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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

「頑張れない」子をどう導くか

2025年05月22日 | 現代の病理
『「頑張れない」子をどう導くか ――社会につながる学びのための見通し、目的、使命感』(ちくま新書・2025/5/9・宮口幸治・田中繁富著)からの転載です。

本書の一番の目的は、さまざまな理由で頑張れない子どもたちのやる気に少しでも繋がるように、我々大人ができることを考えていくことです。それに先立ち、やる気に繋がる3つの段階というものを仮定してみました。それが本書の軸となっている。「見通し」「目的」「使命感」です。これらは拙著『どうしても頑張れない人たち』(新潮新書)でも取り上げてきたものです。順にご説明します。
 。「見通し」は、どれだけやれば自分の目的や目標が達成できるか、もしくはその努力が報われるのか、といったもので、言わば地図のようなものです。目的地が初めての場所であればそこに行くにしても、地図がないとどうやって行っていいのかイメージができません。地図を見て場所がイメージできれば、こう行けばいいのだと当たりを付けることができます。同じように「やればできる」「努力は報われる」という言葉を大人に言われても、本人の能力に比べてあまりに高すぎる目標や、または大人の過剰な期待から生じた目標であれば、どうすれば達成できるのかイメージできません。
この「見通し」がもてるというのは、どのくらいすればできるのか、どのような努力をすれば実現できるのかを、子ども本人が具体的にイメージできるようになることです。見通しがもてないと何をするにも不安で、頑張ることも困難になるでしょう。周囲の大人はそれをサポートしていきます。
「目的」は、何のために頑張るのかを具体的にイメージできる一つのゴールとも言えるものです。地図で言えば、どこに行くのか目的地を決めることでもあります。目的地は、「○○高校に行きたい」「部佶の試合で勝ちたい」といった近いゴールから、将来、「野球選手になりたい」「ユーチューバーになりたい」といった未来のゴールまで、さまざまです。そのために見通しという地図を使って、目的地に向かって頑張っていくのです。楽な道もあればいばらの道もあります。大人としては目的地が遠すぎないか、本人に適した場所か、安全か、途中で迷わないか、など配慮しながら子どもに伴走していきます。
 「使命感」は、目的の先にあるものです。地図の例ですと、その目的地に無事に着けたとして、そこで何をしたいかということです。アルプスの頂上のようにそこに辿り着くこと自体が目的の場合もありますが、たいていはそこで何かをするために目的地としたはずです。それがここでいう使命感になります。希望の職種に就きたいという目的のために頑張るのはイメージできますが、ではその仕事に就けたとして、そこで何をするのかです。野球選手になりたくて頑張ってなるこしができた。でもそれで終わりではないはずです。どんな選手になりたいか、おそらく選手にとってはそこからが真の意味でのスタートと言えるでしょう。目的地でやること、癩張ることが自分の人生にとってどんな意味があるのか、社会にとってどんな意義があるのか。これは目的地に着いた本人でないと分からないと思いますが、周囲の大人は自分たちの経験からアドバイスしながら支えることができます。
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名前

2025年05月18日 | 現代の病理
キラキラネーム。「礼」(ぺこ)、礼は、ぺこりと頭を下げるからでしょう。
如来(みき)、女神(さやか)
、なぜ「さやか」と読むのかをネット検索したらマンガに「女神さやか」というタイトルのマンガがありました。そこからついた名でしょう。

本日の 『読売新聞』の記事です。
あなたの名前の読み方、これで間違いないですか?…「戸籍の読み仮名確認」全国民に通知へ
2025/04/21 08:30
 改正戸籍法が5月26日に施行されることを受け、施行日以降、全ての国民に対し、戸籍に新たに記載される読み仮名が通知される。住民基本台帳と同じ読み仮名とするため、新たな手続きは原則不要だが、誤記などがあれば届け出が必要となる。法務省は通知を確認してもらえるようPRに力を入れている。
法務省
 戸籍に読み仮名を記載することで、個人を特定しやすくするとともに、行政手続きのデジタル化につなげる考え。同省はいわゆる「キラキラネーム」にも対応するため、漢字の読み仮名として認める判断基準を自治体に既に通達している。(以上)

鈴木(さとう)、髙し(ひくし)などは、認めないとあります。ということは、今までは、認められていたということでしょう。
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指導死

2025年05月14日 | 現代の病理
『子どもの自殺問題の社会学: 学校の「責任」はいかに問われてきたのか』(2025/3/3・今井聖著)、この本で「指導死」という自殺の概念がることを知りました。その部分だけ転載します。

ある新たな概念が登場することによって,人びとの生き方や経験のありようがそれまでとはまったく異なったものになる場合がある。このことは,すでによく知られた事実であるとも言える。たとえば,ある時期以降,性的な事柄に関わる嫌がらせの行為が「セクシュアル・ハラスメント」として捉えられるようになったことや,一定の性格特性や行動の傾向を備えるとされた子どもが「発達障害児」と捉えられるようになったことなどはよく知られたことであろう。とはいえ,通常の日常生活のコンテクストで目を向けられるのは,たとえばある行為が[セクハラ]かどうかという点であるはずだ。その意味で,ある特定の概念の歴史に目を向けることはあまり日常的でない,特別な関心の向け方だと言えるだろ佰。
 既述のとおり,子どもの自殺に関するこれまでの社会学研究では,とりわけ[いじめ自殺]に対して,そうした特別な関心が向けられてきた。それらの研究が共通して指摘していたのは,[いじめ自殺]という概念一類型が社会的に広く認識されたのは,1980年代においてだということであった。

 その例として,「指導巡る死『真摯に向き合って』調査求める母親。応じない道教委 道立高生自殺]という見出しの記事仟朝日新聞J 2021/11/10朝刊,北海道面)など。


 本章ではこれまで,「指導死」という新たな概念のもとで。子どもの自殺に関する人びとの経験の可能性がいかに変容したのかを,遺族たちの語りにもとづいて考察してきた。
 そうした議論の前提として,「指導死」をめぐっては,「指導」と「自殺」が通常結びつきうるものとして用いられていないことに由来する,表現にの問題が存在していたことを確認した。その上で,そうした問題は単に表現上の問題であるばかりか,「指導死」概念を提起した遺族たちの当初の目的にとっても直接関わる問題であったことを,[体罰自殺]と「指導死」の関係を問うことによって示した。
 当初よりそうした微妙な問題をはらんでいた「指導死」という概念であるが,結果的には,今日に至るまでに一定の社会的認知を獲得してきたと言える。では,そうした概念の登場とその広まりは,何をもたらしたのだろうか。
 この問いに対する答えとして本章での議論からまず言えるのは,教師の指導をきっかけに自殺したとされる子どもの自殺をめぐって,その遺族が置かれることになる社会的状況や可能な経験のあり方に「指導死」概念は一定の変化をもたらしてきたということである。「指導死」という概念が,「指導死」という出来事の存在を可能にするものでもある以上,それがまったく[ない]とすら語られていた頃に遺族たちが強いられていたような立場は,今日では解消されるに至ったと言える(とはいえ,それは経験の可能性という水準でのことであって,個別具体的な事例においてそれぞれの遺族が実際にどのような他者の反応に哂されることになるのかはまた別であることは言うまでもない)。そして,より近年の「指導死」事件について見ることで確認できたように遺族が置かれうる社会的状況の変化には,子どもの自殺事件に関して組織される第三者調査委員会の広まりといった制度的な要因も関係している。[指導死]に関する言説とともに制度的条件も変化しつつあるということである。
 本章で見てきたように「指導死」という新たな概念の登場は,遺族となった人たちの経験の可能性を変容させてきた。重要なのは,同時にそれが,社会一般のより広範な人びとにとっての可能な経験の変化でもあるということだ。「指導死」という出来事が成立した後の時点である今日,この社会に生きる人であれば誰であれ,「指導死」は存在しない等といったことを有意味に述べることはできない。その意味で,[指導死]という新たな概念の登場とその広まりは,子どもの自殺をめぐる「現実」や,人びとにとって可能な社会的経験を変容させてきたのだと言える。
 最後にではそうした新たな概念の登場という事態は,「いじめ自殺」がそうであったとされるように「不幸」な帰結を導いてしまったのか,それとも「セクハラ」や[児童虐待]がそうであったように人びとの「救済」につながったと言えるのかという問題を考えてみたい。筆者の見るところ,少なくとも「いじめられて死ぬほど苦しい」子どもが実際に自殺してしまう事態ほど,「指導が死ぬほど苦しい」子どもが自殺するという事態は,今日においても容易に理解可能なものと見なされていないように思われる。言い換えれば,今日でも,ある教師の指導が子どもの自殺の原因として社会的に認められるためには,当該の指導が通常許容されうる範囲を相当程度逸脱した「不適切な」ものであることの証明が必要とされている。それは,「不適切な」ものであることが前提第7章 「子どもの自殺」に関する新たな概念としての[指導死]とされている(それゆえ,加害・被害関係をもとより含意している)「いじめ」が子どもの自殺の原因として語られる場合とは異なる。そしてそうである以上,「指導死」は少なくとも「いじめ自殺」と同じように「不幸」な帰結を導くことにはなっていないと考えられる。他方で,「指導死」は,まずはそれまでその出来事を語ることができなかった遺族たちを「救済」する役目を果たしてきたと言える。その意味では,これまでのところ「指導死」概念を必要としてきたのも第一義的には遺族たち自身であったと言えるのかもしれない。
 「指導死」概念がある人びとを[救済]する意味を有してきたというここでの議論に関しては,さらに[被害者]である子どもの[救済]という点を考える必要もあるだろう。必ずしも「指導死」概念が登場することのみによって可能になるわけではないものの,そうした概念の広まりが,教師の指導のあり方をけじめとし,学校教育現場での様々なやりとりのあり方を問い直していくためのひとつの契機となりうることは明らかである。そうした社会的状況の変化はまた,子どもやその親といった「当事者」にとって,教師の「不適切な」指導やそれによる被害経験に対する訴えをより容易にするものでもあるだろう。
なお,そのような新たな概念の登場による「被害者の救済」という点に限って言えば,「いじめ」や「いじめ自殺」という概念にも,子どもやその親といった「当事者」たち匚とっての「救済」に役立ってきた側面があることも否定できない。「いじめ自殺」に関する既存研究では十分注意が向けられてこなかったが,そうした側面が[いじめ自殺]概念の「解体」(北洋2015)を困難にしている可能性には,より注意が向けられて然るべきであるだろう。そうした今日の「現実」のありようを踏まえたその上で,いかに「いじめ問題」や「いじめ」という「物語」を組み替えていけるのかが問われなければならないと思われるのだ。次章では,このような関心のもとで,「いじめ自殺」事件の遺族たちの経験を問うことを試みる。(以上)
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思考停止という病理

2025年04月29日 | 現代の病理
『思考停止という病理: もはや「お任せ」の姿勢は通用しない』 (2023/5/17・榎本博明著)からの転載です。


 日本人の礼儀正しさや従順さは折り紙つきだ。海外の人たちの傍若無人の振る舞いや自分勝手な主張の激しさを見るにつけ、その思いを強めざるを得ない。
 海外の人たちからどう見られるかをやたらと気にする私たち日本人は、そうした日本人の礼儀正しさや従順さを海外のメディアか賞賛するのを知ると、とても誇らしい気持ちになる。それこそが日本人の美徳なのだと。たしかにそうだ。私も、そうした性質は美徳だと思う。
 だが、今の世の中を見ていると、少し認識を改める必要があるのではないかと思わざるを得ない。美徳のあり方にも、ひと工夫が必要なのではないか。それが本書を著すことにした主要な動機である。
 多くの国々が性悪説に徂って動いているのに対して、日本には性善説に深く根づいている。そのため日本で暮らすには人を疑う必要がなかった。人を疑うのは失礼だといった感受性さえよく共有されてきた。それにより、何に対しでも疑問をもたず、素心に従い、人を信じて疑わず、何でも「お任せ」にする習性を身についてきた。
 しかし、グローバル化によって、人を疑うことを基本とする海外の人々や組織とのやりとりが盛んに行われるようになるとともに、さまざまな価値観が日本社会に流人し、日本的な美徳が通用しない出来事が多発するようになってきた。
 ここにきて、これまで国民が信頼してきた政府の動きも、企粟など組織の経営理念も、どうも怪しくなってきている。さらには、人々の世間に対する信頼を裏切るような犯罪も多発している。信頼の社会が大きく揺らいでいるのである。もはや疑うことを知らない心のままで安心して暮らせる社会ではなくなりつつある。
 このような時代ゆえに、私たちはもっと自覚的に日々を過ごす必要があるのではないか。
人に「お任せ」の姿勢では乗り切れない社会になっているのだ。日本的な美徳を大切にしながらも、しっかりものを考え、自分の視点をもって、きちんと判断しながら暮らすようにしなければならない。
 それにもかかわらず、文明の利器は、利便性の名のもとに、私たちから考える機能を奪っていく。国民をますます思考停止状態に追いこむ愚民政策を政府が目論んでいるのだろうか。それに産業界が手を貸しているのだろうか。そんな疑念をもたざるを得ないほど、私たちは自ら考える機能を肩代わりしてくれる文明の利器やサービスに取り囲まれている。
 そうした今の状況をしっかりと踏まえて、考える葦としての大切な心の機能を発揮するように心がけたい。
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「加速思考」症候群④

2025年04月27日 | 現代の病理
『 「加速思考」症候群 心をバグらせらせる現代病』(2022/4/21・アウグリストクリ著),鈴木由紀子翻訳)からの転載です。



加速思考症候群を解除せよ

脳に入る情報が多すぎると、それは役にたたず、観察力や理解力だけでなく大胆さも損なわれる。たとえば、情報を選択せず、ただ集めることに必死なビジネスマンは、自身の個性や創造性をつぶしてしまう、スマートフォンの過剰な使用、過密スケジュール、情報過多、働きすぎ、利隘追求の競争から生じる職業卜のストレス(燃え尽き症候群など)もまだ、加速思考症候群に含まれる。働く人は誰もが、緊急時を除き、週末のスマートフォンの使用を禁止するべきだ。そうしないと常ねに目の前には解決すべき問題があり、その対処に追われてしまう。競争社会と消費主義の時代に、人間らしくいることを学ぶのか、それとも機械のように働き続けてしまうのか?・
 多くの人は、内観しながらゆっくり歩みを進める素朴な大問題を思い猫けない、どんなにすばらしい場所に住んでいても、自分の内面にすばらしい場所があることを知らない。
 あなたの心は加速思考症候群という爆弾を抱えていないだろうか?もし抱えているなら、ただちに起爆装置を解除したければならない。繰り返すが、思考過多のせいで自己による管理ができなければ、精神的に疲れはて、職業面、感情面、社会面にいずれ深刻な影響を及ぼすことになる。
 外界では、交通、産業の自動化、情報通信のスピードなど、すべてが加速することで恩恵を受けられるが、自身の思考の構築に関してはけっして加速させてはいけない。人間にとっての娯楽やモチベーション、ひらめきの源泉であるはずのオートフローが、ストレスや不安や心身症の源泉になってしまう。


加速思考症候群の最も深刻な影響は、感情が早死にしてしまうことだと覚えていてほしい。目の前のやるべきことにつねに追われ、せわしなく生きている私たちは、人生を考えるためにひとたび立ち止まるや衝撃を受ける。まるで、これまでずっと眠っていて、時間の経過に気づかなかったかのように。不安の底なし沼にはまり、心の地下牢に閉じこもり、気づけば、自分自身や子ども、友人、パートナーとの最良の時間を見失っている。その結果、成功者に見える多くの人が、肉体的にも精神的にも倒れるぎりぎりのところにいる。
 人生の質をないがしろにする人は、自分自身に膨大な負債を抱えているようなものだ。あなたの人生に対する負債が実際にどのくらいあるか知るには、率直に自分の心と向き合うといい。
まだ、現代の病である加速思考症候群によって生じる不安を上手に管理し、あなたの負債を清算するには、これまで述べた対処法を常識的に実践することをおすすめする。そして、内面を掘り下げ、弱さを認識し、過ちを認め、道のりを正し、自分自身の物語を紡げるように自らを育むこと。
 それは、あなた自身が向き合わねばならないことである。子どもやパートナーや友人、神経科医、精神科医、心理学者あるいは参考書でもない。どれもあなたの代わりにはならないのだから。あなただけがもっている最高のものに、どうか向き合ってほしい。
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