ご質問を頂きました。
ブログで、『希望はないという状態で幸福は達成される』というのをもう少し詳しく教えていただきたいと思いコメントしました。
これは、例えば、寝たきりで、体を動かすことができず、希望が全くない、という状態でも
その中で幸福、幸せを見つけることはできる。
という解釈でいいのでしょうか?
私的には、どんな状態でも、幸せを見つけることができると思いたいのですが、例えば、上記のような、寝たきりの方や、老人ホームで暮らしている方などは、幸せを見つけることができるのだろうか? という疑問を持っていたので、是非、お願いいたします。
もう一つ、すいません。 お年寄りには、希望よりも感謝の思いを、とのことなのですが、
私の知っている、お年寄りは、みな、すごく色々なことに感謝をしているのですが、みな、
自分は長く生き過ぎている。 早くお迎えに来てほしい。といいます。 それを聞くと、
今は、幸せでないのかな? と考えてしまいます。
私は、お年寄りが、寿命までの命を楽しみ、
幸せを感じながら、過ごしていけるように、
何かできないかと考えています。(以上)
3つの質問です。まず希望と幸せについてです。
希望には、浄土教やキリスト教のように死後に見出される希望もありますが、この場合の希望は私が生涯の中でもつ希望です。希望には、未来という時間が必要です。今まさに死なんとする状況下では、私以外にことに対する希望はともかく、明日こそといった希望そのものが成立しません。だとすれば“希望をもって生きる”という考え方そのものが不完全であり、私の全生涯を肯定できる価値観ではないということです。わたしの生涯の中には、心臓が止まって5分間、かすかに残る意識をどう過ごすかということも含まれるからです。
また幸せには、苦しみが解決されたところに見出される幸せもあり、また仏教が説く煩悩即菩提といった苦しみそのものの中に、見出されていく幸せもあります。苦しみの中に見出される幸せとは、通常の苦しみは、思い通りにならないことです。苦しみの中で、その思い通りにならないという私のとらわれが問題となり、そのとらわれから解放されるということがあったならば、苦しみが大きな意味をもってくるのです。
たとえば
例えば、寝たきりで、体を動かすことができず、希望が全くない、という状態でも
その中で幸福、幸せを見つけることはできる。
と希望が全くないと思われる場合、思い通りになったことだけにしか幸せを見出さないという自分の愚かさや自分中心の考え方が明らかに知らされて、仏にゆだねるという心境が開かれたとしたら、苦しみの真っただ中で幸福を実現したとも言えます。
2つ目ですが、感謝にも煩悩に属する感謝と、仏さま境界に近い感謝があります。思い通りになったことの中に見出される感謝は、裏返せば思い通りにならなかったら愚痴になります。感謝も愚痴も精神的なレベルでは同じステージです。
仏さまの境界に近い感謝とは、自己中心な考えや他人との比較によった優劣から生まれる感謝ではなく、感謝できることそのものが恵みであるといった私の自我を超えたところから育まれる感謝です。それは言葉を飾れば、宇宙大の大きな生命の躍動(自然、先祖、神仏)の中に自分を見出すことによって生まれ出る感謝です。
お年寄りの感謝とお迎えの話、その場合の感謝は、苦しみや災いがないことがその内容ですから、その感謝は隣のベットの人から悪口を言われればすぐひっくり返ります。お迎えもその言葉を翻訳すれば「いまの状況は飽きたからもっと良いことないか」といったほどの内容だと思います。
3つ目。私は、お年寄りが、寿命までの命を楽しみ、幸せを感じながら、過ごしていけるように、何かできないか、ということですが、色々あると思いますが、中心は自分が生きている意味を発見できることです。生きている意味とは、生きがいや自分が役に立っていることを実感できることです。
たとえばお年寄りに短い本を朗読っして差し上げる。「してあげた」ではなく、「朗読の勉強中だが、お陰で練習できました。ありがとう」という。“あなたのお陰で私は幸せになりました”ということを伝えられる関係であったとき、相手は生きている意味を感じるのだと思います。ありがとうまで行かなくても、一緒に楽しめるといった関係です。
して差し上げる側が利益を受ける。こうした関係が「してもらっている」という負担を与えずこのましい関係です。
がん患者の終末期の方へのケアにおいて、ケアを提供する側が受ける利益を窪寺著「スピリチュアルケア入門」に次のように示されています。
1) 深い自己洞察
それまでの人生とは質的にまったく異なる人生を生きた人たちがいた。‥そのような人に会うと、人間の価値は所有物や社会的名声ではなく、生き方の質の高さであり、深さであり、優しさであると教えられる。‥患者の生き方そのものが、ケアを提供する側に新たな自己洞察を与え、自分自身の人間理解が豊かになり深められる。
2) 自己の解放
患者に関ることで自分の中にある死の恐怖や不安、あるいは自分の人間理解の浅さや、自身の人格的未熟さに気づかされる。自分の不十分さに気づくとき、そこから成長の道が開かれる。成長への道は、既成概念や価値観、固定的、保守的思考から自己を解放し、あらたな価値観、人生観、世界観に導くのである。
3) 信じることの重要性
信じることとはまかせること、にぎっていた手を放すこと、自己執着から自分を解放することである。
4) 人間の深みに触れる喜び
死の危機にある患者に触れる機会は、人間の最も深いところにある問題に触れさせてくれる。
5) 時間の有限性
限られた時間というものを認識させてくれる。(以上)
お年寄りとの関係において、これだけの気づきをもつことは無理でしょうが、関係の方向性として参考にしてください。
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ブログで、『希望はないという状態で幸福は達成される』というのをもう少し詳しく教えていただきたいと思いコメントしました。
これは、例えば、寝たきりで、体を動かすことができず、希望が全くない、という状態でも
その中で幸福、幸せを見つけることはできる。
という解釈でいいのでしょうか?
私的には、どんな状態でも、幸せを見つけることができると思いたいのですが、例えば、上記のような、寝たきりの方や、老人ホームで暮らしている方などは、幸せを見つけることができるのだろうか? という疑問を持っていたので、是非、お願いいたします。
もう一つ、すいません。 お年寄りには、希望よりも感謝の思いを、とのことなのですが、
私の知っている、お年寄りは、みな、すごく色々なことに感謝をしているのですが、みな、
自分は長く生き過ぎている。 早くお迎えに来てほしい。といいます。 それを聞くと、
今は、幸せでないのかな? と考えてしまいます。
私は、お年寄りが、寿命までの命を楽しみ、
幸せを感じながら、過ごしていけるように、
何かできないかと考えています。(以上)
3つの質問です。まず希望と幸せについてです。
希望には、浄土教やキリスト教のように死後に見出される希望もありますが、この場合の希望は私が生涯の中でもつ希望です。希望には、未来という時間が必要です。今まさに死なんとする状況下では、私以外にことに対する希望はともかく、明日こそといった希望そのものが成立しません。だとすれば“希望をもって生きる”という考え方そのものが不完全であり、私の全生涯を肯定できる価値観ではないということです。わたしの生涯の中には、心臓が止まって5分間、かすかに残る意識をどう過ごすかということも含まれるからです。
また幸せには、苦しみが解決されたところに見出される幸せもあり、また仏教が説く煩悩即菩提といった苦しみそのものの中に、見出されていく幸せもあります。苦しみの中に見出される幸せとは、通常の苦しみは、思い通りにならないことです。苦しみの中で、その思い通りにならないという私のとらわれが問題となり、そのとらわれから解放されるということがあったならば、苦しみが大きな意味をもってくるのです。
たとえば
例えば、寝たきりで、体を動かすことができず、希望が全くない、という状態でも
その中で幸福、幸せを見つけることはできる。
と希望が全くないと思われる場合、思い通りになったことだけにしか幸せを見出さないという自分の愚かさや自分中心の考え方が明らかに知らされて、仏にゆだねるという心境が開かれたとしたら、苦しみの真っただ中で幸福を実現したとも言えます。
2つ目ですが、感謝にも煩悩に属する感謝と、仏さま境界に近い感謝があります。思い通りになったことの中に見出される感謝は、裏返せば思い通りにならなかったら愚痴になります。感謝も愚痴も精神的なレベルでは同じステージです。
仏さまの境界に近い感謝とは、自己中心な考えや他人との比較によった優劣から生まれる感謝ではなく、感謝できることそのものが恵みであるといった私の自我を超えたところから育まれる感謝です。それは言葉を飾れば、宇宙大の大きな生命の躍動(自然、先祖、神仏)の中に自分を見出すことによって生まれ出る感謝です。
お年寄りの感謝とお迎えの話、その場合の感謝は、苦しみや災いがないことがその内容ですから、その感謝は隣のベットの人から悪口を言われればすぐひっくり返ります。お迎えもその言葉を翻訳すれば「いまの状況は飽きたからもっと良いことないか」といったほどの内容だと思います。
3つ目。私は、お年寄りが、寿命までの命を楽しみ、幸せを感じながら、過ごしていけるように、何かできないか、ということですが、色々あると思いますが、中心は自分が生きている意味を発見できることです。生きている意味とは、生きがいや自分が役に立っていることを実感できることです。
たとえばお年寄りに短い本を朗読っして差し上げる。「してあげた」ではなく、「朗読の勉強中だが、お陰で練習できました。ありがとう」という。“あなたのお陰で私は幸せになりました”ということを伝えられる関係であったとき、相手は生きている意味を感じるのだと思います。ありがとうまで行かなくても、一緒に楽しめるといった関係です。
して差し上げる側が利益を受ける。こうした関係が「してもらっている」という負担を与えずこのましい関係です。
がん患者の終末期の方へのケアにおいて、ケアを提供する側が受ける利益を窪寺著「スピリチュアルケア入門」に次のように示されています。
1) 深い自己洞察
それまでの人生とは質的にまったく異なる人生を生きた人たちがいた。‥そのような人に会うと、人間の価値は所有物や社会的名声ではなく、生き方の質の高さであり、深さであり、優しさであると教えられる。‥患者の生き方そのものが、ケアを提供する側に新たな自己洞察を与え、自分自身の人間理解が豊かになり深められる。
2) 自己の解放
患者に関ることで自分の中にある死の恐怖や不安、あるいは自分の人間理解の浅さや、自身の人格的未熟さに気づかされる。自分の不十分さに気づくとき、そこから成長の道が開かれる。成長への道は、既成概念や価値観、固定的、保守的思考から自己を解放し、あらたな価値観、人生観、世界観に導くのである。
3) 信じることの重要性
信じることとはまかせること、にぎっていた手を放すこと、自己執着から自分を解放することである。
4) 人間の深みに触れる喜び
死の危機にある患者に触れる機会は、人間の最も深いところにある問題に触れさせてくれる。
5) 時間の有限性
限られた時間というものを認識させてくれる。(以上)
お年寄りとの関係において、これだけの気づきをもつことは無理でしょうが、関係の方向性として参考にしてください。
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