仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

自分という物語

2011年11月30日 | 日記
深夜便(23.11.29)“明日へのことば”は、昨日に続き「国際ボランティアが”被災者”となって(2)」と題してNPO法人・地球のステージ代表で精神科医である桑山紀彦さんでした。


お話の中で、特定非営利活動法人「地球のステージ」が非営利活動として運営する津波祈念資料館のことを熱く語られました。http://tsunami-memorial.org/policy.html

震災当日から24時間開院し、今も被災者の声に耳を傾けている桑山紀彦さんは、被災者の方々が、記憶が途切れてしまっていて、夜中にうなされる人が多い。桑山さんによると、震災から約2カ月が過ぎたころから心の問題が噴出し、3カ月を超えるとPTSDになって表れる。「PTSDは記憶に関する病気で、衝撃が大き過ぎるとうまく忘れることができないのです」。うまく忘れるためには、いったん記憶を取り戻すことが必要で、その自分の物語を紡ぐ場所であり、それがその人の治療にもつながるという。

「災害のあった人の記憶が飛んでしまっている。」ことを聴きながら、今月5日(23.11月)に開催された「がん患者・家族の語らいの会」(築地本願寺にて)のグループで、あるがん患者遺族の方から、死別当初、亡くなった夫との楽しかった記憶がどうしても思い出せなかったという述懐があったことを思い出しました。

その折、丁度、グループに参加されておられた埼玉医科大学医療センターで、精神腫瘍科「遺族外来」を担当されているO先生が、最近そのことに気づいて調査したら80人中6名の遺族の方が同様な症状があったとご紹介されました。

あまりにも重たい体験で記憶が押しつぶされてしまうようです。良くも悪くも自分という物語がつながっていることの大切さを思いました。
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自信から希望は生まれる

2011年11月29日 | 日記
深夜便(23.11.29)“明日へのことば”は「国際ボランティアが”被災者”となって(1)」と題してNPO法人・地球のステージ代表で精神科医である桑山紀彦さん(H23.9.13放送の再放送)でした。

東北国際クリニック院長・NPO法人「地球のステージ」代表・医療支援活動に従事して渡航国は50カ国を越えるそうです。

災害の中で医療活動を続けた様子が語られ「災害当初は、明日ことを考えると不安で今のことしか考えられなかった」(意趣)と語っておられました。

ラジオを聴きながら、どっかで聴いた記憶があると思いを巡らしたらH・エリクソンが言っていたことだと思いだされました。

幼児期は基本的信頼を身につける。母親への信頼のうえに、自分を信ずることができ、自分を信ずることができたとき、未来に対して希望を持つことができるというものです。

災害によって、根こそぎ失われた状況下、自分に対する自信が奪われることは、未来への希望も持てないということです。

災害や災難、失業での、安易な希望を示すよりも、まずは自分に対して自信を持てることが最も大切なことなのでしょう。ラジオを聴きながら思ったことです。

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房総から見る富士山

2011年11月28日 | 浄土真宗とは?
昨日は、午前、午後と千葉県市原市と館山市のご寺院で報恩講のご法話。館山市は柏から135キロの地、房総半島の最南端です。千葉県は鎌倉時代、房総半島南部の君津あたりが中心で、上総(かずさ)といい、今は首都圏である柏あたりは下総(しもうさ)といって辺鄙な地でした。

今日、館山の帰り、海越えに見える富士山の全景の大きさから、そのことを実感しました。富士山が大きいこと。鎌倉には、柏から3分の1の距離です。東京湾を隔てて対岸に鎌倉があります。

早朝7時10分に出発したら、市原へは、だいぶ早く着きすぎました。控室に通され暇つぶしに書棚にあった『松本人志 仕事の流儀(ヨシモトブックス)』をパラパラとめくっていたら「オカンが僕の赤ん坊に投げかけた感動的な言葉」という章に下記の文面がありました。

娘が生まれたばっかりのころ、うちのオカンに、赤ん坊を抱かせたことがあったんです。
 そのときに、オカンが腕のなかの赤ん坊に向かって言った言葉が、けっこうすごかったんですよ……。いったいどういうつもりで言ったのかは僕にもよくわからないんですけど、いきなり「うわ~、あんた、どっから来たん?」つて言ったんです。
 「うわ~、あんた、なんなの? どっから来たん? どっから来たん?」つて、何べんも何べんも繰り返して。
 その場ではいちおう、「なにをわけのわからんことを言うてんねん、このババアが!」みたいなことを言い返しておきましたけど。でも、内心では「うわっ、あかん。これはちょっとあかんわ」と……。もう、なんかね、すごく込み上げてきたんですよ。
 いや、だって、すごい言葉の選択じやないですか。なんでうちのオカンが、突然そんな感動的なことを言うことができたのか……。(以上)


わかる気がします。初めてあった感動的な出会いの中で、赤ちゃんの上に宇宙の神秘をみる瞬間というものが確かにあります。46億年の地球の歴史から生み出されてくる滴のような存在への感動でしょう。

私はこの言葉に接したとき「これって何?」という疑問符が浮かびました。この疑問符を言葉にすれば、親鸞聖人がこの私という命は、いのちが始まって以来、暗黒の闇の中を経巡ってきたと述懐しています。(「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねに没しつねに流転して、出離の縁あることなし」)

一見すると、「どっからきたん」という感動は、肯定的な言葉であり、親鸞聖人の述懐は、マイナーな否定的な印象を与えます。

この両者は、どちらがいいか悪いかではなく、全く異質な領域から生まれ出てくる言葉であるとした方が、よさそうです。(続く)
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拙著『苦しみは成長のとびら』出版です

2011年11月27日 | 日記
出版社から、今手がけている本『苦しみは成長のとびらー仏教者からの処方箋ー』(太陽出版)が、「全国の書店に並ぶのは、12月1日(木)位になりそうです。なお、先生の手元には、12月2日(金)午前中着の予定です」とメールをいただきました。

この本は、このブログの「現代の病理」と「苦しみは成長の扉」「人生案内」をまとめたものです。売れればいいがと欲をかいています。

ひと月前、ある出版社から多くの人に安心と救いを与えるような「親鸞の言葉」(仮称)の出版の話と企画書が届きました。社内的な問題があり断ち切れましたが、私の実感としてですが親鸞聖人の言葉は、人々に安心を与えるというよりも、傷口に塩を擦り付けるような、徹底的に悪の自覚に追い込んでいくような迫力があって、とても一般受けはしないのではないかという印象でした。

それはそうです。人間の闇の深さは無条件に救われなければ救われようがないという、人類がいまだかつて
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モラルー自分を捨てる

2011年11月26日 | 現代の病理
国民目線という言葉が国会で流行っているが、総じて国民の目線の高さが高いと思う。目線が高いとは、自分の尺度や見識を基準として社会を見るということです。

昨日の産経(23.11.25)のコラムに作家の曽野綾子さんが次のようなことを書いていました。

ブータン国王歓迎の席に一川保夫防衛相が民主党議員の政治資金パーティーに出席するために欠席した。11月23日付の世界日報によると、一川防衛相は、「(ブータン国王に)手紙を出すことを含めてしっかりと対応したい」 「反省すべきところは反省しながら自分の職責をしっかり務めあげたい」と辞職の意志はないことを示した。
この一言でも一川大臣が全く常識に欠けた人物だということは分かる。一大臣が、国王に謝罪の手紙を出すなどということは無礼だということも分からないのである。自分の内閣の閣僚の不始末を国王に謝れるのは総理だけであり、一大臣はこういう非常識な行為をした時には、謹慎して世聞か忘れてくれるのを待つほかはないだろう。(以上)

一川保夫氏は、自分の常識が世界の常識だと思っているのです。自分の目線がすべてなのです。これは一川保夫氏に限ったことではありません。私を含めて国民の多くが自分の常識が社会の常識であると思っているきらいがあります。

原因の一つに、モラルの持っている優位性が理解されていないことがあります。モラルの優位性とは、モラルは、個人を小として、社会を大とする、すなわち自分を捨てて社会に合わせるという、自分を捨てることの優位性でもあります。

以前も書きましたが、皇室の方や門主のご挨拶を聴いて拍手はしない。拍手は評価の表れで、評価の対象としないということが拍手をしないということです。

葬儀の儀式が終わって導師が退出するときに司会が「ご丁重に…」という。にもかかわらず、参会者は興味があるのか、目線を落とすことなく、導師をしっかり見ている。目線を落とすことが低頭の意味があることを知らないというよりも、低頭という儀礼そのものを身につけていないのかもしれません。

自分を小さくすることの持つ優位性を一川保夫氏が理解していれば、曽野綾子さんに礼を言うべきだろう。頭を下げることは決して劣る行為ではないからです。
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