仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

がんの福作用

2022年05月27日 | いい話

当寺の寺報原稿です。

 

Kさんは言葉を編み出す名人です。過日、ある会でのことでした。

 突然の事故でお子さんを亡くされた方が、その死別によって、色々な人と出会い、また見えなかった世界が見えてきたことなどを涙ながらにお話しされました。

 その話を聞いていたKさんが、「亡き子に導かれると言うことがありますが、私は産まれなかった子に導かれてきました。子は“かすがい”と言うが、私のところは、子どもがいないことが“かすがい”となっています」と言われました。その内容は次の通りでした。

Kさんには、お子さんはおられません。ご自身では、その事実を受け容れているが、姑さんが孫の居ないことからくる淋しさや嘆きをこぼされる。また、友人との会話の中で、子どもの話題が出ると寂しさを感じる。それを夫に話したら、夫も会社で結婚した若い社員に、次々と子どもが産まれる。その子どもの話になると、話についていけない疎外感を持つことがある妻であるKさんにうちあけられた。それから子どもがいないことによって起きる寂しさや疎外感を話すことを通してお互いが深まり合っていった。それを「子どもがいないことが、かすがいとなっている」という言葉で表現されたのでした。

 そのkさんは、がん患者でもあります。そのKさんならではの言葉は「がんの福作用」です。副作用のふくは通常の「副」でなく幸福の「福」ですとのこと。なぜ幸福の福なのかと言えば、がんになって色々なことに気づいた。それらの気づきは、病気にならなかったら気づかなかったことなので、幸福の福の「福作用」なのだそうです。

 悲しみや苦しみ、歓迎されない出来事を通して、心を深め、ひろやかな世界に意識が開かれていくということがあるようです

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ぼくはぼく、人は人

2021年12月04日 | いい話

『すばらしい母親の物語―母と子の感動42編』(有吉忠行著)より一遍。以下転載。

 

銀杏がまぶしかった晩秋の一日、小学四年の男の子が信念にあふれた作文を書きました。

 

 「ぼくはぼく、人は人」

 

 今、小学校の高学年や中学生、高校生が、おかしな言葉を使っている。ちよ(-)すごい。むかつく。うっとい。ばっくれる……。どうして、みんなが使うのだろう。きっと、みんなが使っでいるから、自分も使わないと、仲間に入れないと思っているからだろう。

 ぼくは、これは、おかしいと思う。「ぼくはぼく、人は人」という、けじめの心を一人ひとりがしっかり持っていれば、こんな、おかしなことにはならない。みんなが同じ物を持ったり、同じかっこうをしたりして仲間を作っているのも、本当に変だ。

 一人ひとりの考え方が違っていて、お互いに違っている人の心は大切にしながら、仲間にまきこまれてしまわない、自由な、友達関係を作る。これが本当だと思う。だって、人間は一人ひとり違うのが当たり前なんだから。これを忘れたら、その人ではなくなってしまう。

 ぼくは友達がいっぱい欲しい。でも、同じ考えの人とだけ仲良くするのはつまらない。考えの違った人の考えをよく聞きながら、ぼくの心と人の心がいつも新しくつながっていくのが、楽しくて一番いいと思う。

 ぼくは、小学三年生になったとき、父と毋に「千人の子供には千通りの生き方がある」ということを教えられた。特に、いつも、ぼくと話を真剣にしてくれる毋は「ぼくの千通りの中の一つを決めるのは、お父さんでもなく、お母さんでもなく、ぼく自身だからね」「そして、その一つを選ぶのは、人に勝つためにとか、人に負けないためにということではなく、ぼくが、ぼくらしく生きるためだからね」「とにかく、人と比べるひつようはない」などと言ってくれた。

ぼくは、正直、母の言うことはわかるようで、少し、むずかしかった。でも「千人いたら千通り」という意味は、しだいに、はっきりわかってきた。そして今は「ぼくはぼく、人は人」ということもわかった。

 でも、「千通りのうちの一つを、どうして選ぶか」。これは、むずかしい。しかし少しでも自分で学び友達とも語り合いながら、自分を見つめていけば、自然にその生き方が見つかり、それが、最後には自分の「千通りの生き方」の一つになるだろうと思う。とにかく、みんながするから自分もするという「自分のない生き方」だけは、やらないようにする。

 母は、「あとで人の責任にしないようにね。自分への責任さえ持っていれば、どんな千通りの一つでもいいんだよ」と言う。そう言われれば言われるほど、〝責任〟について考えてしまう。(以上)

 

年齢に応じた教えがあるようです。中学生や高校生になって「千人の子供には千通りの生き方がある」という教えを伝えても、ワンポイント的には有効かもしれませんが、人生を貫く教えとならなのではないでしょうか。小学3.4年、これは重要な年ごろのようです。

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将棋の内藤国雄さんの話

2021年11月26日 | いい話

法話メモ帖より

 

 将棋の内藤国雄さんは、十四歳で坂田三吉名人の弟子になっている。将棋以外でも「おゆき」という歌を歌ったり、よくマスコミに登場した人でした。

 その内藤さんが、もう四十数年前、西本願寺の当時のご門主と対談しておられる。その対談で、大山康晴名人が十二年間守っていた王将位を獲得したときのことを次のように語っています。

 二度目の挑戦で獲得したとのこと。一度目は、「負けてともとも」という言葉がきらいで、新聞記者のインタビューにも「大山名人といえども、勝ってもともとのつもりで挑戦します」と答えていた。結果は七番勝負の四番ストレート負け。

 そのとき負けたことは悔しくはないのだが、相手はどう見ても八割程度の力しか出していない。記者と雑談したり、余裕たっぷりの態度。その全力を出しきっていない相手に負けたのがすごく悔しかったのだそうです。二ヶ月悩み、ある時ハッと気づいた。名人は自分を甘く見ていたのではなく、二割の力を残しておくぐらいの気持ちで戦うことが勝ちにつながることを知っておられたのだと。

 また、九段制度ができ、米永八段を破って、初めて九段になったとこのことも語っています。

 勝負は五番勝負。二番続けての負け。毎日イライラの生活。そんなある日、小学一年の次女が書いた「習っていること」という作文を読んでいた。

 傍らで次女が「お父さんは将棋を習ってるんだよね」と言います。とっさに「お父さんは習ってないよ。大先生だよ」と答えた。そのときふと「あれ、自分はいつから大先生になったんだろう」と、習う心を失っているのに気づいたとのこと。それから習う心で指そうと思い、気が楽になり、ストレート勝ちしたのだそうです。                  

  無我という言葉があります。無我とは、我をなくすことではなく、因と縁の上にある自分に開かれていくことです。自己主張だけの「我他彼此」(ガタピシ)生活ではなく、他あるが故に我あることを知ることです。日本人の伝統の上にある謙虚さの美徳は、無我の心の実践でもあります。

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妻の日の愛のかたみに

2021年09月28日 | いい話

法話メモ帳より

 

大映映画 「妻の日の愛のかたみに」 (1965) 若尾文子, 船越英二, 

映画あらすじ

 

歌人の池上三重子が記した同名手記をもとに、木下恵介が脚色し富本壮吉がメガホンをとった愛の物語。難病に冒された若妻が愛をまっとうするために下した決断とは。

 正之と千枝子は昭和28年に見合い結婚をした。千枝子は九州の柳川に嫁ぎ、小学校の教師として働いていた。しかしある日、千枝子は指に痛みを感じチョークを取り落としてしまう。痛みはやがて全身に広がり、関節リウマチと診断される。正之の母は世間体を気にして離婚を勧めるが、正之は別府国立病院に入院した千枝子を必死に看病した。九州では子供を産めない嫁とは離縁するという風習が根強く、千枝子は自分が妻にふさわしくないのではと思い悩む。千枝子は正之に離婚を申し出るが、正之はそれを拒み続けるのだった。(以上)

 

 

池上三重子、幸せ一杯の結婚生活の四年目、悪夢の様な多発性関節リュウマチに悩まされ、それ以後の人生を生ける屍の様な重病にあえいだ三重子さんは、悩み考えた末に、夫を愛するがゆえに別れることが、ただ一つ残された愛の行為と、夫の頼みをふり切って妻の座を捨てました。ところが、夫にとってよかれと願った離婚でしたが、再婚の話を告げられた時に、思いもかけず、自分のいう通りになった夫に対する憎しみ、まだ見ぬ二度目の妻に対する嫉妬で、三重子さんは一年間苦しみぬいた。そんな自分を、「無明の闇」と表現しております。しかしながら、この人生につまづき、涙を流す彼女を照らし、護り励ます如来大悲との出遇いは、やがて彼女の心の傷をいやし、以後の人生を明るく謝念あふれる言葉が綴られていきました。池上三重子さんは2007年(平成19年)3月27日、83歳で逝去されています。

 

『妻の日の愛のかたみに』(池上三重子著)より抜粋してみます。

 

今、私は、全関節をほとんど冒されているのです。同じリウマチ患者が、二十年も三十年も、それ以上の年月をついやしてゆっくりゆっくり進行する病勢が、私の場合は、ばたばたとたてつづけに、四、五年でこうなってしまいました。

 最後のよりどころである両顎関節でさえ、もう後わずかを残すのみの機能の自由です。阻(そ)しゃくと言語、それの閉ざされる未来は、かなしいことですが、確定的な歩みで迫って来ています。

 

彼の幸福を希望するのが本心ならば、真に真に彼を愛するならば、私は、積極的に彼の愛を私から引き離さればならないのだ。私の、愛ならぬこの愛執を断ち切らねばならないのだ。私は、真剣にその方法を模索し始めたのだった。

 

だから私は、純粋な、ひろい愛情で彼を愛することができるのだ。この命のある限り、この愛のにごりなさは不変である‐と、信じきり疑う余地はなかった。

 ところがそうではなかった。

 予想することのできなかった新しい混乱が私を襲ったのである。

 私は、彼に早く後の妻を迎えることをすすめた。離別のときもそれを彼に言い、彼の母に頼んだ。そうさせる為にのみ、私は妻の座を去ったのである。

 それなのに、来るなと言っても来づつける彼の口から、ぽつぽつと後の妻の俟補についてのあれこれを聞きはしめたとき、羨望と嫉妬と憎悪が、思いがけなく、むくむくと頭をもたげて、揺り覚まされる女心を感じた。どこに、いったい私のどこに潜んでいたのであろうか? 今ここに見ている一人の女の狂態のおぞましさはまさしく私に他ならないのだ。(以上)

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親孝行

2021年09月25日 | いい話

法話メモ帳より

 

親孝行

 

江州にすむ、近所でも評判の孝行むすこが、遂に殿さまに見出されて、御ほうびをうけた。江州一の親孝行という折紙がついたのである。

ところが、信州の方に日本一の親孝行なるものがいるといううわさを聞いた。そこで、「日本一とはいったいどんな男だろう」と江州の男は信州へその男をたずねてみることにした。

 やっとのことでたずねあてると、年老いた母親だけがいて、むすこは不在だった。山へたきぎをとりにいっているが、まもなくかえるから、よかったらかえるまで待てと母親はいう。そこでしばらく待っていると、むすこがたきぎを背負ってかえってきた。

 毋親はむすこを見るといそいで土間にとびおり、だきかかえて背中からたきぎを下ろしてやり、わらじをぬがせて足を洗ってやる。終ると今度はゆかに寝かせて、つかれたであろうとせっせと足腰をもんでやる。

 母親が一生懸命になってむすこの足をもんでやっているさまを見て、江州から来た男は「カッ」と腹がたった。「何だ、この大かたりめ。母親に足をもませるとは何たる親不幸。これが日本一とは、全くとんでもないことだ」

 江州の男はいったん、あとをも見ずに立去ったが、また途中で思いかえしてあともどりしてきた。そして信州のむすこに聞いてみた。

  「あなたは日本一の親孝行といわれているそうだが、どうしてそういわれるのか。その秘訣を聞きたい」

 信州のむすこは答えた。

  「私は親孝行がどんなものか全くしりません。だからどうして日本一かわかりませんが、ああやって山からかえると、母親が足を洗ったり、腰をもんだりする。そうしてもらうと、母親がたいへんきげんが良いものですから、まあ。いわば仕方なしにそうしてもらっている」とのこと。

信州のむすこには、親孝行という意識が全くない。ただし母親の喜ぶようにしている。これに引きかえ、江州の男は「親孝行とはこうあるべきだ」固定観念があった。(以上)

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