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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

希望はないという状態で幸福は達成される

2010年03月31日 | 仏教とは?
ご質問を頂きました。

ブログで、『希望はないという状態で幸福は達成される』というのをもう少し詳しく教えていただきたいと思いコメントしました。 

これは、例えば、寝たきりで、体を動かすことができず、希望が全くない、という状態でも
その中で幸福、幸せを見つけることはできる。
という解釈でいいのでしょうか?

私的には、どんな状態でも、幸せを見つけることができると思いたいのですが、例えば、上記のような、寝たきりの方や、老人ホームで暮らしている方などは、幸せを見つけることができるのだろうか? という疑問を持っていたので、是非、お願いいたします。

もう一つ、すいません。 お年寄りには、希望よりも感謝の思いを、とのことなのですが、
私の知っている、お年寄りは、みな、すごく色々なことに感謝をしているのですが、みな、
自分は長く生き過ぎている。 早くお迎えに来てほしい。といいます。 それを聞くと、
今は、幸せでないのかな? と考えてしまいます。  

私は、お年寄りが、寿命までの命を楽しみ、
幸せを感じながら、過ごしていけるように、
何かできないかと考えています。(以上)

3つの質問です。まず希望と幸せについてです。
希望には、浄土教やキリスト教のように死後に見出される希望もありますが、この場合の希望は私が生涯の中でもつ希望です。希望には、未来という時間が必要です。今まさに死なんとする状況下では、私以外にことに対する希望はともかく、明日こそといった希望そのものが成立しません。だとすれば“希望をもって生きる”という考え方そのものが不完全であり、私の全生涯を肯定できる価値観ではないということです。わたしの生涯の中には、心臓が止まって5分間、かすかに残る意識をどう過ごすかということも含まれるからです。

また幸せには、苦しみが解決されたところに見出される幸せもあり、また仏教が説く煩悩即菩提といった苦しみそのものの中に、見出されていく幸せもあります。苦しみの中に見出される幸せとは、通常の苦しみは、思い通りにならないことです。苦しみの中で、その思い通りにならないという私のとらわれが問題となり、そのとらわれから解放されるということがあったならば、苦しみが大きな意味をもってくるのです。

たとえば

例えば、寝たきりで、体を動かすことができず、希望が全くない、という状態でも
その中で幸福、幸せを見つけることはできる。

と希望が全くないと思われる場合、思い通りになったことだけにしか幸せを見出さないという自分の愚かさや自分中心の考え方が明らかに知らされて、仏にゆだねるという心境が開かれたとしたら、苦しみの真っただ中で幸福を実現したとも言えます。

2つ目ですが、感謝にも煩悩に属する感謝と、仏さま境界に近い感謝があります。思い通りになったことの中に見出される感謝は、裏返せば思い通りにならなかったら愚痴になります。感謝も愚痴も精神的なレベルでは同じステージです。

仏さまの境界に近い感謝とは、自己中心な考えや他人との比較によった優劣から生まれる感謝ではなく、感謝できることそのものが恵みであるといった私の自我を超えたところから育まれる感謝です。それは言葉を飾れば、宇宙大の大きな生命の躍動(自然、先祖、神仏)の中に自分を見出すことによって生まれ出る感謝です。

お年寄りの感謝とお迎えの話、その場合の感謝は、苦しみや災いがないことがその内容ですから、その感謝は隣のベットの人から悪口を言われればすぐひっくり返ります。お迎えもその言葉を翻訳すれば「いまの状況は飽きたからもっと良いことないか」といったほどの内容だと思います。

3つ目。私は、お年寄りが、寿命までの命を楽しみ、幸せを感じながら、過ごしていけるように、何かできないか、ということですが、色々あると思いますが、中心は自分が生きている意味を発見できることです。生きている意味とは、生きがいや自分が役に立っていることを実感できることです。

たとえばお年寄りに短い本を朗読っして差し上げる。「してあげた」ではなく、「朗読の勉強中だが、お陰で練習できました。ありがとう」という。“あなたのお陰で私は幸せになりました”ということを伝えられる関係であったとき、相手は生きている意味を感じるのだと思います。ありがとうまで行かなくても、一緒に楽しめるといった関係です。

して差し上げる側が利益を受ける。こうした関係が「してもらっている」という負担を与えずこのましい関係です。

がん患者の終末期の方へのケアにおいて、ケアを提供する側が受ける利益を窪寺著「スピリチュアルケア入門」に次のように示されています。

1) 深い自己洞察
それまでの人生とは質的にまったく異なる人生を生きた人たちがいた。‥そのような人に会うと、人間の価値は所有物や社会的名声ではなく、生き方の質の高さであり、深さであり、優しさであると教えられる。‥患者の生き方そのものが、ケアを提供する側に新たな自己洞察を与え、自分自身の人間理解が豊かになり深められる。

2) 自己の解放
患者に関ることで自分の中にある死の恐怖や不安、あるいは自分の人間理解の浅さや、自身の人格的未熟さに気づかされる。自分の不十分さに気づくとき、そこから成長の道が開かれる。成長への道は、既成概念や価値観、固定的、保守的思考から自己を解放し、あらたな価値観、人生観、世界観に導くのである。

3) 信じることの重要性
信じることとはまかせること、にぎっていた手を放すこと、自己執着から自分を解放することである。

4) 人間の深みに触れる喜び
死の危機にある患者に触れる機会は、人間の最も深いところにある問題に触れさせてくれる。

5) 時間の有限性
限られた時間というものを認識させてくれる。(以上)

お年寄りとの関係において、これだけの気づきをもつことは無理でしょうが、関係の方向性として参考にしてください。
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パソコン覚えぬ上司に不満ー人生相談

2010年03月30日 | 人生案内
読売新聞の人生相談(22.3.26)です。

パソコン覚えぬ上司に不満

 30代女性。事務職。50歳前後の課長はパソコンが使えません。課長が鉛筆で下書きしたものを私が打ち込んで書類を作成。課長のパスワードを使って私がメール送信します。昇進試験の前に提出する作文の清書をさせられた時は嫌悪感が最大になりました。清書ばかりで、業務に支障が出ることも。課長は伝票の印刷もできず部下(主に私)を呼びます。やり方を聞くのではなく丸投げです。
 清書作業が嫌いなのではありません。パソコンを全く覚える気のない態度や、仕事をなすりつけてくる態度が腹立たしい。「オジサン世代だからねえ」とかばう人もいますが――。

 異動を申し出ましたが、かないませんでした。といって転職するほどの不満はありません。パソコンの技術向上のためだと自分に言い聞かせ作業しているのですが、「いいかげんにしてください」と、課長にどなりちらしてしまいそうで怖いです。(静岡・B子)


西原回答

直接面と向かって「いいかげんにしてください。私はあなたの召使ではありません」と言ったらどれだかすっきりするでしょう。しかし直接言ったら失うものが大きい。それはあなた自身もよくわかっている、そのもどかしさを受け入れることができないようですね。そこで直接ではなく、手紙か、または人を介しては意思を伝えることをお勧めします。ただし前提条件があります。

あたなはいま課長の行為に対して「いいかげんにしてください」という感情をもっています。その原因は課長さんの行為にあります。また課長さんの行為は、社会の常識からいっても非難されるものかもしれません。前提条件というのは、「いいかげんにしてください」という立腹は、課長の社会常識から言っても不当な行為によって起こっているという被害者意識を乗り越えた時点で伝えてほしいということです。

あなたはこれから生涯にわたって「いいかげんにして」という腹立たしさを何度も体験することでしょう。立腹のきっかけは人の行為であっても、思い通りにならないことによるストレスが怒りの直接のエネルギーです。怒りの原因が、相手の落ち度でも自分の落ち度でも、「思い通りにならない」ことが怒りや苦しみの直接の原因です。

そのように怒りの原因を見極めることによって、相手を一方的に非難した文言ではなく、怒りの原因には自分の器の小ささももよるといった謙虚な文言として相手に伝わります。
被害者意識に上で課長さんを非難したら、あなたの気持はスッキリするかもしれませんが、大きなしこりが残ります。


新聞に掲載された回答

 その課長にはもう期待しないでください。パソコンを「覚える気のない態度」にお怒りのご様子ですが、こういう人が下手に学ぼうとすると「これ、動かないんだけど」とか「字がヘンなんだけど」などと、周りの人にいちいち聞くようになってかえって迷惑。無視したりすると、あなたは不親切な人に見えてしまいます。イライラするだけ損。「オジサン世代」というより、文字を使えない縄文人だと思ってあきらめたほうがよいでしょう。

 清書も大切な仕事です。私なども自分の文章が美しく活字化されているのを見ると感謝の気持ちが込み上げてきます。どうか邪魔と思わずに、最初から業務として真剣に取り組み、その責任を果たすべく誤字脱字や下手な文章を見つけたら赤ペンで容赦なく添削してください。内容がヘンだったら、「意味不明」と書いて突き返してもいいと思います。それこそ時間の無駄ですから。
 清書をなめてはいけません。あなたが本腰を入れるとどうなるか課長に思い知らせてあげましょう。
 (高橋 秀実・作 家)
(2010年3月27日 読売新聞)
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煩悩が洗練されていく

2010年03月29日 | 私のこと
朝のウオーキング、今年初めて、こころの時代の放送とともに出発した。やっぱり歩きながら聞くのは良い。頭が活性化しているので思索も深まる。今日は瀬戸内寂聴さんの出演。煩悩おおき人だが、歳と共にその煩悩が洗練されていくという印象を受けた。煩悩が洗練されていくという世界ある。その極まりが煩悩即菩提だろう。

よく回答する半ば趣味のようになっている人生相談も、苦しみを聴かせていただき、その苦しみを洗練して差し上げお返しする技のようにも思われる。

放送の最後に「こころの時代」は、今日(22.3.29)で終わり、明日から「明日へのことば」が放送されるとあった。「最後の時間新たな縁(1)」医師 山中 修とあるから内容は同じでタイトルの変更のようだ。

若い人は「明日」とか「希望」が好きだから、タイトルを変更したのだろう。私は歩きながら「お年寄りは希望よりもいまの安心が一番。希望はないという状態で幸福は達成されるのだがなー」と回想した。希望には明日が必要です。幸福は希望が達成されたところにあり、幸福は感謝という姿で私の上に成就します。「お年寄りは明日への希望よりも感謝の思いを起こさせる話がいいが…」

瀬戸内寂聴さんが出家の動機を聴かれて50歳の頃「更年期障害のヒステリー」が自分の上に起こったのだろ思うと語っていた。いつもの歳より物事を深く考えてしまう年頃で、流行作家として自分の作品の深みに不安を感じた(意趣)、それを更年期障害のヒステリーと言っているとのことでした。

そしてこのブログをアップしようとして、私のブログを開いて驚きました。

当記事の本人です。ありがとうございます。とありました。

2.3日前にブログです。情報化時代、皆つながっているということを実感しました。

当事者へ。あなたが、今回の苦難をどのようにして乗り越えていくか分かりません。でもあなたのような苦しみをもっている人は多くいるはずです。もし「私はこのようにして苦しみを解決しました」というものがあれば、それはあなた同様に苦しみの中にある人にとっても、おおきな希望であるはずです。ご精進ください。
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文化も欲望もカロリーオフ志向です

2010年03月28日 | 現代の病理
職業病というものがある。僧侶の職業病は中性脂肪過多によるメタボだろう。最近は法事が日曜日に重なり、法事後のお斎膳につくことはなくなったといえ、法事で出勤するたびに、お茶とお茶のお供が出る。ようかんなど二切れも出される場合もある。さすがにその度その度に頂戴していては、糖尿病になるので、包んで頂ける場合は頂戴して帰る。でも日曜日などは、饅頭類を4個くらい食べるだろうか。

身体に脂肪を沢山蓄えた僧侶に会うことがある。きっとこの方は優しい方なのだろうと思う。出される菓子類をすべて頂戴しているにちがいないからだ。

そうしたことが重なったのか、最近、体重が4.5キロ増となった。そこで健康補助食品を飲み始めた。
商品名は「イマーク」の錠剤です。宣伝文句には

「青魚のサラサラ成分EPAを含有した、中性脂肪が気になる方におすすめ。臨床試験では、2ヶ月の継続飲用により中性脂肪値が平均で約20%低下しました。厚生労働省許可の特定保健用食品です」とある。

ニッスイの製品で、EPA(エイコサペンタエン酸)を主成分とした商品です。また宣伝文句には次のようにある。

1960年代に実施されたグリーンランドに住むイヌイットの健康調査の結果が発表されてからでした。イヌイットの人たちは、アザラシの肉が主食で、野菜や果物はほとんど摂らないにも関わらず、いつも健康に過ごしているといいます。研究の結果、その理由はEPAの働きによるものと判明しました。
EPAはイワシやサバなどの青魚に多く含まれる油脂成分。これらの魚をエサにするアザラシを食べていたイヌイットの人たちの血液中には、EPAが高濃度に含まれていたのです。(以上)

宣伝文句の成否はいま実験中なので、後日明らかになる。

時代の流れを感じると思うのは、昔貧しい時代は高カロリーの食品が好まれた。高度成長を達成しバブルとなるとカロリーオフが流行し、いまはカロリーや余分な栄養分を削いでくれる商品が流行っている。

コロリ―オフの流れは、食品ばかりではなく、『葬儀は 要らない』が流行るのも、ダブついてしまった生活様式の回避で、一つの文化の流れのように思われる。

昨日書いた「質素を楽しめる贅沢」も精神面でのカロリーオフ志向の賜で、生活様式にとどまらず、欲望上でもカロリーオフ志向が始まっているようです。“がんばらない”といった書籍が売れたり、プラス志向ではなくマイナス志向の本の題名も目につく。

お寺でのいま最もホットなアピール商品は“こころのカロリーオフ体験講座”かもしれない。
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質素なことを楽しめるという贅沢

2010年03月27日 | 日記
夜、たけしの番組で、外国人が出てきて日本とその人が所属する国の文化を比較して「ここがおかしい」といったトーク番組を見ていた。スエーデンの高い税金を支払い高福祉の中で質素に暮らす生活ぶりが紹介されていた。

スエーデンのような、こうしたごく当たり前に生活ぶりを見ていると、確かにいまの日本はおかしいと思う。お金に余裕のある人が贅沢を楽しむのはよくわかる。しかしお金に余裕のない人が、麻薬のように一点張りの贅沢を楽しむ。一点張りとは、高級車や、外国で超一中のホテルやレストランへいって一過性の高級感を体験することです。

おそらく身分相応の楽しみを満喫している部分もあるのでしょうが、そのことを正当に評価する文化が色あせているような気がする。

茶道だって利休以来、高級な茶器を楽しむといった、本道ではなく付加価値に重心が傾いている。家元制度そのものが、茶道の本道ではないのではないか。

拙著『親鸞物語―泥中の蓮花―』に書いた描写で、ふと思い出した個所がある。それは若き親鸞聖人と明恵上人が偶然出会い対話する部分です。(以下その一部)

善信は運ばれてきた茶を喫した。茶は初めてだった。香りが湯気と共に目から脳裏にしみこむような気がした。瞑目して口に運んだ。明恵も同様に口にした。静かな時の流れが香りに深みを与えていた。畳をはじく音がしたのでうっすらと目をあけると、明恵が指で弾いた畳をさっとなぞり、その指を茶碗の上ですり合わせた。善信は目に映った今の光景を尋ねた。
「いかなることでござりましょう」と問うと、明恵はぽっと顔を赤らめてつぶやくように言った。
「あまりの良い香に…」
明恵は、美味しいという思いは煩悩の所為であると考えていた。美味しいという思いは、次には不味いという思いにも代わるに違いない。そのことが許せなかった。善信はその赤らめた顔に、煩悩のぬくもりを感じた。(以上)

なかなか短い描写だが温もりがある。「美味しい」という思いの中に恥じらいを感じる。明恵さんの感性は、自分の中で起こること、すべてを理解していたという思いをもつ。

明恵さんはタケノコが好きという噂が流れ、村人は上人のところへタケノコを届けた。上人は、明恵は仏教が好きという噂が立つならまだしも、タケノコが好きという噂が立ったことを恥ずかしく思い、以後一度もタケノコを口にしなかったといいます。

ここには今の日本にある贅沢志向とは全く逆な文化がある。「質素なことを喜べる贅沢」「欲望の抑ええる知性を楽しむ贅沢」といったものです。
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