仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

承認欲求③

2019年04月30日 | 現代の病理
次は『「承認欲求」の呪縛』です。以下転載です。


 私がはじめてこの問題に気づいたのは、大学院生を指導していたときである。ある院生はコツコツと研究した成果を教員たちの前で発表し、高い評価を得て、さらなる研究の発展を期待された矢先、突然大学に退学届を提出し、それきり大学に来なくなってしまった。別の院生は抜群の成績で博士課程への進学が決まっていたにもかかわらず、家で自室に閉じこもり、家族とも口を利かなくなったという。ほかにも似たようなケースがあいついだのである(※いずれも本人が特定されないよう、事実に多少の修正を加えている)。

 当初は特異な事例かと思っていたが、後になって同じような現象が企業や役所でもしばしば起きていることを知った。
 さらに、たまたま訪ねた会社で次のような話も耳にした。あるとき社長が工場へ視察に訪れ、工作機械を巧みに操作する若手社員の仕事ぶりをほめたたえた。そして、別れぎわに「期待しているから頼むよ」といいながら彼の肩をポンと軽くたたいた。以来、同僚からも注目されるようになった彼は、だれよりも早く出勤し、準備万端整えて仕事に取りかかった。ところが彼も、やがてメンタルの不調を訴え、休職に追い込まれていったという。

 繰り返しになるが、これらが例外的なケースではないことを強調しておきたい。それどころか、一定の条件がそろったときには、かなりの確率で発生することがわかってきた。しかも「病」が重症化するケースが明らかに増えているようだ。私は精神科医ではないが、組織や社会を研究する者として見過ごせない現象である。

 そして、それがある一線を越えたとき、先に掲げたような事件や深刻な社会問題を引き起こす。
 人は認められれば認められるほど、それにとらわれるようになる。世間から認められたい、評価されたいと思い続けてきた人が念願叶って認められたとたん、一転して承認の重圧に苦しむ。(以上)

 「認められたくて努力した」のだけれど、いざ、認められてしまうと、その評価を失うのが怖くて、プレッシャーに押しつぶされてしまう。 そういう事例がかなり多いことを、著者は指摘しています。以下転載。

 若者にとって期待のプレッシャーがいかに大きいかは、意識調査にもあらわれている。ライオン株式会社が2012年に行った「新社会人のプレッシャーに関する意識調査」によると、新入社員時代にプレッシャーを感じた、心に重くのしかかる上司の言葉として「期待しているよ」が3位に入っている。とりわけ若い人にとって、期待をかけられることはありがたい反面、迷惑なもののようだ。

 承認の重荷から逃れようとする、もう一つの方法はあらかじめ評価の下落を防いでおく行為である。
 先に説明したセルフハンディキャッピングには、あらかじめ大きな期待を避けられるのを防ぐとともに、失敗したときに自己評価が大きく低下することを予防しようという意図も含まれている場合が多い。たとえ失敗しても、「体調が悪かったので実力が発揮できなかっただけだ」「実力はあるのだけれど、勉強しなかったから落ちたのだ」と思ってもらいたいのである。(以上)



人は認められれば認められるほど、それにとらわれるようになる。世間から認められたい、評価されたいと思い続けてきた人が、念願かなって認められたとたん、一転して承認の重圧に苦しむことになる。「承認欲求の呪縛」は「日本の風土病」だという。

解決策としては、「認知された期待」を下げる、 「自己効力感」を高める、「問題の重要性」を下げる、目の前の目標よりはるか先に目標を置くことによって、目の前の目標を相対化する。組織や集団への依存度を下げれば、たとえ「認知された期待」と「自己効力感」のギャップが大きくても、強いプレッシャーを感じなくてすむ、等々。
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承認欲求②

2019年04月29日 | 現代の病理
『「認められたい」の正体 ―承認不安の時代』 (山竹 伸二 著・講談社現代新・2011/3/18)から転載します。長くなるんぼで要点のみ。

普遍的な価値観(社会共通の価値観への信頼が崩れ)の崩壊により、参照すべき価値判断の規準を見失ってしまい、その結果、「価値ある行為」によって社会から承認を得る道は、かなり限定されたものになってしまう。その結果、ごく身近に接している人々に気に入られるかどうかだけが、承認を維持する唯一の方法のように見えてくる。

承認欲求について,承認欲求には3種類ある.
 ・親和的承認:愛と信頼の関係にある他者からの承認
 ・集団的承認:集団的役割関係にある他者からの承認
 ・一般的承認:社会的関係にある他者一般からの承認

以下抜粋です。

承認の欲望が増幅した時代、というより承認されないことへの不安に満ちた時代である。人々は他者から批判さえることを極度に怖れるあまり、自然な感情や欲望を必要以上に抑制し、周囲への過剰な配慮で疲弊している。」(p130)

一般的他者の視点」が十分に成熟していれば、多くの人々に自分の行為が「価値あり」と承認されるか否か、ある程度まで自分の力で判断することができるし、その分だけ周囲の人間の承認に依存しないですむ。「まわりの連中が何と言おうと、自分のやっていることは正しいはずだ」「自分が責められるいわれはない、ちゃんと見る人が見ればわかってくれる」

こうしていま、個人が葛藤する対象は「社会」から「身近な人間」へと移っている。そのため、親や所属集団など、身近な人々の言動に対する同調や迎合を繰り返す人も増えているのだが、こうして状況が長く続けば、周囲に迎合している自分に嫌気がさし、「偽りの自分」を演じているように感じられ、自分が本当は何をしたいのか、あらためて問い直すことになる。

現代の「自分探し」は、こうした親や所属集団の抑圧から「本当の自分」を解放しようとする試みである(以上)

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承認欲求

2019年04月28日 | 現代の病理
『「認められたい」の正体 ―承認不安の時代』 (山竹 伸二 著・講談社現代新・2011/3/18)と、『「承認欲求」の呪縛』(太田肇・新潮社・2019.2.20)を借りてきました。ですが、借りてきました。

まずはamazonnnoの本の紹介です。

前著
内容紹介
「『空虚な承認ゲーム』をどう抜け出すか。その『答え』ならぬ『考え方』を教える本書は、規範喪失の時代における希望の書である」(斎藤環氏)。現代社会に蔓延する承認の問題を真正面から捉えた注目書! 私たちを覆う「生きにくさ」の本質に迫る。

『「承認欲求」の呪縛』

内容紹介
「嫌われたくない」「認めてほしい」と願っている人こそ、必読!
SNSで「いいね! 」をもらうことに全身全霊を傾けてしまう人がいる。職場で表彰されたために「もっとがんばらねば」と力んでしまい、心身を蝕む人がいる。エリートであるがゆえにプレッシャーを感じて、身を滅ぼした人もいる……。すべての原因は「承認欲求」の呪縛だった。誰しもがもつ欲求の本質を深く探り、上手にコントロールする画期的な方法を示す。人間関係の向上や組織での成果アップに変換する新しいヒントが詰まった一冊。(以上)

両著ともに、承認を否定的に見ていますが、少し紹介してみます。宗教というものは、神仏から承認を得るという考えにたっています。承認には、「絶対的な承認」と「総体的な承認」があり、マズローの成長の5段階表示で、4番目に「尊厳欲求(承認欲求)」(他者から認められたい、尊敬されたい)を挙げていますが、これも相対的な承認です。しかし上記の書籍は、宗教や哲学の本ではないので、心理学的な視点では興味深いものがあります。

つづく
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誕生学

2019年04月27日 | 浄土真宗とは?
今月14日、この地域の連続研修会で「いのち」について、問題提起とまとめを勤めました。その二週間程前、いのちに関する本を二冊図書館でかりました。その一冊が『ライフ 誕生学の現場から』(大葉ナナコ著)という本でした。内容不明のまま借りてきたのですが、この本はいのちの素晴らしさを学校などで語る運動をしている、そうした関係の本でした。協会を作って講師を養成しているようです。

本の中から少し抜粋します。


誕生学プログラムのスタンダードクラスは、このような流れです。
 
オープニング
普遍的事象の確認
お腹の中での自分の生命力・成長力を知る(教材)
誕生児の胎児の工夫を知る(赤ちゃん人形や骨盤モデル)
誕生の喜びを伝える(映像など)
クロージング セルフケアなど法を伝達(以上)


ほとんど内容は読んでいないのですが、興味深いことは、こうした「いのちの素晴らしさ」啓発していく活動には、不快や迷惑を覚える人達がいると言うことです。それは「いのちの大切さ」を語ることが、道徳問題にすり替えられ、リストカットをする人を否定したり、親から「生まれてこなければ良かった」などと「いのちの大切さ」と真逆な状況の中で育てられた子には、どうしても受け入れられない言葉のようです。

「困難な状況にある子どもをますます追い詰める」「大人の自己満足に過ぎない」などの批判も多いが謝の気持ちが足りない」、「いのちの大切さを理解していない」などと道徳論を押し付ける等の批判がネット社会で散見されます。

感想としては、正しいことも相対化してしまうと、人を傷つけてしまうと言うことです。これは浄土真宗のみ教えを同じです。

「信」はサンスクリットで「プラサーダ」という原語に基づく言葉です。意味は、「濁った心を浄化する」「心を静める」「清らかな心にならしめる」という聖なるはたらきを意味する言葉だそうです。『ライフ 誕生学の現場から』から気づかされたことです。
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名古屋西別院

2019年04月26日 | 浄土真宗とは?
22~25日まで、佐賀県大立寺での巡番報恩講でした。飲み疲れです。夜、帰院すると「名古屋西別院」(31.4.16日号)が届いていました。2月の報恩講に出講した折り、法話原稿を頼まれ、その法話が掲載されていました。下記は、送った原稿です。

NHKラジオ「子ども科学相談」で小学校一年生の子どもが「どうしたお酒をのむと酔っ払ってふざけたことしてしまうの」の質問がありました。回答者の答えの中に「酒に酔うとどう変わるか実験したとき、簡単に動作テストをした。そして自分で何点くらい取れていると思うか点数をつけてもらう。少し酒が入ってくると、動作が鈍って自己採点が低くなる。しかし酔っ払い酩酊すると始めると、自分はうまく出来たと高い点数になる。これは自己モニター、自分を観察する力が落ちてしまったから…」と答えていました。
 この自己モニターとは、行動心理学でいう自己モニタリング機能のことです。自己モニタリング機能とは、自分と他人を区別し、自分の頭の働きと行動を自分で知って調整する能力であり、自分の置かれている状況などを知る能力です。お酒を飲むと、この機能が落ちるとのことです。
自分の姿は鏡に映して知ることが出来ます。でも最近の鏡も、痩せて見える『シェイプアップ・ミラー』や、資生堂など化粧品メーカーや美容室など多くのところで使用されている顔色がよく見える『スーパーピュアミラー』など油断できません。
では私の心は? ある程度、自己モニタリング機能によって知ることができます。しかし自分の思い込みや都合が入るのであてにはできません。
家庭にあるお仏壇は、私の心をうつす鏡でもあります。阿弥陀さまのまなざしの中にある私が明らかになるのです。
その阿弥陀さまのすぐれたお徳の中に「自利利他円満」(じりりたえんまん)があります。あなたの幸せは、そのまま私の幸せという、自他の隔たりのないこころのことです。

金子みすゞさんの詩に『こころ』 というものがあります。

おかあさまは
おとなで大きいけれど、
おかあさまの
おこころはちいさい。
だって、おかあさまはいいました、
ちいさい私でいっぱいだって。
わたしは子どもで
ちいさいけれど、
ちいさいわたしの
こころは大きい。
だって、大きいおかあさまで、
まだいっぱいにならないで、
いろんなことをおもうから。(以上)

 お母さんは、母ゆえに常に子どものことを思い続けています。それを金子みすゞは、「ちいさい私でいっぱい」と表現しました。阿弥陀さまも、常に私のことでいっぱいというのが「自利利他円満」です。
通常、私たちは「私の心はあなたのことでいっぱい」とはなりません。熊本の友人にSさんがいます。住職ですが、山村部で新聞配達をしています。以前、Sさんが“朝刊を配達すると、たまに「いつも、ありがとうございます」と書いて野菜の詰め合わせが置かれている”と話してくれたことがあります。配達をするお宅は、おおかたご門徒です。それでより「ありがとう」という思いが強かくなるのでしょう。
 新聞配達するSさんには、門徒のためという思いもあるでしょうが、給金や健康に良いなど、自分の利益もあります。Sさんの行動を“私のことでいっぱい”という阿弥陀仏にたとえると、自分の利益をゼロにして、ご門徒の上に「ありがとう」という思いを起こさせるためだけに、一年をかけて新聞配達をするのです。
 私がいま「南無阿弥陀仏」とお念仏を称える。あるいは私のこころに阿弥陀さまを尊いという思いが生まれる。そのためだけに全精力を費やして働いて下さっているのが「自利利他円満」の阿弥陀さまなのです。いつでも、どこでも、どのような状態にあっても、私のことをかけがえのない存在と摂め取ってくださっている仏さま。その阿弥陀さまのまなざしの中にある私に開かれて過ごす。それがお聴聞の生活です。

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