仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

佐伯啓思氏の浄土論

2018年01月31日 | 仏教とは?
『新潮45』(2018.2月号)に社会思想家の佐伯啓思氏が“反・幸福論”に「浄土とは何か」を掲載していました。結局は鈴木大拙氏の『浄土系思想論』を紹介しているのですが、ご自身でももう一つ分かっていないのでしょう、わかりずい。最後の部分だけ紹介します。興味のある人は図書館にでも行って読んで下さい。


浄土とは、すべてが満ち足り、無限の光をはなって、一切の陰りがなく、無限の寿命をもった仏の世界、つまり「すべて」であり『完全』であり、つまり「絶対」の世界なのです。その「絶対」があってはじめて、現世の不完全、罪深さ、理不尽がわかる。浄土はは、人間という存在の罪やあ苦をを映し出し、この現世という相対世界の空無を指ししめす鏡のようになっている。したがって、両者は、対立し、否定しあっているが、此土なくして浄土なく、浄土なくして此土はない。それを、大拙は、相互矛盾叨な自己同一、という。こうして、この世とあの世は、それぞれでありながら、対立しつつ相即しているので、浄土教徒は。たえず、浄土へ行って{往相}、また戻ってくる(還相)。廻向は、こちらから差し出すとともに向こうからやってくるのです。こうして、「あの世」があるから「この世」があり、「この世」があるから「あの世」がある。両者は、相互に映しあう、ということになるのでしょう。これまた、独特の日本的な死生観というほかありません。(以上)

先月号で既成仏教のことを書くと言っていたので楽しみにしていたのですが…、もう一つでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正しい絶望のすすめ⑮

2018年01月30日 | 正しい絶望のすすめ
正しい絶望のすすめ⑮

土はこれ無量光明土なり

阿弥陀仏の光の届かないところはない。だから安心してゆだねていのちを終えることができるのです


『雪仙の寒苦鳥(せっせんのかんくちょう)』という説話があります。
ヒマラヤに棲むという想像上の鳥で、夜に雌は寒苦を嘆いて鳴き、雄は夜が明けたら巣を作ろうと鳴くが、太陽が出ると寒さを忘れて怠ける。仏教では、怠けて覚りの道を求めない人間に喩えて用いられる説話です。
 この寒苦鳥が棲んでいるあたりは、昼間になると日差しが豊かで暖かい場所です。寒苦鳥は、うららかな日の光を浴びながら、一日、遊んで暮らしている。 ところが一旦、日が落ちると、急激に気温は低下し、夜ともなるとまさに凍えんばかりの寒さとなってしまうのです。そこで寒苦鳥は、「明日こそは、寒さから身を守る巣を作ろう」と考えます。 ところが、朝日が昇ると、また、陽の光が降り注ぐ素晴らしい一日が始まると、寒苦鳥は昨夜の寒さのことは忘れ、また遊び呆けてしまう。 そしてまた夜になると、後悔の念に苛まれる。寒苦鳥はこうした営みを繰り返して、死んでいったのです。

この説話は、「怠けを戒める説話」ともいえます。この「怠けを戒める」という考え自体が、〝人は自由意思で、自分を変えていくことができる〟ことを前提としています。
しかし仏教の伝統の中には、人間の抱く欲や怒り、愚痴などは人間性そのものであり、その人間の愚かさを認めていこうという仏道があります。
それが、「救い」を説く浄土真宗の阿弥陀さまのみ教えです。
その阿弥陀さまの救いのみ教えから寒苦鳥の説話を解釈すると、次のようになります。
寒苦鳥は、どうあがこうとも苦しみの中で死んでいくのです。それが寒苦鳥の習性です。
その寒苦鳥の習性を欠点として指摘するのが普通の解釈です。ところが阿弥陀さまは、その寒苦鳥に対して寒苦鳥の生きざまを責めることなく、「そのような生き方しかできないあなたのためのお慈悲ですよ」と、阿弥陀如来の存在を「南無阿弥陀仏」のお念仏となって告げてくださっているのです。寒苦鳥は、苦しみながら自分の習性を悲しみ、その悲しみに応じてくださっている阿弥陀さまの大悲の深さに触れながら、死んでいくのです。

〝自分を分かってくださる仏さまがおられる〟寒苦鳥は、阿弥陀さまの大悲に触れ〝独りではない〟という安堵と共に、欠点を欠点のままに摂め取る阿弥陀仏の豊かさの中に往生していくのです。
往生というと“立往生”“往生する”などと立ちいかないことに使います。しかし本当の往生はまったく逆で、現実を受け入れ、先に往くことができることです。往生することに心が定まることは、どうのような在り様であっても、浄土へ往き生まれることのできる今であることに開かれることなのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平均寿命犬は14.19歳、猫は15.33歳

2018年01月29日 | 日記
犬の長寿ギネスブック登録犬は29歳193日、猫は38才3日、そんな話題を法話で話すことがあります。

昨日(30.1.28)の『産経新聞』“おやこ新聞”に興味深いことが書いてありました。法話の材料としてアップしておきます。
犬と猫と飼育数は、28年までは犬が多かったのですが、29年に逆転。犬は散歩など手がかかることが敬遠されているとのこと。ペットフード協会の調査で、過去10年間に飼育された犬と猫の平均寿命は、犬は14.19歳、猫は15.33であったそうです。この平均寿命から一匹を飼うのに必要な金額は、犬が160万円、猫は108万円だそうです。寿命の長い猫の方が低費用なのは、医療費がかかるとのことです。ご参考までに。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正しい絶望のすすめ⑭

2018年01月28日 | 正しい絶望のすすめ
正しい絶望のすすめ⑭

如来は無蓋の大悲をもって三界を矜哀す

如来の願いとはたらきの大きさは、私の闇の深さとあやうさに起因している。その願いとはたらきに安住せよ。

人間と動物の決定的違いは“言葉”を持っているということです。言葉によって、新しい現実がつくられていきます。「明日、映画に行こう」という約束によって、映画に行くという現実がつくられていきます。「大阪へ転勤を命ず」という命令も、大阪で勤務するという現実が言葉によってつくられていくのです。「汝を死刑の処す」という宣告も同じです。一人の人間が、絞首刑によって死んでいくという現実がつくられていきます。
また“考える”ということは、言葉によって構成されています。言葉がないと、思考そのものが成り立ちません。
「フェルミ-ハートのパラドックス」というのがあります。パラドックスとは、ギリシャ語で「矛盾」「逆説」「ジレンマ」を意味する言葉だそうです。フェルミ、ハートは、共に人の名前で、「宇宙人の存在の可能性」と「人間が宇宙外生命体と遭遇」できない問題を研究したものです。

 宇宙人が地球に来ない理由の一つに、次のような説があります。
「ほとんどの宇宙人はある程度文明が発展すると、核戦争や著しい環境破壊などの事態を引き起こし、短期間に滅亡してしまうため宇宙旅行に乗り出す時間を持ち得ない。」というものです。
 言葉をもつと、その思考によって、原子力の発見に到達する。そして、その原子力の活用によって、生命体そのものが滅亡する。だから高度な文明を発展させたもの同士が交流を持つことがないといのうのです。これは当たっているかも知れません。
また言葉によって、ある概念や物を、人間同士が共有することができます。現代だけではなく、過去の人や未来の人とも、言葉を書くことによって共有することができます。
また言葉によって物事が明らかになるということがあります。もう25年ほど前、昨年、ご逝去された佐々木正美先生(児童精神科医)から、高名な心理学者であり文化人類学者であった我妻洋師が、「人間というのは、どこの国民だとか、どの民族だとかに関係なく、経済的、物質的に豊かな社会に住んでいると、外罰的、他罰的になる」と言われていたということを伺ったことがあります。

 なにか不愉快なことがあると人のせいにしたくなって、人を罰したくなるのを他罰とか、外罰というそうです。不愉快なことがあったときに、自分のふだんの心がけが不十分だから、努力が足りないから、今、こういう思いをしなければならないんだ、というふうに感じる感性を、内罰とか自己罰という。人間は経済的、物質的に豊かな社会に住んでいるほど、外罰性、他罰性を強くするし、「もの」の非常にとぼしい社会に住んでいるほど、内罰、自己罰的になるというはなしでした。
物が豊かな社会では、人は他罰的な感受性をもつ。この他罰性という言葉を聴いた時、自分の中にある他罰的な感受性を知ることができました。言葉によって、私の中に起こっていることが明らかになるということがあるようです。 
阿弥陀如来は、この「南無阿弥陀仏」という言葉に仏に成ることによって、阿弥陀仏の存在を私の上に、その存在を告げるという仏さまです。言葉ですから、色々な人と共有ができます。その阿弥陀仏を讃えた『仏説無量寿経』に阿弥陀仏は「無蓋の大悲」をもって救うとあります。無蓋の蓋は、フタのことです。フタがないということは、出入りが自由であるということです。無条件に救うという如来のメッセージです。無条件に救うという言葉によって、無条件でなれば救われない私の闇が洞察されていくのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代文明論講義

2018年01月27日 | 日記
『現代文明論講義 ニヒリズムをめぐる京大生との対話』 (ちくま 新書・佐伯 啓思著)でニヒリズムの克服について語っていました。ご参考までに。

 ニヒリズムとは最高の諸価値の崩落です。最高の価値とは、我々がそのために奉仕し、命を賭けても惜しくないと思えるようなものです。おそらくそういう価値かあれば、我々は自分自身の生に大きな意味を与えることかできる。ところかニヒリズムの状態では、我々が自分自身の生を非常にいきいきとした形で意味づけるということが難しくなる。要するに、生きるということの意味が見えなくなってしまう。
うなるとどうするか。人間は生そのもの、つまり生きるということ自体を価値にしてしまう。それか生命尊重主義、生命第一主義です。

西洋は有から出発したけれども、その根底に何もないことが暴露されたときにすべてか崩壊した。それは力によって作り直すしかない。そこで力の競争か起こった結果。帝国主義か生み出された。つまり西洋においては有から出発したが、そうすると、基本的に存在は自巳拡張してゆくわけです。存在は存在を生み、この宇宙を充満させてゆこうとする。 ところかこの存在を生み出したもとになる根底がまったくの無根拠であるということが明らかになってしまった結果、ニヒリズムに陥った。そして。存在の拡張の運動はただ拡張すること自体が自己目的になり、それが力への無限の無目的な意思として発現される。
 それに対して日本思想では、無がすべての存在の根拠となる。日本人にとって、存在するものは非常に不確定でたよりなくはかない。実体というものか常に幽玄の世界に引きずり込まれてしまうというか、無の世界に戻っていってしまうところがある。
 しかし別の言い方をすれば、それは西洋のように無根拠へ落ち込むのではなく、根底にある無が根拠になっているのです。その根源にある無というものが存在を支えている。そうすると我々はそれほど深刻なニヒリズムに陥ることはないだろう。… こういう思想によって。西洋近代か陥ったニヒリズムの危概を乗り越えることができるのではないか。(以上)




私の考えと方向性は同じです。私の考えは、ニヒリズムを阿弥陀仏の本願力と出遇う素材として認めていこうとするものです。ニヒリズムという苦しみは、人間の「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし」(顕浄土真実教行証文類)の症状であり、“苦しみは成長のとびら”の一局面であるというものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする