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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

宗門教学会議

2013年05月31日 | 日記
浄土真宗本願寺派の『宗報』(2013.4月号)に、本願寺伝道院で開催された「宗門教学会議」のことが掲載されていました。宗門の今度のことについて学識者が提言したという内容です。
1つ1つの提言について、宗門人は、どう答えていくかが。問われています。

宗門外の提言者、横山氏は「東日本大震災」、島薗氏は「現代社会と宗教ー思想・哲学からー」、金氏は「公共哲学・社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」について発題があったというものです。後日、書籍として出版されるとのことです。

ますは提言をご紹介します。

 横山禎徳氏 (よこやま よしのり)
 東京大学エグゼクティブ・マネージメント・プログラム企画・
推進責任者。
 国会東京電力福島原子力発電所事故調査委員会委員

現代社会における思想、 哲学の重要性と宗門の責務

 横山氏は、過去の時代にもまして、現代社会には思想あるいは哲学が必要になっているという。たとえば束京電力福島原子力発電所事故調査委員会の報告書(五九〇頁)に、横山氏の委員としての思いが書かれているが、その中心は原子炉を守るのではなくて、「人のいのちを守る」という思想・哲学から発想すべきだということであった。氏は被災者、放射線の被害を受けた人たちの、その後の生活などの調査を担当したが、全面的に表現を被災者の視点に書き変えられたという。それまで、報告書ではそのような考えがもたれていなかったのである。

トランスサイエンス

 「トランスサイエンス」という言葉がある。科学が問いを発することができるが、科学のみが答えることのできない領域をいう。3・11以降、現代社会はトランスサイエンスの方向に転換する必娶が出てきた。先の事故調の例のように、原子力科学、生命科学、情報科学など、最先端の現場にこそ、科学の知だけでなく、しっかりした思想や哲学が必要になっているという。
 そして氏は、これらの社会的要望に対して、浄上真宗は向き今ってきたのかと問う。最先端の宇宙観とか人間観に関係することに対して、仏教はしっかりと向きあいどう考えるのか示すべきだというのである。このように、氏は宗門に、まず現代社会に向き合い、普遍的な思想を提示することを求められた。

課題克服への三層構造

組織改革は、単に組織を変えるだけではなく、人の意識や行動を変えるものである。組織が変わっても、人の行動が変わらなかったら、それは組織を変えたことにならない。本願寺派のような理念迫求型の組織には、それなりの必要な枠組みがあるという。
 それは「基本理念、果たすべき使命、行動指針」の三層構造である。すなわち、現在のような行動指針を有するだけでは不十分で、組織として全体を統括する思想と、今の時代に果たすべき使命とが明確にならなければならないという。全体を統括する思想とは数百年から千年以上持つもの、果たすべき使命というのは、数十年から百年ぐらい、行動指針は毎日のことに対するものとなる。宗門のような組織はこの三層構造に基づく構造的な対応が必要で、それを全体へ浸透させなければならない。
 このように氏は、長期的視野と思想で創造的に運用するための技術科学や、評価対策など、方法論をきちっと学び徹底するということが、組織としての本願寺派の喫緊の課題と述べられた。 (報告担当・坂原)

提言を読んだ感想です。

「現代社会に向き合い、普遍的な思想を提示す」とありますが、これからの浄土真宗僧侶は、何か1つ「自死問題」や「ビハーラ」「ホームレス」といった社会問題に関わることが常識となるよう育成段階で取り入れていかなければならないとおもいます。

浄土真宗という普遍的な思想は「愚の自覚」です。それは思想、科学といった人が作り出すものには、絶対なものはないということであり、常に相対化させていくことが重要になります。たとえば生命科学でいえば、生命科学の中にある愚かさを明らかにしていくことでしょう。社会生活の中で「愚の自覚」を明らかにしていく活動が求められます。
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物語を生きる⑦

2013年05月30日 | 日記
昔話は、個々の内容よりも、その物語を通して「因果応報」とか「弱肉強食」とか、生きる上での、より根本的なものを語りかけています。そのより根本的なものは、あまり意識されずに、物語に接した人に染み込んでいくようです。

送られてきた『現代と親鸞第26号』に佐藤欣子著『取引と現代』(中央公論新書)に下記の話があると紹介されていました。

ライオンとネズミを巡るイソップ童話、アメリカと日本では、小学校の教科書に書かれている童話の内容が全く違うという。日本ではネズミは寝ていたライオンの上に乗ってしまい、目を覚ましたライオンに捕まってしまう。そこでネズミは涙を流して謝って、そのためにライオンは可哀想に思って許してあげる。ライオシの情けに感謝したネズミは、ライオンが罠にかかったときに、網をかみ切って助けてあげる。そしてライオンは感謝し、かつでの無礼を詫びて、二人は仲良しとなる。
アメリカの小学校の低学年用のテキストには、ネズミはライオンなんか怖くないと仲間のネズミの前でライオンの頭の上に飛び乗ったところをライオンに捕まってしまう。捕まったネズミは謝るところか、精一杯意地を張って、助けてくれればいつかライオンを助けるだろうと取引を申し出る。ライオンは馬鹿馬鹿しいとは思ったものの、お腹が空いていなかったのでネズミを放してある。そして、ライオンが罠にかかったときに、ネズミが助けてくれ、かくてライオンはネズミを友人としては小さすぎるとは考えなくなった。


紹介されている物語は以上ですが、契約社会と信義を重んじ風土の違いが出ていておもしろいと思います。

物語の背後に埋め込こめられている考え方の違いは、こうして比べると明らかですが、ただ単に読んでいると意識されない場合が多いのではないでしょうか。「この物語が何を語ろうとしているのか」そうして視点をもって、昔話を読み返しても面白いかもしれません。

これは『仏説無量寿経』に示されている法蔵菩薩の物語についても言えることです。
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花物語②

2013年05月29日 | 日記
昨日紹介しました田中修著『植物はすごいー生き残りをかけたしくみと工夫』(中公新書)に、バラの話が紹介されていました。それを“知っていますか”西原祐治シリーズとして紹介いたします。これはギリシャ神話にあるという。

知っていますか

知っていますか。バラのとげの秘密を
ある女神が子どもをつれてバラ園に遊びに来たといいます。
あまりにも綺麗なバラに感動した子どもは、その花にキスしようとして唇を近づけました。
ところが、花の中には蜂がいて、近づいてくる唇にびっくりして、蜂は唇を針で刺してしまったそうです。
子どもが刺されて怒ったに女神は、蜂を捕まえ、蜂のからだから針を抜き取り、バラの茎につけたといいます。
それから、バラの花には、トゲが生えるようになったそうです。


知っていますか

知っていますか。赤いバラの秘密を
あるに女神か、恋人を亡くし、悲しみにくれて呆然とし、バラ園の中を、白い花を咲かせるバラを踏みつけながら、歩きまわったそうです。
足にバラのトゲが刺さり、足は傷だらけになり、真っ赤な血がぽたぽたと流れ出ました。たちまち、白いバラの花が真っ赤に染まり、それからこのバラ園には、真っ赤なバスか咲くようになったそうです。

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葉っぱ一枚に及ばない

2013年05月28日 | 生命倫理
土曜日(25.5.25)の仙台行、門信徒はバスでの直行でしたが、私だけは、法事を終えてからの出発でした。上野駅で購入した田中修著『植物はすごいー生き残りをかけたしくみと工夫』(中公新書)は、興味深い内容です。

本のまえがきに“「どんなに費用がかかってもいいから、水と二酸化炭素を原料にして、太陽の光を使ってデンプンを生産できる工場を建ててください」と誰にお願卜しても、引き受けられる人はありません。植物たちの一枚の小さな葉っぱがしている反応を、私たち人間は真似することができないのです”とあります。

人間の英知は植物の足元にも及ばないということです。本を読みながら、東京新聞夕刊(25.5.24)にJT生命誌研究館館長である中村桂子さんが書いておられた「いのちを大切にする社会へ」と符合するものがあり、興味深く、また考えさせられました。

以下新聞より抜粋。

確かに私たちは「お米をつくる」と言ってきたし、最近は「子どもをつくる」とも言う。言葉としては、「船をつくる」と同じだ。けれども、これらをそのまま同じと考えてよいものだろうか。船は材料に手を加えて目的のものをこしりえるという定義にピッタリだ。でもお米はそうだろうか。私たちはイネを育てているのであり、イネをつくり出すことはできない。いのちをもつものをつくる能力はないのである。「子どもをつくる」にいたっては、「材料にあれこれ手を加えて」ではないでしょうと疑問を呈したくなる。
 しかし、私たちがこの言葉を使っていることも確かだ。しかも、「卵子提供登録支援団体」というNPO法人が生まれ、実際にその活動の中で体外受精が行われるという動きがあるのでわかるように、「あれこれ手を加えて」という方向へと動いている。
ここで肝に銘じなければならないのは、ここで「目的のものをこしらえ出す」ことなどできない、生きものについては私たちにはそんな力はないということだ。いのちに向き合うとは、私たちの思うままにするという意識ですべてを動かさないということである。私は、この思いの徹底していない社会で卵子を動かすことには賛成しかねる。(以上)

生命科学の発展によって、生命そのものを作り出すことができるように、錯覚しがちですが、人間の生命科学は、葉っぱ一枚にも及ばないという、いのちに対する謙虚さを、生命科学の発展の中で、どう培っていくか。これは重要な問題です。
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人生は螺旋階段

2013年05月27日 | 日記
昨日・一昨日と仙台。門信徒と共に。飲み疲れです。一昨日(25.5.25)、早朝の深夜便「明日へのことば」は、「こころとからだをつなぐこと」と題して、びわこ成蹊スポーツ大学教授 豊田則成さんの講演(東近江市で4/27収録)でした。

あまり他にない研究をされている方で、東京オリンピックなどで金メダルを取った、世界一を体験したアスリートたちが、その後どう生きたかということを、著名な選手のもとへ行って質問をして、いろいろな話を聞きだすという研究です。

一度、世界一を体験した人が、リタイヤして生きていく場合、「アイデンティティー再体制化」をしなければなりません。また「アスリートとしての経験が、その後の人生にどのような意味を持つのか」ということを通して、見えてくる人間の普遍的な問題を探っておられるようでした。豊田則成さんの博士論文(2001年)は『アスリートの競技引退に伴うアイデンティティ再体制化に関する研究 』というものです。

競技引退というのはアスリートにとって重要な、重大な発達的危機であり、人格の発達や成熟にとって大きなチャンスになる。

最近、私は物語の話を良くしていますが、いったん完成された物語を捨てて、新しい物語の中にある私を作り出し生きていかなければならないのですから、世界一になったアスリートたちは大変です。

この研究によって、人間すべてが老いやリタイヤを体験するのだから、アスリートのこうした体験は、中年期の前倒し心理状態であり、「人生は螺旋階段のようなもので、上からみると、同じところを言ったに来たりしているようにしか見えない」とも語っておられました。こうしたマイナス面の持つ意味を探究することは、深みがあって、人間の重やうな部分に触れることができるので、陰ながら応援したいと思います。

一昨日のおすそ分けです。
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