『不安の哲学』(岸見一郎著・2021年6月1日刊)、以下転載です。
「老いは“退化”ではなく“変化”です。老いた今が若いときと比べて劣っているわけではなく、ただ老いているという状態にあるだけと見るということです。逆にいえば、健康や若さがプラスであると見る必要はありません」
「歳をとればできないことは増えます。しかし、だからといって不幸になるとは限りません。かつて持っていたものが今はないと不平をいう人は、若いときもそうだったに違いありません。そのような人は若いときも老いても何を手にしても満足しないでしょう」
「失われた若さや美しさ、健康を嘆くのではなく、自分が生きていることがそのままで他者に貢献していると思えることが、老年期の危機を乗り切るために必要です」
「ただ経験を重ねることでは賢くなれませんが、記憶力のような知力ではなく、いわば総合力としての知力を身に付けるためには、若いころからの長きにわたっての経験に基づいた粘り強い思索の積み重ねが必要です」
「それまでの人生で経験したことを“みな生かして統一できる”ことは喜びなのです」
「死の不安」について「死の不安から逃れるために」として、3つのことを提言している。
一つは、「死がどんなものかわからなくても、どんな死が待ち受けているとしても、死がどういうものかによって今の生のあり方が変わるのはおかしいということです」
「今充実した人生を送っていれば、死にばかり注意は向かないということです」
「死が確実に来るのであれば、死を待たず、今日できることだけに専心すればいいのです」
さらに、「貢献感があることが死の不安を克服します」
「人によって残せるものが違いますが、残すものがあることで後世に貢献できます」と。
「どうすれば不安から脱却できるか」
「人生は決められたレールの上を動くようなものではなく、自分で形成しなければなりません。これを知るまでは人生は安定していたでしょう。しかし、先のことは何一つ決まっているわけではなく、自分が人生を形成しなければならないという現実を知ると不安になります。この不安は人生には決められたレールがないことに気づいたときに起こる感情で、むしろ、この不安を感じない人は先が見えると思い込んでいるのです。レールがないのであれば常識的な生き方をする必要はなく、誰かに人生を決められることも必要ではありません。人生はエクセントリックなものにならないわけにはいきません」
「多くの人が生きる常識的な人生とは違って、エクセントリックな人生を生きることにはリスクが伴うことがあります」
「エクセントリックな人生を生きるためには、“他人の期待”や“世間”という“中心”から離れなければなりません」
「エクセントリックな生き方をするのは、個性を取り戻すためです」
と書いている。
「甘やかされた子どものライフスタイルのまま大人になった人は、苦境に立った時そこから脱するために自分では何もしようとしないで他者の援助を求めます。自力ではどうすることもできず、他者の援助を求めることが必要な場合もありますが、初めから援助されることを当然と思い、自分から苦境から抜け出すために行動を起こさない人がいます。そのような人は“活動性を欠いている”のです」
(つづく)