設けられていたのだ。そして後年、山上の青蓮院は衰退し、山上の青蓮院だけが残り、現在に至っている。

 したがって、親鸞が訪ねたのが、山下の青連院(里坊)ではなく、山上の青蓮院(本坊)であった可能性もないわけではない。

 さらにいえば、養和元年時点では慈円はまだに青蓮院の門主ではなかった。ただし、当時の慈円が、門主ではないにしても、青蓮院に出入りしていた可能性は充分考えられるので(慈円の師覚快は青蓮院第二世門主でもあった)、親驚が訪ねたのがやはり青運院であった可能性は高い。

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