仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

〈運ぶヒト〉の人類学

2020年08月31日 | 日記
引き続き川田 順造氏関連の本です。『 〈運ぶヒト〉の人類学 』(2014/9/20・川田 順造著)
からの転載です。


直立二足歩行のはじまりは?
 二〇〇一年、熱帯アフリカ、サハラ砂漠中部の南縁にあたるチャドで、立って二本足で歩いた可能性かおる最も古い、七〇〇万年前の猿人の頭蓋骨が発見された。ミッシェル・ブリュネ博士(1940年フランス生まれ)の率いるフランストチャド共同チームが、二〇〇二年、イギリスの科学誌『ネイチャー』四一八号に発表したこの報告は、関連学会に大きな衝撃を与えた。
 ヒトの起源地がアフリカであることは確定されていたが、現生人類への進化に向かう最も古い段階にある猿人の骨は、それまで南アフリカからエチオピアにかけての、アフリカ東部からだけ発見されていた。

若いころ西アジアの初期人類調査団に加わって、発掘調査の経験を積んだブリュネさんは、四四歳でアフリカの発掘をはじめた。チャドに行きたかったのだが戦乱のため入国できず、チャドの西南に隣接するカメルーンで、10年あまりねばり強く発掘をつづけた。中生代(白亜紀)の化石を数多く発掘した。アフリカ大陸で中生代の哺乳類の化石が発見されたのは初めてだったが、
目当ての類人猿の化石は、一つも見つからなかった。
 チャドの戦乱がやみ、一九九四年、発掘調査の許可かおりた。翌年には、はやばやと猿人アウストラロピテクスの下顎骨を発見、「イーストサイド・ストーリー」は、修正を迫られることになった。この発見がきっかけとなって、フランスーチャド古人類学調査団が生まれ、調査は一気に進展した。そして二〇〇一年七月一九日、調査団のメンバーで、化石探しの達人と言われていた、チャドの大学生アフンタージムドウマルバイエさんが、ついに、この最古の直立猿人の頭蓋骨を掘りあてた。
 同じ『ネイチャー』誌に、東京大学の諏訪元教授が、エチオピアで四四〇万年前の地層から、ラミダス猿人の上顎部臼歯を発見した報告を書いたのは、ブリュネ調査団の報告が発表されるわずか八年前、一九九四年のことだ。
ブリュネさんが現地語での愛称「トウーマイ」王命の希望)と名づけたこの化石によって、ヒトの遠い先祖である猿人の直立二足歩行の起源は、一挙に七〇〇万年近く前までさかのぼる可能性が出てきた。


直立二足歩行によってヒトの祖先が得たものは、とくにつぎの三点に要約される。これらは、互いに密接に関連しているが、いずれも直立二足歩行の開始からかなり後になって、その結果としてヒトの特質となったものだ 第一は、すでに述べたように、四つ足歩行では、後頭部を引きつける筋肉の付着する頭蓋後部の骨が厚くなるため大きな脳をもてないが、直立によって、大きな脳を支えることが可能になったことだ。
 第二は、直立によって声帯が下がり、口腔の構音器官が多様化して、分節された発声が可能になったことだ。生物界でヒトだけがもつ、二重に分節される言語‐ある言語で用いられる音の最小単位からつくる、意味をもつ最小単位をさらに組み合わせて、無限に多様な意味の表現ができるーは、ヒトを他の霊長類から区別する、きわめて重要な特徴だ。
 そして第三に、すでに述べたように、ヒトは直立した歩行と、自由になった前肢とによって、相当の嵩と重さのものを、長い距離運べるようになった。(以上)

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人は二回死ぬ

2020年08月30日 | 浄土真宗とは?
昨日紹介した川田 順造氏関連です。『文化の三角測量―川田順造講演集』 (川田 順造著)、著者は、東京大学教養学科(文化人類学分科)卒業し、パリ第五大学で日本人として初めて、アフリカ研究で博士号を受けた人で、フランス・アフリカ・日本──三つの文化比較の特異な観察手法から見えてくるヒト、モノ、社会などを論究されている人です。この本の中に次のような記述があります。(以下転載)

私は、人は二回死ぬと思っています。一回は生物の個体として死んだとき。もう一つは、その人の記憶が生きている人の中に受け継がれなくなったとき。ある人の記憶が受け継がれて行けば、その人は人々の心の中に生きているわけです。もちろん個人的な思い出がけではなくて、著作や音楽や絵画、その他、作品を残しした人の場合は作品を通じても、生き続けていくわけです。
 こういう問題を考えるのに、私か感銘を受けたのは、紀元前後の頃インドにいたナーガールジュナ、漢字では「龍樹」と書く大乗仏教の基をつくった思想家です。『龍樹論』というのはいろいろな形で読むことができますが、うんと簡略化して言えば、生起との依存関係によって消滅があり、消滅との依存関係によって生起かおるということです。だから、何かかおるということは消えるということとの依存関係の中であり、消滅するというのも、あるということの依存関係においてある。
こういう、「色即是空」という考え方にも通じると思うのですけれども、存在と消滅とが対立としてではなくて、相互の依存連関の中であり、絶えず変転していると言えばよいのでしょうか。
 ですから、例えばこういう思想が現在でも私をけじめとしてそれに共鳴する人がいる限りは、このナーガールジュナという人はまだ人間の心の中に生き続けているはずだと思うのです。(以上)

上記の理屈で言えば、すべての人を救うという法の用きである阿弥陀仏に帰依する人は、その人が死んでも、阿弥陀仏の存在の尊さとして生き続けるとなります。

もう17回忌を終えた父が食道がんになり、入院しているときに住職である父に、死を目前にしている「浄土へ往生したら何がしたいか?」と訊ねたことがあります。父は「南無阿弥陀仏の念仏になる」と言いました。

私はいま南無阿弥陀仏と称える中に、父と出会っています。父だけではなく、念仏を明らかにして下さった親鸞さまとも、私の知らない名もなき人たちにも、南無阿弥陀仏の念仏を通して触れあっていくようにも感じられます。
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声の力

2020年08月29日 | 浄土真宗とは?
『コトバ・言葉・ことば―文字と日本語を考える』 (2004/4/1・川田 順造著)、著者は、主としてアフリカ原住民の言葉や文化を研究してきた文化人類学者であり、広い見地から日本語論を展開しています。

その本の中に「声の力」というタイトルのついた記述があります。念仏との関連から、転載しておきます。

 宣誓、読経、祝詞--みな、声の力が欠字を凌駕している。釈迦心孔子心、キリストもマホメットも、偉大な子言者、教示者は、声の力で聞く者の魂を変えた。声による教えを文字に書きとめたのは弟子たちだ。
 声には、理性を超えて、人間の生理の最も奥深い層にまで、じかに届くような力がある。聞きわけがいい、聞きいれる、そりゃ聞こえぬなどという表現にも示されているように、「聞く」という行為には、声で発せられた指示への服従の意味がこめられている。文字に書かれたことばを、目で主体的、意志的にたどり、必要があれば途中で読むことをやめ、好きなだけ時間をかけて考えながら、理性によって理解するという行為とは、かなり人間の大脳や神経の生理のメカニズムとしても違った行為なのであろう。
私たちは言語というものを媒介として、声で発せられることばと、文字に書かれたことばとを、連続したもののように考えがちだ。そしてそれは、アルファベットなど表音性の大きい文字体系については、かなりの程度あてはまる。だあが、漢字など表意性、図形記号性の大きい文字については、声で話す、聞くという神経のはたらきと、文字で書く、読むというはたらきとは、別の系統のものだにということが、最近の脳神経生理学の実験的研究でも明らかにされてきている。音声言語にまるコミュニケーッションのできない失語症の患者でも、漢字を知っていれば、読み書きによるコミュニケーションが可能である。
 文字はホモ・サピエンスの、それも人類全体の歴史からみれば、ごく一部分が用いているに過ぎないが、音声言語は人類に普遍的にあるし、分節の度合いはさまざまであるにせよ、声によるコミュニケーションは、人間以外の動物にも、カエルやコオロギにいたるまである。それだけ声は、人間だけのものでない、動物的というより生物的な基盤をもったコミュニケーションの媒体なのであろう。そして声は、功利性や伝達上の意味などを度外視して、もっと衝動的に、生々しく、「発せられる」ものでもある。
応援に熱中して思わず発する叫び、好い気持で風呂にひたって、あるいは夜風に吹かれてひとり歩きながら、つい声になって出る歌。断末魔の叫び、性的興奮の絶頂感の中で発せられる声、宗教的エクスタシーから押し出される意味不明のダロッソラリア。これらの声は、かなり動物的な次元のものとみなすことができるだろう。

逆に、本能的なようでいて意外に文化によって条件づけられていると思われる声に、掛け声がある。これは日本やアジアの一部の社会で、武道、芸能、そして西洋渡来のスポーツにいたるまでの身体行動に伴って発せられるが、欧米やアフリカなど他の多くの人間社会にはない。
 日本社会はとくに、掛け声にみちている。日本文化を「掛け声文化」といってもいいくらいだ。立ったり坐ったりするときも「どっこいしょ」という。野球やテニスの練習でも、ことばとしては聞きとれない叫び声を、みんなで互いに発している。運動部のランニングでも、リーダーが声高く「ファイトー」と叫ぶと、一同それをひきとって、走るリズムに合わせて、「ファイトーハイ・ファイトーハイ」とやる。これなども「ファイティンダースピリット」つまり闘志を意味する英語に由来する「ハイトー」という日本語なのだが、もとの英語圈の国では、私も興味をもって訊ねてみたが、こういう現象はない。
 祭礼のみこしかつぎからデモ行進にまで用いられる「ワッショイ」。武道各種の掛け声の大切さは言うまでもないか、芸能においても、能辛歌舞伎のはやし方、義太夫の三味線や浪曲の曲師の掛け声。義太夫などは、三味線と微妙にずらして、しかも朧の底からしぼり出すようにして語るので、意地悪い三味線に、悪い間合いではげしく掛け声を入れられて、腸捻転を起こした太夫もあったという。
 日本社会に、これほど掛け声が蔓延している理由は何かのだろう。日本人は“緊張民族”といわれ、確かにリラックスすることが不得手で、緊張と真面目に大きな価値を与えてはいるが、それだけで説明できるものかどうか。声の文化に関心をもつ私にとっても今後の研究課題の一つだ。(以上)

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苦悩する人々にわれわれができること

2020年08月28日 | 苦しみは成長のとびら
先週の『産経新聞』(2020.8.20)「正論」に、「苦悩する人々にわれわれができること」山崎章郎氏が、この度の安楽死殺人について執筆されていました。最後の部分だけ転載します。

 苦しい思いに耳を傾け
 ところで、全ての人は、生まれてから、死ぬまで他者との関係性の中で生きており、その他者との関係性の中で、その時々の自己を認識している。
 例えば、喜怒哀楽という自己認識も、全て、その時の他者との関係性に依拠していることに異論はないだろう。
 とすれば、生きる意味がないとか、早く死にたいと思わざるを得ない状況における自己認識もまた、その状況における、他者との関係性に依拠している、と言っても過言ではないだろう。
 しかし、そのような自己認識にいきなりたどり着くのではなく、その時の他者との関係性の中で、行きつ戻りつ、追い詰められて、そのような思いになるのだと思う。
 もし、そのような状況でも、自己肯定できるような他者が出現すれば、その他者との関係性の中に、その人は、新たな生きる意味や希望を見いだせるのではないだろうか。
 我々の役割は、そのような人々の苦しい思いに耳を傾け、その人が直面している困難に対して、具体的な支援を行い、共にその時を歩みながら、その人が自ら、自分にとっての、真に拠り所となる他者を見いだすことができるように支援することなのではないのか、と私は思うのである。
      (やまざき ふみお)
(以上)
「そのような状況でも、自己肯定できるような他者が出現すれば、その他者との関係性の中に、その人は、新たな生きる意味や希望を見いだせるのではないだろうか。」とあります。東京でのビハーラ活動も、どの様な状況にあっても自己肯定できる考え方、価値観、人間関係を模索し実践しています。
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人間と動物の違い?

2020年08月27日 | 日記
『人間はどういう動物か』、著者は、昨日書いた“動物行動学の日高敏隆である。ある学際的な会議で、「人間と動物の違い」について論じようとした学者を制して、「人間とそれ以外の動物の違いと言ってください」とおっしゃった。”人です。以下転載です。


 人間は、「人間が動物だ」ということは概念的には認識している。しかしどうも、「人間は動物とはちがう、動物よりも一段上の存在だ」と思いたがっているようだ。「人間もしょせんは動物だ」と言うときに、なにか悲観的な空気がただようのはそのためである。だから「人間と動物はどこがちがうか」という変な問いかけをするのである。「ネコと動物はとこがちがうか」と聞く人はいないのに、「人間と動物はどこがちがうか」と聞くのはかまわない。非常に変な話である。
 それをすこし進めて「人間はどこまで動物か」という表現も流行った。この言いかたの根底にあるのは、人間と動物は同じ線上にはいるが、人間は先のほうにおり、動物は途中までしか来ていないという認識である。これは、偏差値が何点であるかを決めるのと同じような感覚であり、国を先進国と途上国に分けるのと同じ論理であろう。
 途上国も、以前は後進国と言っていた。ところが、後進国と呼ばれた国々が、「失礼だ。われわれは後進ではない。今は途上にあるのだ」と反発したので、言いかたを変えたのである。後進では駄目だが、途上ならいいという感覚は、ぼくにはさっぱり理解できない。
 すこし知的な人は、「でも、人間はとてもユニークです。頭がいいし、ことばを使うし」と言う。たしかに人間はユニークである。しかし、ユニークと言えばネコもユニークである。ネコはライオンやトラの仲間であるが、ライオンとネコを見まちがえることはない。それはネコがユニークだからである。ゾウやキリンやモグラがそれぞれにユニークな動物であるように、人間もやはりユニークな動物であるにすぎない。 たとえばゾウがいる。子どもたちはゾウが好きで動物園でも人気があるが、よく考えてみると、あれは変な動物である。息をするための鼻を、あんなに長くしてしまったのだ。鼻でえさをとろうとか、物を運ぼうとか、水を吸ってシャワーを浴びようとか、どうしてそんなことを考えたのだろうか。
 鼻を長くすると、頭骨を大きくしなければならないから、頭が大きくなる。しかも人間のように丸い頭骨ではなく、縦に長い頭骨にしなければ長い鼻を支えきれない。頭を大きくするにつれて、体も大きくなる。重くなった体重を支えるために、どんどん足が太くなる。そうして、あんな巨大な動物ができてしまったのである。
 そのように考えてみると、どの動物もみんなどこか変である。ヘビも変だ。ヘビはもともとは足が四つあったはずだ。それが、なぜかは知らないが、足をなくしてしまった。それであんなニョロニョロした生きものになってしまったのである。
 われわれが「人間はどこまで動物か」と聞くのは「ヘビはどこまで動物か」と問いかけるのと同じぐらい意味のないことであろう。
 われわれが今、問うてみるべきは、「人間とはいったいどういう動物か」ということなのである。ネコにせよ、ゾウにせよ、ヘビにせよ、動物はその種によっておのおのみな生きかたがちがう。それにしたがって体の構造もみなちがっている。では人間は、どのような動物であるのか。
 二〇世紀という時代には、われわれ人間は動物よりもえらいと思いこんでいたようだ。それで、えらい人間には理性がある、知性があるなどと考え、いろいろなことをやったのであるが、二〇世紀の間に戦争はついになくならなかった。ニー世紀になったその年の秋にはテロ事件が起こったのである。そのようなことを見ると、やはりこのへんで「人間とはいったいどういう動物なのか」ということをきちんと考えてみるべきであろう。(以上)
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