仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

大集個人主義

2018年11月30日 | 現代の病理
小浜逸郎氏の著書を2冊借りてきました。『人はひとりで生きていけるか「大集個人主義」の時代』(小浜逸郎、20001.10刊)は、8年前に刊行された本ですが、現代の多様化した社会は「個人主義化」ではなく「個人化」だという。その弊害ついて、次のように語っています。
 
 まずいのは、「大衆」が「個人主義化」すると、次の二つの大きな傾向が現れることです。
 一つは、権利や欲望がみな相対的に正しいものと見なされるために、何か優先的に正しいかの基準が消失し、それらの大衆的な権利や欲望がぶつかり合ったときに、これを調整する現地が見つからかくなることです。
 もう。一つは、これらの権利や欲望は、それら自身を行動の出発点としているために、そこから公共的なものへの関心が生まれてくる可能性がないことです。野放図に表出される権利や欲望は、あくまで個別的に分断されており、公共性への通路を持っていません。そのため、それらは、責任とか義務とかルール感覚といった、他者性への配慮がはたらく余地がはじめからないのです。

 要するに、これまで指摘してきたように、人間を孤立した個人の集まりと捉えるような誤りを根本から糺し、人間存在というものが、そもそもその本質からして関係存在であり、共同性によって支えられる存在であり、近しい間柄での共感を媒介にして自己を立たせていく存在であるという事実を、もう一度、徹底的に見直すところからやり直すしかないでしょう。(以上)
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キラキラネームの大研究

2018年11月29日 | 現代の病理
昨28日(30.11)、この一年の子どもの命名についての発表意地が出ていました。男子は「蓮
(れん)」、女子は「咲良(さくら)」だとありました。
以前紹介した『キラキラネームの大研究』(伊東ひとみ著)に、キラキラネーム命名の方程式が掲載されてありました。

① 漢字の訓読みの一部を切り取る
人気の漢字である「心」を「ここ」って読ませたり、「夢」を「ゆ」と読ませる名前が見られるようになっているという。


② 漢字の音読みの一部を切り取る
「桜」の音読みは「オウ」ですが、これを『美桜(みお)』のように「オ」と読ませる。
「梨桜音(りおね)」「莉桜(りお)」は、「桜」の音読み「オウ」の頭文字である「オ」を採用している。
 これも、「有」の音読みの「ユウ」から「ユ」をとって「有美子(ゆみこ)」とするな
ど、昔からある手法だという。

③ 難しい読みを用いる
「颯太(そうだ)」。「颯」は「颯爽」の「サツ」と音読することがほとんどだが、漢音で「ソウ」と読むと載っている。「栗東(かんな)」は、「栗」の訓読みは「しおり」。音読みでは「カン」と読む。


④ 珍しい名乗りを用いる
名乗りとは人の名前に限って慣習的に使われてきた読み方のこと。『葵』を、『まもる』と読む。ことが名乗りとして挙げられています。 前項の「栗東(かんな)」の「東」は「来」の旧字体。「倖田末未(こうだ・くみ)」の名前に使われているのと同じ字である。


⑤ 置き字を用いる
『桜良』(さくら)、『澪音』(みお)のように一字でも読めるけど、意味を持たせたり強調したりしたいときに使われる。

⑥  漢字のイメージ(意味)で読む
『輝星』と書いて『きらら』のように星が「きら(き)ら」輝いているイメージから。

⑦ 熟字訓を分解して用いる
熟字訓とは、漢字2字以上の熟字に対してのもので、一字ずつには分解できないもののことをいいます。それを名前では本来分解できないものを分解して使う例がある。「大和(やまと)」という熟字訓がありますが、これの「和(と)」を取って、「陽和(はると)」と読ませる。


⑧ オリジナルの熟字訓を創作する
これは著書の例を挙げると「愛夜姫」と書いて「あげは」と読ませる。

⑨ 外国語読みにする
『騎士』と書いて『ないと』とか、『月』と書いて『るな』、『海』(マリン)、『紗冬』(シュガー)など。

⑩ 外国語の音に漢字を当てはめる
『ジュリア』という名前を『樹里亜』と漢字をあてはめるということですね。


以上10方式でした。
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『「足るを知る」と、幸せになれる

2018年11月28日 | 日記
『「足るを知る」と、幸せになれる』(植西 聰)、目次しか読んでいないのですが、興味深かったのは、著者があげた項目に「自分の愚かさを知る」という提言がいくつもあったことです。浄土真宗の教えは「自分の愚かさが明かになる」ことです。この浄土真宗という考え方は、一般の「自己実現」という分野でも、役に立つように思われます。目次から拾ってみます。


半分うまくいったら、まずは「すばらしい」と満足してみる
ねばり強くがんばるために、完璧主義を捨てる 
10回チャレンジしたうち、7回は失敗してもいい
ダメな自分を許すことで、白分のいいところが見えてくる
「いいかげん」だからこそ、ダッスリ眠れる 
相手に「完璧」を求めると、人間関係が悪くなる
自己顕示耿が強い人は、その場の空気を読めない 
自分の欠点を自覚できるから、他者と助けあっていける
他人と自分を見比べると、心が虚しくなる 
見栄を張ると、後で虚しい気持ちになっていく 
「不完全な自分」を受け入れるほうが、前向きになれる(以上)


興味のある人は読んでみてください。
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日本語は哲学する言語である③

2018年11月27日 | 日記
『日本語は哲学する言語である』(小浜逸郎著・徳間書店)からです。

実体化作用
さて、言葉の持つ特性に、目で見たり手で触れたりできないものを、あたかもそうできるかのようにしてしまう働きというのがあります。これを「言葉の実体化作用」と呼ぶことにしましょう。たとえば、「心」という言葉があります。
だれもモノと同じように「心」を見たり触れたりした人はいませんね。
「社会」「自由」「精神」「観念」「美」「真理」「善」「平和」「平等」「人権」「命」など、みな同じです。
「言葉は思想そのものである」
言葉というのは、宅配便のように、Aさんが発送した荷物がBさんに届き、Bさんが梱包を説いてみたらその同じ荷物が出てくるというようなものではないのです。
つまり言葉は、単なる「手段」なのではなく、思想のやり取りそのものなのです。


 私たちは、あらかじめしっかりとした「思想」や「論理」をもち、しかるのちそれを「言
語」という規範形式に流し込むのではありません。そうではなく、言語の使用そのものが、すなわちそのまま思想表出なのです。
 たとえば心の中で何を言おうか慎重に考えてから囗に出すとき、あるいは囗に出さなくても、いわゆる「内言」という形で沈黙の状態を保つとき、すでに言葉は彼の内面で構成され、表出されているのです。それはいまだ語られてはいないけれど、言葉には違いないので、その水準ですでに思想として完成しているというべきでしょう。
 また私たちは、言おうと思っていたこととは別のことを言ってしまったというような経験をよくします。この場合、一見すると、「うちにある思想」と「外に現れた言葉」とが別物として分離している好例のように思われるかもしれません。
 しかし、そうではないのです。「思っていたこと」という言い方には、漠然とした感じから、よりはっきりとした言語表現までのグラデーションが含まれます。漠然とした感じでまだ表現にまで至っていない場合は「思想」とは言えないので、その状態が、実際に出した言葉との問に食い違いを生じやすいのは当然と言えましょう。
 また、かなり明確な段階まで内言としてまとまっている場合、それは思想と言って差し支えないですが、それでも囗に出した場合とで、食い違いを生じてしまうことがあります。聞き手との関係のあり方、その煬の雰囲気、こちらの気の弱さや感情に左右されやすい性格などが重なるのが普通だからです。このようなケースでは、同し人が内面と外面とで二つの異なる思想を表してしまったと考えるべきでしょう。
(以上)
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日本語は哲学する言語である②

2018年11月26日 | 日記
『日本語は哲学する言語である』(小浜逸郎著・徳間書店)の続きです。

 私たちは、すでに発達した文化の最先端を生きているので、ともすれば、言葉を受け取る器としての人間的な「意識」のようなものが初めからある、と考えがちです。しかし、そうではありません。人間的な意識は、永い人類史を通じて、生活行動や前言語的な音声交流の共同実践によって、個体を貫く構造として作られてきたものです。人間的な意識が「因」で、言語が「果」であるのでもなければ、逆でもありません。両者は相即的なものとして、同時発展してきたのです。そうしてこの人間的な意識のあり方は、その基底部において、いま述べた「音響」の特性にぴたりと適合しているのです。
  
 同じ音響でも、音楽や騒音のように、言葉ではない音と、言葉としての音(音声言語)とは、いったい何か違っているのかという問題です。
 しかしこの問題は難問ではありません。音声言語は、音響でありつつ、「指示的な意味」を必ず伴っているので、私たちの主要な関心はそちらの方に惹きつけられ、その純粋に音響的な側面は、背景に退いてしまうのです。もちろん背景に退きはしますが、まったくなくなってしまうわけではありません。

現実の音声交流において、発話者は言語的な趣、意、情緒、世界把握の仕方といったものを、音声というなまなましい肉体的な表出(高低、強弱、長短、声調、抑揚、用語の選択、統辞の仕方などを含む)のうちにすべて込めます。受け取るほうはそれらのすべてをなるべく発話者の表出どおりに受け瑕って状況を共有しようとします。この生きた「共有ゲーム」の現場こそが、言葉の本来のいのちが息づく場所なのです。(以上)
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