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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

社会構築主義と仏教

2014年10月31日 | 仏教とは?
「三界唯一心」(さんがいゆいいっしん)という仏教用語があります。ネットで見ると、“この句は『華厳経』(十地品)の第六現前地の経文、特に八十華厳の「三界所有(さんがいしょう)、唯是一心(ゆいぜいっしん)」に由来するもので、「心外無別法(しんげむべっぽう)」(心のほかに別のものはない)の句と対句をなして行われる。
 三界(欲界・色界・無色界)の現象はすべて一心からのみ現れ出た影像(ようぞう)で、心によってのみ存在し、心を離れて別に外境(げきょう)(外界の対象)が存在するのではないという意味である。 心の外に「もの」はない”とあります。

また唯識説では、唯識所変の境(外界の物事は識によって変えられるものである)などとも言います。社会心理学といっても一様ではありませんが、“言葉がわれわれの生きる世界をかたちづくる”という考えに「社会構成主義(社会構築主義)と呼ばれるものがあります。この立場を最初に明確にしたのは、現象学的社会学者のバーガーとルックマンによる1966年の著書『現実の社会的構成』によりアメリカで有名になったそうです。、現在では、社会学の領域にとど圭らずに、言語哲学、科学哲学、社会史、ジェンダー研究、文化研究などの多様な領域で発展しているとあります。
 社会構成主義の考えは、世界がまずあって、それが言葉で表現されるのではなく、言葉が先にあって、その言葉が指し示すようなかたちで世界が経験されるというものらしい。死後の世界のような見たことのない世界でも、
世界が言葉で表現されているというよりも、言葉が世界を構成しているというものです。

「現実 (reality)、つまり現実の社会現象や、社会に存在する事実や実態、意味とは、人々の頭の中で(感情や意識の中で)作り上げられたものであり、それを離れては存在しないとする、社会学の立場である。」という社会構築主義の理解は、「三界唯一心」と多く重なりますが、仏教では、意識(識)のあり方を汚れた状態から清浄な状態へ変革することの基礎として説かれているところが違うようです。
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自分らしさを手放すこと

2014年10月30日 | 日記
昨水曜日は京都、夕方帰ってきて、そのまま築地本願寺の研修会を受講。種村健二朗先生の「死ぬ苦しみからの解放と人間の成長」、現代日本の終末期のケアは、キリスト教文化のよっており、仏教を基盤としたケアが重要であり、日本には適していることを、ケアの内容を分析することをとおして示してくださいました。

キリスト教ケアの第一人者である柏木哲夫先生は「緩和ケアは、“その人がその人らしい人生を全うするように寄り添うこと”である。」(2014講演「緩和ケアのこころを深める」)と言われているが、仏教の目指すところは、「その人らしさを手放すこと」である。という言葉に、講義の内容は収まります。
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姥捨山③

2014年10月29日 | 仏教とは?
話の種に『雑宝蔵経』の姥捨山の難題をあげておきます。

 仏が舎衛国で以下のように語った。今では年老いた者を大事にしているが、過去久遠の昔、棄老という国があって、老人を遠くへ捨てていた。その国に一人の大臣がいた。孝順の心深く、年老いた父を捨てることができなかった。そこで、深く地を掘って密屋を作り、父を入れて孝養を尽くしていた。

 その頃、天神が後述する九つの難題をその国の王に出して、もしもそれに答えることが出来なければ、七日の後、汝の身と国とを悉く覆滅すると言った。

1の問、天神が二匹の蛇を王殿に置き雄と雌の判別が出来たら、お前の国は安全だ、と言う。
  (答)(細くて飲らかいものを蛇の上につけ、いらだって騒ぐ方が雄で、前かずにじっとしている方が雌である。)

2の問、昧者(まだ悟りを得ない人のことか)では誰を覚者と言い、覚者(ブッダの漢訳で悟った人のこと)では誰を昧者と言うのか。)
  (答)それは学人である。諸凡夫にあってはこれを覚者とし、諸羅漢にあっては昧者とする。

3の問、この大きな白い象の重さ(体重)はいかはどか。
   (答)船に象を乗せて大きな池に浮かべ、喫水線に印をつける。次にこの船に石を積み、印をつけた所まで船を沈めた後、その石を計れば象の重さが分かる。

4の問、ひと掬いの水が大海より多いとは?
   (答)信心が篤く心の清浄な人がいて、ひと掬いの水を仏増や父母、困っている病人に施したならば、この功徳を以て数子万劫、福を受けて窮まるところがない。海水は極めて多い。が、一助に過ぎない。このことから推し測って百うと、ひと掬いの水は百千万倍、大海より多いということになる。

5の問、天神が餓えた人に身をやつし、連骸(からだ)を骨で支えた姿で現れて)、世の中に自分よりも飢え窮まり、痩せて苦しむことの甚だしい者はいるか、いないか、と間いた。
  (答)世の中には、そういう人がいる。樫貪(けちで欲ばり)で嫉妬深く、仏教を信ぜず、父母や師長を供養出来ない者は、将来の世、餓鬼道に堕ち、百千万年、水や穀物(食物)の名前を関くこともなく、身は太山のように、腹は大きい谷のように、咽は総い計のようになり、髪は錐のように鋭利になって身に纏い付き足にまで届く。動く時には体の関節が火と燃える。このような人は、おまえの飢えの苦しみよりも甚だしいこと、百千万倍である。

6の問、天神がまた、手かせ足かせをされ、首にも鎖を付けられ、体中から火が出て全身焦げただれた人間に姿を変えて現れ、自分よりも苦しみの甚だしい者がこの世にいるかどうか、と尋ねた。
  (答)そういう人が世の中にはいる。父母に不孝で、師長に逆らってこれを害し、夫や主に背き、三尊を誹諧する。こういう者は、将来の世地獄に堕ち、刀の山や剣の樹へ追いやられ、地獄に行く者を迎えに来るという燃えている車に炉の炭のように乗せられ、あるいは、屎(くそ)の沸騰する河に陥ったり、刀の道や大の道を歩かせられる。このような多くの苦しみが数限りなく、数えることも出来ない。これを以て比べてみると、おまえの困苦より甚だしいことは百千万倍である。

7の問、天神がまた、ずば抜けて端正で、すぐれて立派な女性に姿を変えて現れ、世の中に自分のように端正な人はいるかどうか、と尋ねた。
  (答)世の中にはそういう人がいる。仏教を信じ敬い、父母に順って孝を尽くし、施すことを好み、よく忍耐精進して戒を守り行えば、天上に生まれることが出来て、その端正なことはおまえの身の百千万倍である。それと比べると、おまえの扮している姿は片目の犬猿だ。

8の問、天神が一本の、四角で真直ぐな真檀(まゆみ・木)の、両端とも同じ犬きさの本を以て、どちらが頭かと尋ねた。
   (答)水中に投げ入れると、根の方は必ず沈み、先(尾)の方は必ず上がる。

9の問、天神が二匹の、姿も色も全く同じ、白い牝馬を以こ、どちらが母で、どちらが千加と聞いた。
   (答)草を与えて食べさせてみる。もしも母馬だったならば、必ず草を子馬の方に押しやって子に食べさせる。

この時の「父」は私、「大臣」は舎利弗、「王」は阿闇世、「天神」は阿難であるとおわる。
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姥捨山②

2014年10月28日 | 日記
『雑宝蔵経』(ざっぽうぞう)棄老国の王の夢に天神が現れて,難題を解けない場合は国を滅ぼすと告げ,老人がその難題を解いたので,それ以後,棄老は廃止されたという『棄老国因縁』は、次の通りです。

遠い昔、棄老国と云う老人を捨てる国がありました。その国の人々は誰でも老人になると遠い山に捨てねば

ならないという掟がありました。その国の一人の大臣は、如何に掟とはいえ、年老いた父親を捨てることが出来ずに、秘かに敷地に深く穴を掘って地下室を作り、そこに父親をかくまって孝養をつくしていました。ところが、この国に一大事が起こりました。それは神が現れて、王に向かって難題を投げつけたのです。それは 《此処に2匹の蛇がいる。この蛇の雄・雌を見分ければよし、もし出来なければこの国を滅ぼしてしまう》 と。これには王はもとより誰一人として蛇の雌雄を見分けられるものがいません。王はついに「見分け方を知っているものには褒章をあたえる」と国中に布告を出しました。かの大臣は家に帰り、秘かに父に尋ねると、父親は「柔らかい敷物の上にその二匹の蛇を置くと、騒がしく動くのがオスで、動かないのがメスである」と教えました。大臣は父の教えの通りに王に答えて難題を解決しました。しかし神はその後も次々に難問を出してきました。その度に大臣は父親の智慧を借りて難問を解決しました。

 難題は、9門あり、その中に4門ほど、仏教的な設問があります。その1つに、神は骨と皮にやせた人に変身して 《世の中にはこの私よりもっと餓え苦しんでいるものがあるだろうか》
大臣は「それはある。世にもし心がかたくなで、心が貧しく、仏法僧の三宝を信ぜず、父母や師に感謝しない人がいるならば、その人は餓えきっているだけでなく、その報いとして後の世に餓鬼道に落ち、長い間餓え苦しまねばならない」と答えました。これ等の難問に対する答えはことごとく神を喜ばせ、また王をも喜ばせました。そして、王はこの知恵がひそかにかくまっていた大臣の老いた父親から出たものであることを知り、それ以来、老人を捨てる掟をやめて孝養をつくすように命じたということです。(以上)

インドの説話は、「役に立つか・役に立たないか」で終わることなく、仏法僧を敬うことを教えていて、仏教を学ぶ者としては、めでたしめでたしです。
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心臓停止後の意識

2014年10月27日 | 日記
『週刊文春』(2014.10、30号)に“立花隆「死は怖くない」”という書下ろしが掲載されていました。臨死体験の話ですが、心臓が停止した後の脳細胞の活動状態について「いのちの尊厳をどこまで考えるのか」という意味で興味があるので転記しておきます。

先般、死後の医学書で見たときには、心臓停止後、やく15秒で意識が消失するとありました。上記週刊誌に紹介されている記述は、次の通りです。

死体験は死後の体験ではなく、死に瀕した脳の働きによるのではないか?と考えた私は、ミシガン大学のモンゴル人学者、ボルジガン博士を訪ねました。彼女は、マウスの脳に電極を埋めこみ、薬物注射によって心停止を起こした後の脳波を詳しく調べました。すると、心停止後数十秒にわたって、微細な脳波が続くのを確認しました。
 これまで心停止すると数秒で脳への血流が止まり、それとともに脳波も止まると考えられていましたが、それは単に測定の感度が低すぎたからだったのです。…東京薬科大学名誉教授の工藤佳久氏によると、一九九一年放送の「臨死体験」を見て、この現象に興味を持ったそうです。そこで工藤氏は、ラットの脳細胞を使った次のような実験を行いました。記憶に関係があるとされる海馬の切片を虚血状態(局所的な貧血状態)に置いてみたのです。
 すると神経細胞の活動はどんどん低下していきましたが、驚いたことに五~十分程度経過したところで猛烈に活動しはじめ、その状態が数秒間続き、突然、すべての反応が消えたと言います。まるでロウソクの火が消える直前に激しく燃えるような現象でした。
 ボルジガン博士の研究ではマウスの個体レベルで死の間際に生じた脳波が記録されましたが、工藤氏の研究では、ラットの細胞レベルでも死の間際の脳活動の活発化が見られたわけです。工藤氏は、この実験は非常に再現性が高く、「たった数杪程度の活動だが、これが臨死体験の実体かもしれないと考えている」(工藤佳久著『もっとよくわかる! 脳神経科学』羊土社と言っています。(以上)

下記のネットからの転載です。

 ニューヨーク大学、ロンドン大学を含む国際研究グループが、救命分野の国際誌であるリサシテーション誌オンライン版2014年10月号で報告した。
 研究グループは、複数の施設で4年間140人の心停止から生還した人から心停止中の意識および記憶を聞き取り、特別なテストで回答の客観性も検証した。
 この結果、ほぼ半数に当たる46%で恐れや心停止後の出来事など主に7種類の記憶があった。
 2%では蘇生に関連する実際の出来事を「見聞きした」と明らかな記憶を伴って意識があったと推定できた。 一人は脳が機能していないはずの間に、意識があったことが検証された。(以上)

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