仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

鳥を識る②

2017年05月31日 | 日記
『鳥を識る なぜ鳥と人間は似ているのか』(春秋社刊・細川博昭著)の続きです。

鳥は記憶する

町中でもよく見かけるハシブトガラス、ハシボソガラスなどのガラス類は、余った食べ物を隠し、あとから取り出して食べる[貯食]という習性をもっています。貯食はガラス類、ホシガラス類、カケス類といったカラス科の鳥に広く見られる…ほか、ゴジュウカーフ科やシジュウカラ科、キツツキ科の鳥のなかにも貯食をするものがいることが知られています。
 カラスは、地面のくぼみ、小石の下、屋根などの隙間、パイプの穴、落ち葉の下などに、ほかの仲間に見つからないように、慎重に食べ物を隠します。地面を利用するときは、上に枯れ葉を乗せるなど。カムフラージュも万全に行い、万が一、隠すところを仲間のだれかに見られてしまつたときには、あとからこっそり隠し直す、ということもします。

…少し経験を積んだカラスは、腐りやすいものとそうでないものをおぼえ、傷みやすいものから先に取り出して食べるなど、食べ物に「消費期限」があることも理解したうえで行動するようになります。
 

冬場、野山では極珊に食べ物が少なくなります。それでも鳥は、生きていくために、毎日食べ続けなくてはなりません。冬に備えて、カケスは秋のうちに食料となるドングリを集め、自分の行動範囲の中のさまざまな場所に埋めていきます。

最大で四千ヵ所にものぼる隠し場所を、カケスは正確に記憶します。冬になり、地面が雪に覆われてしまったとしても、まわりの木や岩など、目印になるものの記憶をたよりに、隠し場所を正確に思い出して、必要なときに必要な食料を手に入れることができます。

 貯食という行動が、食料が不足したときの「備え」として発達したという仮説の真偽を検証するような実験も行われました。場所はイギリス、ケンブリッジ大学です。
 八羽のアメリカカケスに対して二つのゲージが用意され、片方には朝、十分な餌が用意される一方で、もう片方には朝に餌がまったく置かれないことを最初に学習させました。その後、両方のゲージに自由に出入りができるようにしたうえで、夕刻に十分多くの餌を与えたところ、カケスたちは朝に餌のないグージに飛んで行って、そこに一食分以上の餌を隠しました。
 そのケージに入れられた状況を想定して、朝に餌がもらえなくても「飢えない対策」をしたわけです。


鳥は遊ぶ カラスの遊び.インコの遊び

知能が高く、好奇心も強い、ガラスやインコ・オウムはよく遊び、またその遊びには小さな人間の子供の遊びと酷似している部分があります。
 
…公園で人間の子どもがすべり台で遊ぶのを見て興味をもち、自分でも滑ってみる例があります。雪が積もった屋根や山の斜面などを滑り降りる様子は、海外の複数の場所でも確認されています。
自分の足ではうまく滑らないとわかると、板切れやダンボールの切れ端などをどこかで見つけてきて、ソリに乗るようにして、それに乗って滑り降りるケースもありました。勢いがつきすぎて自身が雪上に転『かってしまうことも、ガラスにとってはおもしろい遊びのようです。
 
宮城県の牡鹿半鳥の先に浮かぶ金華山という島では、鹿の耳にフンを詰めて遊ぶ様了が撮影されました。
 落ちている枯れ枝も、仲間との遊びを提供してくれるおもしろい遊び道具のようで、枝をくわえたガラスにほかのガラスが近づいて、網引きのような引っぱりあいをすることがあります。 また、公園で見つけたり、ゴルフ場から盗んできた小さなボールも完全にオモチヤで、一羽で放り投げて遊んでみたり、ほかのガラスとともにそれを辿いかけて、まるでサッカーでもしているように集まって遊ぶ姿を見ることもあります。
 
インコ… 人間の幼児のように、ティッシュペーパーの箱から一枚ずつ抜き出してあたりに散らかしたり巻かれたトイレットペーパーを転がして床に広げたりもします。人間の幼児やイヌがおもしろがってやるような遊びは、ほぼすべてやります。彼らの遊びは、それだけ変化に富んでいます。
 テニスボールや野球のポールの上に乘って「玉乗り」をするインコも見られます。なにかを盗って走り去り、飼い主との追いかけっこを楽しむ鳥もいます。テーブルの上などから、さまざまなものを投げ落としては人間に拾わせ、また落とすということを延々と繰り返す鳥もいます。(つづく)
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鳥を識る

2017年05月30日 | 日記
『鳥を識る なぜ鳥と人間は似ているのか』(春秋社刊・細川博昭著)は、とても面白かった。

この本によると、鳥と恐竜のあいだに明確な境界線はなく、鳥は生き延びた恐竜そのものといってもいい存在だという。

まず恐竜ですが、恐竜は今から2億3000万年前から6500万年までの間、1億7.8000万年くらい生き続けたということも、人類誕生800万年と比較して圧倒されます。その子孫が鳥です。鳥は、種によっては人間の幼児と同等の高い知能と喜怒哀楽の豊かな感情を持ち、ヒトとの共通点が多い生き物です。その共通点を具体的に描写されています。

人間らしさをつくっていること下記のことが、鳥に具わっているというのです。

○二本足で立つ
○道具を使う(その手でつくる)
○音声でコミュニケーションしている
○文法に基づいた言語をもつ
○豊かな感情をもつ
○複雑なことを考えられる頭脳をもつ(思考し、判断することのできる大きな脳をもっ)
○「娯楽」として、「遊ぶ」ことができる
○発達した海馬が、空間を把握する(道や場所をおぼえる)
○独自の「美学」をもつ

話の種に、興味深いところを紹介してみます。(続く)
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チンパンジーの自己認識

2017年05月29日 | 日記
少し古い記事(2011年5月19日)ですが、“チンパンジーの自己認識に関する新しい発見”
したという記事です。

http://www.kyoto-u.ac.jp/static/ja/news_data/h/h1/news6/2011/110519_1.htm

京大の「友永雅己 霊長類研究所准教授、兼子峰明 大学院生の研究グループは、チンパンジーは自分が何をしているのかがわかっていることを発見し、この研究成果が学術専門誌「Proceedings of the Royal Society B」(英国王立協会紀要)に掲載されました。」という記事です。以下転載

チンパンジーの「自己」の新たな側面
 ヒトの自己意識の基盤には「行為の主体感」という感覚が存在する。行為の主体感とは、ある行為を「自分自身で行っている」、「自分がその行為の主体である」といった感覚を意味する。たとえば、TVゲームを2人で行う場合、どのキャラクターを自分が操っているのかを知るのはとても簡単だ。それは、この「行為の主体感」という感覚が我々にはあるからだ。…このような感覚がチンパンジーにも存在することを、友永雅己 霊長類研究所准教授、兼子峰明 大学院生のグループが明らかにした。

 同グループは、チンパンジーにトラックボールと呼ばれる装置を用いて、モニタ画面上のカーソルを操作することを訓練した。訓練完了後のテストでは、1つではなく2つのカーソルがモニタ上に現れる。一方はダミー、もう一方は「自分が」動かしているカーソルだ。どちらのカーソルをチンパンジーが実際に操作しているのか第三者にはわからない。しかし、もし行為の主体感が成立しているのであれば、自らが意図した運動と実際の運動の結果を照らし合わせることで、自分がどちらを操作しているのか容易に認識できるはずだ。テストの結果、チンパンジーは、自分が操作しているカーソルを正しく選ぶことができた (写真参照)。つまり、チンパンジーでも行為の主体感が自己認識の重要な要因として機能していることが分かった。
 これまでにも、チンパンジーでは鏡に写った自分の姿像を「自分だ」とわかることが報告されてきた。今回の研究は、チンパンジーが持つ「自己」の新たな側面を浮き彫りにしたといえるだろう。そして、この成果は、私たちヒトにおける自己認識がどのように進化してきたのかについての重要な手がかりとなる、と同グループは考えている。(以上)

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ネットの弊害②

2017年05月28日 | 現代の病理
『ネットが社会を破壊する』高田明典著(LEADERS NOTE)を読みました。著者は1961年東京生まれの現代思想評論家で、現在はフェリス女学院大学教授です。

色白な角度から論じていますが、ネットは汚染装置と、4分野の汚染を紹介しています。知性の汚染・精神の汚染・良心の汚染・知識の汚染の四つです。なかり大ざっぱな紹介です。興味ある人は本を読んでください。

知性の汚染
「速度」が重要となるネットにおいては、思考は当然「反射的」となり、じっくりと考えるという「反省的思考」が損なわれていく。反省的思考こそが、私たちの知性の正当性を担保する根幹であり、自分の内部に、自分の実体験をもとに世界認識を作り上げるというのは、反省的思考によってのみ達成される。

精神の汚染
ネットによってさまざまなものが大衆化され、この大衆化によって、行動の中で大切にされてきた“精神”が、「勝ち負け」や面白いなどの視点が入り込み損なわれていくという。

良心の汚染
巻き込まれれば巻き込まれるほど、価値判断せずに中途半端に放置して、次第次第に鈍感になって行くという。

知識の汚染
 知識の活用法についてネットでは教えてくれない。知識とはデーターベースであるという誤解が蔓延して、本来の知識の価値が貶められる。知識は「」データーベース的知識と思考技能」という二面あるが、後者が損なわれていく。

本の目次は、以下の通りです。
「はじめに」
第1章 問題9
第2章 ネットは増幅装置
第3章 ネットは汚染装置
第4章 ネットは偏向装置
第5章 傾向と対策

(以上)

『産経新聞』正論(29.5.23)に社会学者の竹内洋(関西大学東京センター長)氏が“ポピュリズムに潜む「刹那主義」”を執筆されていました。最後の次のようにありました。

歓呼喝采主義も機会主義もポピュリズムの特色であるが、さらに深堀すれば、「あとは野となら山となれ」になりかねない、陽気で能動的なニヒリズムである「今主義」「刹那主義」が浮かび上がってくる。これこそ現代のポピュリズムの厄介なところではないかと思うのである。(以上)

ネットの弊害の大方のことを大衆化してしまい刹那主義を増幅させていると思われます。
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ネットの弊害①

2017年05月27日 | 日記
『産経新聞』(29.5.23)読者投稿欄に次のような投稿が掲載されていました。ちょうど、『ネットが社会を破壊する』を読んでいたので導入として紹介します。

SNSをやめて快適さ戻る
        会社員中安公理(たかのり)42

ソーシャルーネットキングーサービス(SNS)をやめてから、1年半がたった。その結果、返信が気になったりせず、インターネットにかじり付くこともなくなり、マイペースで快適な暮らしが帰ってきた。
気持ちにゆとりか出て、何かに追われるような妙な感覚もなくなった。
 SNS自体を批判するつもりはないが、使い方を誤ると生活か乱れることは周知の通りである。主な投稿者は1割程度の特定の人たちとされ、時には自己PRというよりは単なる自慢話に付き合わされることもる。見る側にとっては時間の無駄でしかない。会話といっても内々の仲間同士の単純なものが多い。
 会話の基本はやはり【フェースーツ~・フェース】であり、人間同士が顔を突き合わせて話すのか一番だ。一度はSNSにはまってやめたことは、対話を通じた暮らしの潤いを再考する良い機会にもなった。
     (東京都文京区)
(以上)

現代の病理の一つにネット社会の公害が挙げられます。

『ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること』(ニコラス・G.カー著・篠儀 直子訳)に、ネットのユーザーはウェブ上で、ユーザの目はページ冒頭の2~3行を追った後、視線をF字型に動かして拾い読みするだけ、「深い思考」「深い処理」を失わせるとあります。また人間は注意散漫になればなるほど、「最も微妙で、最も人間独特のものである感情形態、すなわち共感や同情などを、経験できなくなっていく」とあります。
便利さによって失なわれていくものがある。そのことを見極まることが大切です。
(続く)
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