小浜逸郎氏の著書を2冊借りてきました。『人はひとりで生きていけるか「大集個人主義」の時代』(小浜逸郎、20001.10刊)は、8年前に刊行された本ですが、現代の多様化した社会は「個人主義化」ではなく「個人化」だという。その弊害ついて、次のように語っています。
まずいのは、「大衆」が「個人主義化」すると、次の二つの大きな傾向が現れることです。
一つは、権利や欲望がみな相対的に正しいものと見なされるために、何か優先的に正しいかの基準が消失し、それらの大衆的な権利や欲望がぶつかり合ったときに、これを調整する現地が見つからかくなることです。
もう。一つは、これらの権利や欲望は、それら自身を行動の出発点としているために、そこから公共的なものへの関心が生まれてくる可能性がないことです。野放図に表出される権利や欲望は、あくまで個別的に分断されており、公共性への通路を持っていません。そのため、それらは、責任とか義務とかルール感覚といった、他者性への配慮がはたらく余地がはじめからないのです。
要するに、これまで指摘してきたように、人間を孤立した個人の集まりと捉えるような誤りを根本から糺し、人間存在というものが、そもそもその本質からして関係存在であり、共同性によって支えられる存在であり、近しい間柄での共感を媒介にして自己を立たせていく存在であるという事実を、もう一度、徹底的に見直すところからやり直すしかないでしょう。(以上)
まずいのは、「大衆」が「個人主義化」すると、次の二つの大きな傾向が現れることです。
一つは、権利や欲望がみな相対的に正しいものと見なされるために、何か優先的に正しいかの基準が消失し、それらの大衆的な権利や欲望がぶつかり合ったときに、これを調整する現地が見つからかくなることです。
もう。一つは、これらの権利や欲望は、それら自身を行動の出発点としているために、そこから公共的なものへの関心が生まれてくる可能性がないことです。野放図に表出される権利や欲望は、あくまで個別的に分断されており、公共性への通路を持っていません。そのため、それらは、責任とか義務とかルール感覚といった、他者性への配慮がはたらく余地がはじめからないのです。
要するに、これまで指摘してきたように、人間を孤立した個人の集まりと捉えるような誤りを根本から糺し、人間存在というものが、そもそもその本質からして関係存在であり、共同性によって支えられる存在であり、近しい間柄での共感を媒介にして自己を立たせていく存在であるという事実を、もう一度、徹底的に見直すところからやり直すしかないでしょう。(以上)