『新潮45』(2018.2月号)に社会思想家の佐伯啓思氏が“反・幸福論”に「浄土とは何か」を掲載していました。結局は鈴木大拙氏の『浄土系思想論』を紹介しているのですが、ご自身でももう一つ分かっていないのでしょう、わかりずい。最後の部分だけ紹介します。興味のある人は図書館にでも行って読んで下さい。
浄土とは、すべてが満ち足り、無限の光をはなって、一切の陰りがなく、無限の寿命をもった仏の世界、つまり「すべて」であり『完全』であり、つまり「絶対」の世界なのです。その「絶対」があってはじめて、現世の不完全、罪深さ、理不尽がわかる。浄土はは、人間という存在の罪やあ苦をを映し出し、この現世という相対世界の空無を指ししめす鏡のようになっている。したがって、両者は、対立し、否定しあっているが、此土なくして浄土なく、浄土なくして此土はない。それを、大拙は、相互矛盾叨な自己同一、という。こうして、この世とあの世は、それぞれでありながら、対立しつつ相即しているので、浄土教徒は。たえず、浄土へ行って{往相}、また戻ってくる(還相)。廻向は、こちらから差し出すとともに向こうからやってくるのです。こうして、「あの世」があるから「この世」があり、「この世」があるから「あの世」がある。両者は、相互に映しあう、ということになるのでしょう。これまた、独特の日本的な死生観というほかありません。(以上)
先月号で既成仏教のことを書くと言っていたので楽しみにしていたのですが…、もう一つでした。
浄土とは、すべてが満ち足り、無限の光をはなって、一切の陰りがなく、無限の寿命をもった仏の世界、つまり「すべて」であり『完全』であり、つまり「絶対」の世界なのです。その「絶対」があってはじめて、現世の不完全、罪深さ、理不尽がわかる。浄土はは、人間という存在の罪やあ苦をを映し出し、この現世という相対世界の空無を指ししめす鏡のようになっている。したがって、両者は、対立し、否定しあっているが、此土なくして浄土なく、浄土なくして此土はない。それを、大拙は、相互矛盾叨な自己同一、という。こうして、この世とあの世は、それぞれでありながら、対立しつつ相即しているので、浄土教徒は。たえず、浄土へ行って{往相}、また戻ってくる(還相)。廻向は、こちらから差し出すとともに向こうからやってくるのです。こうして、「あの世」があるから「この世」があり、「この世」があるから「あの世」がある。両者は、相互に映しあう、ということになるのでしょう。これまた、独特の日本的な死生観というほかありません。(以上)
先月号で既成仏教のことを書くと言っていたので楽しみにしていたのですが…、もう一つでした。